ヤン・リーウェイ物語(その1)
解放軍報の記事には、楊利偉氏の詳しい経歴が描かれている。長いので分割して紹介。今回は生まれてから空軍パイロットとして活躍するまでのところです。なお、適当にごまかして訳してますので(笑)、記事や論文で使うときはご注意。
前世紀の80年代、中国を訪問したアメリカのある宇宙飛行士がこんな話をした。「人類で最初に月に行こうと思ったのは、若くて美しい中国の女性でした。世界で最初に月に到達したのは、アメリカ人でした」。この自信に満ちて誇らしげなアメリカ人も、中国人がこんなことを成し遂げる能力を持っているなどとは想像だにしなかっただろう。中国人は大言壮語はしなかったが、黙々と世界の宇宙飛行の科学技術の足取りを追いかけ、新世紀の曙光の中で、自ら磨き上げた神舟宇宙線で、自ら養成した宇宙飛行士を太空に送り届け、ソ連・アメリカに次ぐ第三の宇宙大国となったのである。
(一) 人類はまさに神舟五号が太空に飛び上がった西暦紀元2003年10月15日9時を記念すべきときとするだろう。そして、全世界は「楊利偉」という中国人の名を刻みつける。「天下第一関」と称される山海関を越えたところ、遼寧省の綏中という地方に来れば、ここが「中国初の宇宙飛行士」楊利偉の故郷なのである。中国の「五湖四海」の一つである渤海湾の中には、真珠のように多くの都市がある。大連、唐山、秦皇島、天津、煙台……。これらの土地には一つずつに港湾があり、みな悲壮で感動的な歴史を有している。孟姜女の哭いた長城、八仙過海、日露戦争、天津条約、義和団蜂起、開灤炭鉱の大規模なストライキ、遼沈戦役、唐山地震……。これらの古代・近代・現代の、神話的・伝奇的・歴史的故事は、中華民族の長い歴史の中の不朽の章をなし、この地方の風土の児女を育て、自ら努め励んでやまず、中華民族精神を振興してきた。
楊利偉は1965年6月21日に遼寧省綏中県の読書人の家庭に生まれた。両親はともに建国初期に卒業した大学生で、父親はまず教師となり、それから公務員となった。母親は県の中学の国語の教師で、定年退職している。楊利偉にはお姉さんが一人、弟が一人いる。5人家族はむつまじく、気楽で平穏な生活を送ってきた。楊利偉を良く知っている人は、小さい頃は非常に腕白だが、頭はよく、反応は早く、よく頭を使ったという。小学校卒業時、ずば抜けた成績で県の重点中学のエリートクラスを受験して入った。何度も全県中学生の数学コンテストに参加し、賞を手にした。楊利偉の父母は子供を厳しくしつけ、文化・課外を学ぶだけでなく、絵を学び、音楽を学ぶようにもいった。また子供たちには常に着実にものごとを処理するよう、正直に処するように教育した。時には子供への管理を緩め、冬・夏休みには一人で興城の農村の故郷に帰って遊ぶことを許した。そこで彼は畑仕事をしたり、海を見たり、古い友達を訪ねたりした。
楊利偉の故郷は、山のすぐそばに海のある美しい村落である。明け方、真っ赤な大洋が海面から上り、農夫の家からは煙が立ち上り、漁師の小舟は大海に向かう。夕方、漁船は魚やエビを満載して港に入り、大人も子供も急いでかごから魚や蟹を拾いあげる。村内の農夫は、漁をしたり耕作したりして、静かな生活を守ってきた。まさにこの独特な生活環境が、楊利偉を深くひきつけた。夏休み・冬休みには、おじさんかおばさんの家に来て、小さな仲間たちを連れて「訓練」をし、小さな仲間たちは海の中で尻も丸出しで水遊びしている。ときには一緒に「土銃洋砲」で山に登り、陣地を占領した。仲間たちは利偉のことが大好きだった。彼は町の子だったので、知識も広く、それでいて田舎には親しみを持っていたので、近づきやすく、いつもみんなが話を聞きたがった。楊利偉も仲間たちが好きで、故郷が好きなので、ここでは新しい発見、新しい楽しみがあった。井戸の深さを調べるため、水中に石を投げたり、おじさんの竹の刀が鋭いかどうか確かめるために、おばさんの家に植えてあるあるフユアオイを切ってみたりした。
ある年の正月5日に、彼は二人の仲間と一緒に遠くの山に小さな頂があるのを見て、それが何かわからなかったので探索に行った。3人は6度も河を渡って四、五十里の道を歩き、山に登って、それが烽火台だとわかった。家に帰る途中、もう真っ暗になっており、深いところ・浅いところがどこかもわからず、一人は一度冷たい河の中に落ち、残る二人で落ちた子を岸になんとかして引っ張り上げた。一日中何も食べずに百里の道を歩き、お腹が減っても氷では原の足しにもならず、家に着いたときには靴もズボンも凍って固まってしまっており、寒さに震えていた。彼らがどこにいったか探すために、家の人たちは村の内外を半日も探していたのである……渤海湾が楊利偉を養育し、剛毅・素朴であると同時に穏やかで上品な正確を作り揚げたのである。藍色の海の上で、彼は一羽のカモメのように、青空に向かって飛び立った。
1983年の夏、楊利偉は空軍第二航空学校に入学し、空軍パイロットの苦しい過程に入った。四年間の学校生活の中で、学習の訓練成績はずっととても優秀で、すべての科目はみんなずば抜けていた。1987年の卒業後、空軍のある師団の攻撃機パイロットになり、また師団内の飛行エリートになった。1992年の夏、戦友たちと新彊に来て訓練任務を遂行した。あるとき、彼は戦闘機を操縦してトルファン艾丁湖上空で低空飛行を行った。それを始めたとき、突然大きな音が聞こえた。ブレーキをかけたが、温度が急に上昇し、エンジンの回転速度が急降下した。楊利偉は、飛行訓練中にやった「空中停車」、つまりエンジンの故障に出くわしたのだとわかった。この緊急の瀬戸際でも、彼の心には一つの思いしかなかった。絶対に飛行機を操縦して戻る! 彼は冷静にしっかりと操縦桿を握って操作し、飛行機を倒して滑空させ、ゆっくりと地上500メートルまで上り、天山山脈の峰を越えて、馬蘭飛行場へと着陸させた。滑走路に接近したときにもエンジンは動かず、離着陸装置も出てこなかったので、彼は果断にも液圧をとって緊急に装置を放ち、戦闘機を不時着させたのである。彼が機関室から出て来たとき、服はすでにびしょびしょで、戦友たちが次から次へと取り囲んできた。副師長は感動してその場で宣言し、楊利偉は三等功績を与えられた。空軍部隊にいた10年間のあいだに、楊利偉は優秀な攻撃機パイロットというだけでなく、優秀な改良型戦闘機パイロットにもなった。華北から西北に異動し、西北から西南に異動し、祖国の万里の空の上のあちこちに影を残したのだった……。
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