「東京奠都の真相」の版間の差分

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2009年9月24日 (木) 10:24時点における最新版

東京奠都の真相(とうきょうてんとのしんそう)は、大正六年(1917年)岡部精一(岡部簾月)が執筆した著書であり、東京奠都(東京に都を定めたこと)についての歴史的史料をまとめたものである。大正六年はまさに東京奠都50周年にあたる。

以下は、『東京奠都の真相』を松永英明が現代語訳したものである。

(巻頭の辞)

「江戸は東国第一の大鎮、四方輻輳の地、宜しく親臨以て其政を視るべし、因て自今江戸を称して東京とせん、是れ朕の海内一家、東西同視する所以なり、」と

大詔一下して、江戸は東京となった。さて、東国の野はもとより一種の文化を有している。もって西方の京畿の文化と駢馳(ならぶ)していた。源氏は早くにここに根拠をおいて、武門のさきがけとなり、源頼朝に至って覇業を鎌倉の地に建てた。それ以来、幾多の変遷があった。江戸幕府が興るに及んで、いわゆる東国の文化は旺盛を極めた。しかし、帝国の国体は覇府の存立を許さない。ここにおいて明治維新があった。七百年の武家政権は一朝に破れ、帝権の復古を致した。

 明治維新の精神は神武創業に則るものである。神武天皇は青山が四周する大和を指して都を奠(さだ)められ、初めて日本帝国があった。しかし、それ以来帝都の地は畿内地方の外に出なかった。天子が蹕(さきばらい)を関以東に啓(ひら)かせられたのは、中古以来絶無のことである。明治天皇は允文允歩(文武両道にすぐれており)、維新の大業を建て、即位してすぐ直ちに東国文化の中枢を指摘して奠鼎(てんてい=都をさだめる)の大詔を渙発し、さらにその地に移って万機を親裁し、もって先王未発の偉業を敢行なさった。すなわち、帝国内における東西の文化を合一し、公武の対立を融解し、東国の士民を塗炭の苦しみから救い、こうして海内一家の実をお上げになった。ここにおいて帝国はその生命を新たにし、初めて世界的躍進の途に上った。それ以来春秋五十年、躍進的武歩を続行して、優に列強に数えられるようになった。すなわち、東京奠都は新日本の世界に向かって発展した躍進の第一歩であることがわかる。京都に至っては、千年の帝京であって、歴代宗廟が存在しているところである。これを廃することなく、東都と並立させられた聖謨の宏遠を奉頌せずにはいられない。また、遷都不可の理由のもとに両京の市民を融和してさほどの動揺をさせなかった輔弼臣僚の巧妙な献替もまた称揚しないわけにはいかない。

 東京奠都は以上諸般の意義において実に絶大の史的価値を有するものである。しかし、世人はややもすれば帝国五十年の躍進的進歩に幻惑させられ、恬然としてこれら史実の真価をおしはかることができない。奠都の真相を考究せずにすませることなどできようか。

 わたしは昨秋以来、東京奠都の史実を考えて、いささかこの真相を明らかにすることに努めてきた。そうして本年、まさに奠都五十年にあたり、記念祝賀の事業が勃然として都下に起こっている。たまたま書肆・仁友社の社主が来訪し、都人士が奠都の史的意義を知ろうと欲する気持ちが切実であるため、わたしが新研究を敢行してその渇望をいやすことを求めてきた。請願はすこぶる切実であった。そこで昨秋以来の旧稿を補綴し、二、三の新資料を加えて与えた。もとよりいささかも時候に合わせようとしたものではない。一片の真心は、ただ真摯な研究的態度のもとに絶大な史的意義のある奠都の真相を明らかにしようとすることにある。区々の小編、渺漠たる史海に涓滴を貢献することができれば、望外の幸福というべきである。いささかこのよしを述べて、あえて巻頭の辞とする。

 大正六年五月中澣

  庭前の杜鵑花(サツキツツジ)満開の時、筆硯を清め、はるかに禁苑の緑林を拝して、麹町の仮寓に

  岡部 簾月 識

例言

一、本書題して『東京奠都の真相』というが、果たして真相を闡明にできたかどうかはすこぶる疑問である。ただ、著者が昨秋来力を収集に尽くした資料に基づいて試みた一小史的研究にすぎない。

一、本書中には奠都当時の関係者であって今なお生存しておられる人々の言動に論及したものが少なくない。これら諸賢に対して著者はもとより言論を謹むよう努めた。それでも行間にもし敬を失するようなものがあれば、これは著者の不徳の致すところであって、決して本意に出たものではない。願わくば海嶽の襟度を垂れられんことを。

一、本書の編纂に当たり、材料の供給に関しては文部省維新史料編纂会の助力を受けたものが最も多い。本書の成るのはひとえに同会の恩責というべきである。ここに刊行に際し同会に対して特に感謝の意を表す。

一、男爵牧野伸顕氏および文学博士佐々木信淵氏が、秘蔵の史料を供給されたり、貴重な知識を与えられたのは、著者の最も感謝するところである。その他、編纂に関して陰に陽に補助と便宜とを与えられた諸君に対し、満腔の謝意を表す。

 大正六年五月

  著者 識

目次

  • 緒論
  • 第一章 徳川時代の遷都論者
    • 一 賀茂真淵の東国遷都論
    • 二 佐藤信淵の宇内混同秘策と両京定置
    • 三 膳所藩士・高橋作也の遷都論
  • 第二章 明治維新の初頭における大阪遷都論
    • 一 大阪遷都論の発端
    • 二 薩摩藩士・伊地知正治の大阪遷都論
    • 三 参与兼内国事務掛・大久保利通の大阪遷都の建議
    • 四 大久保利通の遷都建議に対する反対論
    • 五 大阪遷都の議変じて御巡幸となる
  • 第三章 江戸遷都論
    • 一 前島密の江戸遷都論
    • 二 薩藩士・黒田清綱、翰林藩士・岡谷繁実の江戸遷都論
    • 三 徴士・大木喬任および江藤新平の両京併置の建白
    • 四 水戸藩士・北島秀朝の東都設置論
    • 五 関東大監察使の設置 三条・大久保の東行
  • 第四章 東都の奠鼎
    • 一 総裁局顧問・木戸孝允ら三京鼎立の建議
    • 二 木戸孝允・大木喬任の江戸差遣
    • 三 江戸をもって東京となす
    • 四 車駕東幸の発令とこれに対する反対論
  • 第五章 明治天皇の御東幸
    • 一 御東幸の準備
    • 二 初度の御東幸
    • 三 京都への御還幸
    • 四 遷都不可論の旺盛
    • 五 神宮御親謁と再度の御東幸
    • 六 御還幸の延期

緒論

 謹んで国史を考えると、我が国の帝都の地は古来、三大遷移があったのを見る。第一は、神武天皇が西海から大和平野に遷られたものである。第二は、桓武天皇が大和から山城平野に遷られたものである。そして第三は、明治天皇が山城から関東平野に遷られたものである。「世界の文明は西方から東漸する」と人々はいう。そして、我が帝国内においてもまた等しくその東漸があるのを見る。まず、第一の文明中枢は大和平野にあり、第二中枢は山城平野にあり、そして第三中枢は実に関東平野にある。これら三中枢のいずれも帝都の地と一致することについては論を待たない。そして、日本においてこの三大文明中枢の座を有させたものは、実に三代天皇の賜がなければならなかった。ここに東都奠鼎の史を叙するにのぞみ、まず謹んで三帝に向かって奉頌の微衷を呈する。

 神武天皇より文武天皇に至るまで歴世御代の改まるごとに、必ず旧都の地を離れて新宮を建てられるのを常としていた。これは必ずしも後世のいわゆる遷都の意味ではなかっただろうが、古史では往々にしてこれを遷都としている。そしてこの真の歴史的意義を論ずるのはしばらく措き、今仮にこれを真の遷都と見なしておいたとしても、その遷都は二、三の除外例のほか、歴代いずれも大和平野の範囲内においてなされたものである。――成務天皇の志賀高穴穂宮(近江)、仲哀天皇の角鹿笥飯宮(越前)、穴門豊浦美也(長門)、筑紫香椎宮(筑前)、仁徳天皇の難波高津宮(摂津)、継体天皇の樟葉宮(河内)、筒城宮(山城)、弟国宮(山城)、孝徳天皇の長柄豊崎宮(摂津)、天智天皇の志賀大積や(近江)は、いずれも大和以外の地である。ただし、これらの中には離宮の意を有する者もあって、すべてが本宮ではなかったのである。――元明天皇に至り、奈良に奠都あって、平城京は淳仁天皇に至る七代の帝都となった。しかも奈良の地もまた同じく大和平野の外に出なかった。こうして我が上代の文明は青山四周の大和平野に涵養されて、後世の大和民族発展の基礎を形成した。このために、わたしは第一期の文明中枢は大和平野にあるというのである。そして、この基を開かれたのが神武天皇なのである。

 桓武天皇延暦十三年、山城国葛野郡宇太村の地を相して平安京を起こされたのに及んで、大和平野に発達してきた我が民族の文明は山城平野に遷り、山紫水明の境に山河襟帯、自然の城郭を構えて、ゆるぎない皇国の帝都が奠められ、淀川の流域における平野をあわせて、いわゆる上方と呼ばれ、千年の久しい間、我が帝国文明の中枢であった。ただし、その間においてただ一度だけ、高倉天皇の治承四年(1181年)、平清盛が政権を掌握するに当たって、一時、摂津の福原に遷都したことがあったが、期年(まる一年)経たないうちに旧都に復しただけでなく、福原の地はこれを地理上から考えれば同じく淀川の流域に属するものとみて差し支えなく、上方をもって呼ばれる範囲に属するので、すなわち山城平野の外に出なかったのである。このため、わたしは第二期の文明中枢は山城平野にあるというのである。そして、この基を開かれたのが桓武天皇なのである。

 第三期文明の中枢である関東平野は、日本本土の腹部にして帝国最緊要の地である。太古は蝦夷蕃衍の叢窟であって、これが服属したのは遠く日本武尊の武勲に始まる。奈良時代のころからこの地方での拓殖の業は盛んに行なわれ、その広潤な地域の沃饒と、その物資の豊富さとによって、平安朝に至って強大な豪族がこの地方に集中し、その兵力と財力によって武士という社会の一階級の勃興を見るに至った。源頼朝は名門の出をもってこの階級を代表し、蛭ヶ小島の流人から身を起こし、風雲に際会して平氏を滅ぼし、幕府を鎌倉に建てて政権を掌握し、将軍の名をもって天下に号令する。こうして関東文明中枢の基が開け、鎌倉は京都と対立し、日本に初めて東西の両中心があるようになった。これ以来、京都は名義上の中心となり、関東は実力の中心となった。これより東西名実の両勢力は、ともども駢馳(併存)して、もって日本帝国の歴史を構成した。鎌倉以後の我が国史は、実に東西両勢力の競争史である。こうして、その西方勢力は前に言った第二期文明の中枢である山城平野に拠った人文であって、これを地理について言えば、いわゆる上方文明である――こういう場合にもし文明という言葉を用いてよければ、だが――。これを方位について言えば西方文明である。これを人間について言えば公家文明である。これに対して、当方勢力は実にこの関東平野に拠る人文であって、これを地理的にいえば関東文明である。方位から言えば東方文明である。これを人間についていえば武家文明である。公家文明と武家文明、これはよい対照ではないだろうか。今、試みに両文明の特質を挙げよう。まず一方は文的であって、他方は武的である。一方は優美であって、他方は質実である。一方は繊巧であって他方は粗大である。「布団着て寝たる姿の東山」は牛車の轍に春風のどかな京都の気分とあいまって、佳麗なる公家文明を表現し、千古の雪が秋の日陰に照り映えて白扇逆さまに東海の天にかかる富嶽の英姿は宕抜な武家文明を代表する。狩衣に指貫を着けた大宮人が、白波ゆるやかに打ち寄せる長いみぎわの銀砂を踏んで「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く船」を惜しむ風情は、実に上方文明の精髄といえるだろう。しかし、また、紺糸威の小手脛当に身を固め、見るからに鋭気溌剌たる「もののふの矢並つくらふ小手の上にあられたばしる那須の篠原」の光景は関東ならでは見られぬ風致ではなかろうか。ああ、東西文明の対立、これは近古以来の日本社会の現象であって、このようになった主な原因は、いくらかは我が帝国の地理的状態に帰せねばならない。こうして、武的文明は文的文明を圧迫して七百年の覇政をもたらし、室町を経て江戸幕府に至り、関東平野の中枢に根拠して三百年間武家政治の極治を致し、東方文明の光輝を放った。

 それはそうであるのだが、我が帝国の国体はもともと武家の覇政を許さない。東方文明の跋扈は皇国の国状と相容れない。開闢の劈頭における皇祖の神勅は炳として千載を照らす。ここにおいて明治維新の大改革があった。大権はこれによって皇室に還り、王政はこれによって復古した。すなわち東京奠鼎の大詔渙発し、やがて鳳輦(天子の乗り物)の東幸あって、東国千万の民は初めて天子の盛を仰ぐことができた。東京奠都は実に東西の両勢力を合一し、公武両文明の特質を融解し、帝国をうって一丸となして、いわゆる普天率土(天の覆う限り、地の続く限り)の実を挙げたものである。この意義において、東京奠都の日本歴史における価値は実に絶大なものがあるというべきだ。こうして、この偉業を完成された方が明治天皇なのである。

 神武・桓武・明治三帝の帝都奠鼎の意義は以上のようである。こうして、ここに最も注意を怠ってはならないことがある。それは、明治天皇の東京奠都は決して遷都ではないということである。東京はその文字が示すとおり、東方の帝京であって、西方の京都と東西並んで帝国の首都である。天皇の大詔に「自今江戸を称して東京とせん是朕の海内一家、東西同視する所以なり」とおっしゃられた。聖旨炳乎として日月のようである。わたしが以上に主唱してきたいわゆる東西公武両文明の合一が東京奠都によって初めてその実を挙げ、こうして帝国本来の意義を現出したのである。すなわち、東京奠都は、神武が大和に、桓武が山城に遷都されたのとは趣を異にするものがあることがわかる。東西両京の設定は実に当時自然の必要から起こったものであって、七百年間文武両文明が並立してきた結果を尊重したものと言わねばならない。鎌倉以来、東国文明の発展はとうてい無視できないものである。しかもまた、千有余年の久しい間動かなかった帝都として栄えてきた京都の文明も決して捨てるべきではない。ここにおいて東西両京の併置となり、海内一家、東西同視の聖詔となった。しかも東幸のことは実に当時至難の業であった、天皇は非常な英断をもってこの至難の大業を決行し、一方には京都市民の不平を巧みに慰めてそれほどの動揺がないようにされた。輔弼臣僚の巧妙な政策もあずかって力があったが、、この大帝の聖徳がなければどうして円満な効果をあらわすことができただろうか。ああ、偉大なるかな明治大帝の宏徳、わたしはこれを奉頌する言葉がないことに苦しむ。

 人々は「明治維新は王政の復古である」と称している。わたしがこれを見れば、どうして復古だけであろうか。日本帝国は明治維新によってその生命を新たにした。旧日本はこの改革によってまったくその面目を一新し、ここに新日本として生まれ出て、さらに世界に向かって躍進した。こうして、東京奠都は新日本が世界に向かってなした躍進の第一歩というべきである。国史を見ると、帝国上下二千五百年、歴代の天皇で鳳輦を関以東に進められたものは、上古はさておき、中世以降はまさに明治天皇お一人だけである。こうして鳳輦がひとたび東京に幸してから、日本は一躍して世界の強国に伍し、振古いまだかつてないほどの盛大を致している。この意味においても、また東京奠都の価値の絶大であることがわかる。しかも人はみな奠都五十年、躍進的文明の光華に幻惑させられて、東幸の真価を推し量ることもできない。ましてや、鎌倉以来、東西公武両勢力の合一という歴史的意義の間に潜んでいるものがあるのを知らないのはもちろんである。これら真正の意義は、歴史の研究によらなければどうしてこれを明らかにすることができようか。

 近年、「奠都五十年間、帝国の進歩は日本歴史の一大奇跡なり」という人もいる。それはそうかもしれない。しかし、近古七百年間、帝国の東西文武両勢力の競争によって我が国体の精華が明らかになり、我が社会の心胆が練られ、もって幕末以来殺到してきた海外勢力を受容する準備を整えてきたのである。この準備があってはじめて、よく五十年の進歩という結果になったのである。だから、わたしに言わせれば、この進歩はまさにこうあるべき自然の結果であって、決して奇跡ではない。そして、そのいわゆる準備というものが事実として現われたのが東京奠都にほかならない。ああ、東京奠都!! これは最近五十年史の劈頭を飾る大事業であって、今日の日本帝国を知ろうとするものはまずその意義から始めなければならない。奠都の真相を極めずにいられようか。これこそが本編の著のある理由なのである。