伊勢国

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伊勢国(いせのくに)。東海道にあり、東と南は海に至り、西は近江国伊賀国大和国、東南は志摩国、西南は紀伊国、北は美濃国尾張国に接する。東西およそ12里、狭いところはおよそ4里、南北およそ27里。

むかし国府を鈴鹿郡に置き、桑名・員弁・朝明・三重・河曲・鈴鹿・庵藝・安濃・一志・飯高・多気・飯野・度会の13郡を管轄し、延喜の制では大国に列する。明治維新の後、朝明郡を廃して三重郡に合併し、河曲・庵藝の2郡を合わせて河芸郡とし、飯高・飯野の2郡を合わせて飯南郡として10郡とし、新たに津・四日市・宇治山田の3市を設けて、三重県に治めさせた。

国名

倭訓栞

いせ 神武天皇の兄に五瀬命がいらっしゃった。『後撰集』に「いせわたる川」などと詠んでいるのはこの意味である(※いせ渡る川は袖より流るればとふにとはれぬ身は浮きぬめり)。また、五十瀬の意味であるともいう。伊勢の国の名義も同じ意味で、『江次第』に「安濃川三瀬を渡る」とあり、『夫木集』には、「鈴鹿山いせ路にかよふ三瀬川の みせばや人に深きこころを」ともあるので、川瀬の多いことからの名前であろう。真名伊勢物語には「妹背」と書き、猿田彦・鈿女命の故事によったのであろうか。古事記に、伊勢部を定めたことが書かれている。

大神宮儀式解

伊勢の名義はわかりにくい。伊鈴川など名だたる川があるので「瀬の国」であったものに「伊」の発語をかぶせ、伊勢ということが言われているが、体語(名詞)に発語があることはない。また、磐余彦天皇の御兄、五瀬命がいらっしゃった国なので伊勢ということもいうが、よい説ではない(度会正身神主、伊勢は伊弉諾尊がお生まれになったので、夫=セの国であり、伊は発語であろう、というが、発語の例にもしたがい、また、伊弉諾尊がこの国にて生まれたという資料がないので、これもまた妥当ではない)。伊勢風土記に「磐余彦天皇の御時、伊勢津彦命この国を奉ったが、天皇は喜ばれて、国神の名をとって伊勢と名付けた」とあるが、この年より前に磐余彦天皇の御歌あり(中略)したがって、風土記の説は国史に合わず、街談を正さず記したものであろう。その上、神代巻下、皇孫降臨条の一書、「吾が名は猿田彦大神云々、吾すなわちまさに伊勢の狭長田五十鈴川上に至るべし」とあるので、神代よりこの名があることは明らかであるが、その名義はなお考察すべきである。

諸国名義考

伊勢 (中略)ある人は伊須受(いすず)の縮まって転化したものであるという。または五瀬命から負った名であるともいう。立入信友は、「風土記に大風四起云々とあることを思えば、「伊」は「息」であり、「勢」はせく、せむる、せまる、せる、せせらぐなどという「せ」であって、すべてものの勢いがあることをいう。この神大風を息吹放つ徳あることから伊勢津彦と言われたのであろう」という。

三国地志

伊勢の名義を按ずるに、前にもあるように、皇孫降臨のとき、すでに「伊勢狭長田五十鈴河上」の語があり、神武東征のとき、神風伊勢の海の御謡があるので、伊勢の国号の始まりは古い。それなのに風土記に伊勢彦から始まる名とするのは誤りであろう。伊勢津彦、伊予津彦など、みなその国を領してから人の名とするものであって、人の名から国名となったのではない。また、伊勢の訓意は明らかではない。婦女の言葉に、衣服を縫うとき、しわを寄せることを「いせる」ということがあるので、垂仁紀に「神風伊勢国則常世之浪重浪帰国也」ということからして、「波いせる」の略語として「いせ」と言うのであろうか。しかし、浪よせる国は、伊勢に限るものではないので、よくわからない。あるいは、伊勢は妹背(いもせ)の中略ともいう。また、歌に「五十瀬渡る」と詠まれるように「五十瀬」であって、猿田彦命から始まって、すなわち五十鈴の略語、土金自然の国号であるともいう。いずれが正しいかわからない。

勢陽五鈴遺響

国号総論

それがし案ずるに、かつての書の説はどれも間違いである。伊勢津彦というときは、伊勢は音読である。神代の国名は音で読むものはない。伊勢津彦とは、何に号することをしらず、諸説信じがたい。思うに、「伊」は助字である。釈日本紀にいう「易喩耆(いゆき)は「行」である。易は助語である。伊輔曳符枳能明流(笛吹上る)、伊は助語である」。万葉集にいう、「伊縁立之(いよりだたしし)御執乃(みとらしの)梓弓之(あずさのゆみの)」「山際伊隠萬代(やまのまに いかくるまで)」「伊往廻流」いずれも助字である。案ずるに、紀伊の伊も厚顔抄に「紀の韻が伊であるから韻を加えた」とある。これはその証拠となるであろう。勢は脊である。伊勢国は山脊国という意味であって、神代自然の称号とすべきである。国形北より南に長く20余里、また東に折れて東西6~7里、あるいは10里、あるいは15里。東西南の三面、志摩、紀伊、大和、伊賀、近江、美濃、尾張に接続して、みな山である。ただ東北の一隅において尾三に対する山海の間に平地がある。海は腹、山は脊である。海腹は少なく、山脊は多い。神代巻いわく、「膂宍之空国(そししのむなくに)を頓丘(ひたお)より国覓(ま)ぎ行去(とほ) りて」、纂疏にいわく、「膂は脊なり」。その山形を考えると似ている。これは地形であって、脊国という意味であり、自然に伊勢と呼ぶようになったのであろう。ゆえに、自国の名によって伊勢津曾孫と呼ばれるようになったものであろう。したがって、国を伊勢というから神の名としたのである。(中略)また、神風の伊勢と連続して言うのは、神風は枕詞である。久方の天、足引の山のたぐいであって、和語のならいである。(中略)伊勢の名義は、区々たる俗説については受容しがたい。その地形が山岳を背に帯びていることによって、勢の国と称したのである。伊は助辞であって紀伊の例と同様であるというのは、今古の確論である。

冠辞考

かんかぜの いせの国

これは「神風の息」というべきところを省いて、伊の一語にいいかけたものである。なぜならば、神代紀に「我所生之国、唯有朝霧、而薫満之哉。乃吹撥之気化為神。号曰級長戸辺命。亦曰級長津彦命。是風神也」(「我が生める国、ただ朝霧のみありて、かおり満てるかな」とのたまいて、すなわち吹き払う気、神となる。号をしなとべのみことともうす。またはしなつひこのみことともうす。これ、風の神なり)といって、風は天津神の御息なので、神風のいきというのである。(註略)さて、万葉集二に(註略)神風爾、息吹惑之、天雲乎、日之目毛不令見(かみかぜに いぶきまどはし あまくもを ひのめもみせず)云々とある。これは先の「吹撥之気」云々の語によって読んでいるので、息吹(いぶき)はすなわち息吹(いきぶき)の上の「き」を省いたことは同じである。大祓詞に「気吹戸主止云神、根国底之国爾 気吹放弖牟」(いぶきどぬしといふかみ、ねのくにそこのくににいぶきはなちてむ)というのも、気を「い」とだけ読んでいる。一語にのみかかる冠辞の例は多い(註略)

建置沿革

  • 伊勢国造 橿原朝(神武)天降天牟久怒命の孫・天日鷲命(本書頭書に牟久怒は牟羅久母怒の脱誤であり、日鷲は日別の誤謬であると書かれている)、国造とする。
  • いにしえ、国府を鈴鹿郡に置く。
  • もともと19郡あったが、4郡を割いて伊賀国を置いた。
  • 武烈天皇朝に2郡を割いて志摩国を置いた。
  • 鎌倉幕府において、平賀朝雅、大内惟信、相次いで守護となる。
  • 建武中興、北畠顕能を州守に任じ、志摩を兼治し、一志郡多藝に居る。子孫、任を継ぐ。
  • 足利尊氏が反して、仁木義長を守護とし、北畠氏を攻めさせる。義長が吉野に帰順するに及び、足利義詮は土岐頼康をもって代えた。このとき、州族・長野藤房は長野城に拠り、安濃・奄藝2郡を領す。関・神戸・峯・鹿伏兎・国府の5族(鈴鹿・河曲2郡に拠る)はみなこれに応じ、ともに北畠氏を拒む。
  • 元中の末、南北講和。顕能の子・顕泰、南境5郡(一志・多気・飯野・飯高・度会)を領し、国司となる。
  • 土岐氏また守護を3代継ぐ。永享年間、土岐持頼が誅せられて後、土豪48族、北伊勢の地で争うこと数十年、統一されることなし。
  • 顕泰の曾孫・政具に至り、勢いようやく強くなり、長野・神戸諸氏を降し、全州に号令する。
  • 政具の曾孫・具教に至り、織田信長がその北境を侵し、弟・信包に長野氏を継がせ、第三子信孝を神戸氏の後とし、みなその地を略奪する。また滝川一益を北境5郡(桑名、員弁、朝明、三重、鈴鹿)に封じ、長島に居らせる。
  • 永禄12年、具教、信長と和し、国をその子信意に譲り、信長の二子信雄を信意の養子とし、松島に居らせる。
  • 天正4年、信長、具教を殺し、信意を幽閉し、北畠氏を滅ぼし、ことごとく本州を併合する。
  • 信長が殺された後、信雄、尾張清洲に移る。
  • 豊臣秀吉、一益の封を奪って信雄に与え、南5郡に蒲生氏郷を封じ、松坂で治めさせる。
  • 信雄、関一政に亀山を与える。一政は後に白河に転封。
  • 天正18年、秀吉、信雄の封をすべて奪い、那須に放逐、北5郡を養子秀次に賜う。
  • 氏郷移封後、服部一忠、古田重勝、相次いで松坂で治める。
  • 文禄の初め、信包の地を収め、分部光嘉を上野に、富田知信を安濃津に封じる。
  • 文禄4年、秀次自殺。氏家行広を桑名に封じる。
  • 徳川氏に至って、菅沼定仍を長島に(後、増山正弥)、一柳直盛を神戸に(後、本多忠純)、松平忠明を亀山に(後、石川総慶)、土方雄久を薦野に封じ、古田重勝を浜田に移し、松坂を徳川頼宣に加賜し、分部・富田2氏を他州に移し、藤堂高虎を封じて安濃津に置く。その支封を久居(藤堂高次二男高通)とする。
  • 関ヶ原の合戦の後、行広の地を没収し、本多忠勝を桑名に封じる。
  • 元和年間、嗣子・忠政を姫路に転じさせた後、松平定勝、松平定綱、松平忠雅、相次いで封じられ、忠雅の後7世にして忍に移り、定綱10世の孫定永また封ぜられる。
  • 7藩みな世襲、さらに山田奉行を置き、神宮のことを司らせる。
  • 王政革新、度会府を山田に置き、改めて県と称する。諸藩を廃して、安濃津・度会2県とし、安濃津を四日市に移し、三重県と改称する。

  • 桑名 クハナ
    〔勢陽五鈴遺響 桑名郡一〕桑名と称する名義は、相伝云、古き名であって太古のとき、天照大神がこの伊勢に宮処を定めようとして、大鳥に化してこの地の桑原に天降り、桑の若枝に止まり座したのをもって、扶桑若木の名が起こり、そこを桑名と号す、と詮要抄に載っている。また、美濃と尾張の境であって、桑の木を植えたものであると古咏国風に諷してあり、これが郡名の起源であろう、と桑名郡賦にある。おもうに、桑名はすなわち桑田の通音であって、名と田は相通じる。あえて名というのにこだわるべきではない。これによるならば、この地の総名であって、本郡に桑部村がある。これも田と同じである。旧桑名神社の所在である。
  • 員弁 イナベ
  • 朝明 アサケ
    〔勢陽五鈴遺響 朝明郡一〕名義はある説に、朝明山と歌に称し、まさに今、員弁郡より山脈が連綿と連なって街道の北西には小山がある。西南に向かって田光山、国見嶽、水無瀬山などの高山が連なってそびえている。近江国に隣り合って境となっている。これを総称して朝明山と呼んだものである。(中略)姓氏録にいう、「朝家直火明命の後なり」云々。(中略)それゆえ火明命の名から起こって、昭明の意味をとって朝明と郡名に称したのである。
  • 三重 ミヘ
    〔勢陽五鈴遺響 三重郡一〕三重と称する名義は、もと景行天皇朝に日本武尊東征のとき、古事記にいう、「その地より三重村に至るとき、また詔していわく、わが足は三重にまがるがごとくはなはだ疲れている。ゆえにその地を号して三重という」。
  • 河曲 カハワ
    〔勢陽五鈴遺響 河曲郡一〕河曲と称す名義は、和名類聚抄に、「河曲、加波和(カハワ)と訓じて、今、略して加波の郡とも俗称する」。拾芥抄に「河曲を河久摩(カハクマ)と訓ず。(中略)本郡は鈴鹿川の下流に、甲斐川、高岡の大河、その郡の北にあり、また服部郷の大流、郡の南にあり。南北相対して二河の隈にあるをもってカハクマを略してカハワと称す」。
  • 鈴鹿 スズカ
  • 奄藝 アムキ
  • 安濃 アノ
  • 一志 イチシ
  • 飯高 イヒタカ
  • 飯野 イヒノ
  • 多気 タケ/タキ
    〔勢陽五鈴遺響 多気郡一〕多気と称する名義は、もと竹郡であって、後に二字にするために字を借りて多気と称したものである。
  • 度会 ワタラヒ

日本の旧国名

これらの項目の情報は主に『古事類苑』地部1~2を参考にしている。