百年前の牛丼屋(というか牛鍋店)
別に牛丼という料理が日本から消えたわけではないのだが、「牛丼の吉野家」から牛丼メニューが消えたことは一大ニュースとなった。
吉野家 牛丼の歴史より
明治初期の風物を伝える服部誠一(撫松)の『東京新繁昌記』(明治七年~)という本に「牛肉店」という項目がある。これぞ「百年前の牛丼屋」(牛鍋メインだけど。あと、正確には130年前)の様子を伝える文章といえよう。というわけで、この項目を現代語訳してみた。そもそも、牛丼のルーツといわれているのは、明治時代に流行った牛鍋の残り汁をかけた丼飯。それまで、牛丼を食べる習慣がなかった庶民の前に登場した牛鍋という料理、そしてその副産物ともいえるメニューが牛丼だったのです。
牛肉店
牛肉は人にとっては、開化の薬屋、文明の良薬である。これは精神を養うことができ、胃腸を健やかにすることができ、血脈を助けることができ、皮・肉を肥やすことができる。これは良薬だけど口に甘く、良食であって腹に適している。しかもその効能が速やかなのは、喰ってその効能を知るべきだ。これを旧習病・因循病に用いるなら、たとえ頑固な症状であったとしても、一鍋で気力を発し、十鍋で完全に直すであろう。この良薬があれば七年の粟も店を閉じ、三年のヨモギも値打ちがない。一かたまりの肉で十の病を治し、十の蹄で百の病を救う。千効万能、百帖の苦い薬を飲むよりは、一鍋の甘い肉を喰う方がいい。その製法については、煮たり、焼いたり、漬けたり、乾したり。
その薬店を見れば、紅肉が並んでいる。肥えた大股もあり、忘れることはできない。一さじの肉で老人は一寸の寿命を延ばし、一鍋の肉で書生の朝の空腹を満たすことができる。喰わんかな、喰わんかな。たとえ私は白米の飯を食わなくても、肉を食って百年の妙齢を保ってやるぞ。首陽山の伯夷・叔齊のようにワラビだけ食って死ぬなんてバカバカしい。ご養生、ご養生。たとえ私はカツオの刺身を食わなくても、鍋を買って一きれの肉を蓄えるぞ。孔子のように陳と蔡の国境で食料が尽きるなんてドンクサイ。
この肉店が都下に並んだのはまだ最近のことだが、もう数は数え切れない。ウナギを圧倒し、山鯨(イノシシ)を呑み込み、各町の坊に看板の出ていないところはない。肉の流行は汽車に乗ってニュースを伝えるよりも速いものだ。
肉店には三等級ある。旗を店先に翻すのは上等だ。行灯を角に掲げるのは中等だ。障子戸を看板代わりにしているのは下等だ。みな朱で牛肉という二文字を書いている。これは鮮肉を表わしている。
鍋にもまた二等級ある。ネギと一緒に煮るのを並鍋という。値は三銭半。脂で鍋をこすって煮るのを焼鍋という。値は五銭。
一客一鍋、火盆ごと出す。酒を注文する者もあれば、飯を注文する者もいる。火をつければ肉は縮む。
肉を食べるときは和をもって貴しとなす。老人も若いのもこれに従う。もう食べに食べてお腹一杯、体も温まり、佳境に入る。
客は店の二階に座っていた。そのとき、ブタをひいて店の前を過ぎる者がいた。客はこれを見て言った。
「ブタをどうするんだね」
「屠殺場でばらすとこなんだが」
「そいつがフタフタと死地に赴くようなのは見るに忍びないね。牛をそれと交換してくれよ」
その客は肉を味わってなかったのだな。牛とブタが同じなんてことはありえない。
もし牛を屠ったら、その肉も捨ててはいけない。私は叩いて食べるよ。その糞も捨てちゃいかん。カラスの餌にはなるんだから。
これが霊薬として力を発揮するのは味噌にしたときだ。ああ、不老の大薬、ああ、不死の良医。
君、牛よ、私は君に引導を渡そう。君は
君の魂に霊力があるなら、私の愚かさを養って上質の智となし、必ず月に金いくらかを得させておくれ。三年喰ってもまだ官職を得られていない。銭もたまっていない。
また、君は短命を嘆いてはならない。「身を殺して仁をなす」とは君のことだ。死んで人に利益をもたらすならば、どうしてこの世に恨みがあろう。君が老いてカスの中で死ぬよりも、鍋に入って成仏する方がいい。
最近聞いたのだけど、君はときどき美人の口に入るが、それは極楽浄土の往生だ。あるときは英雄の腹に葬られ、あるときは美人の腸に収まる。これもまた縁ではありませんか。もし道路で死んでむなしく腐ってしまうなら、どうしてこんな大葬をしてもらえようか。牛よ、君は吼えてはならない。牛よ、君は嘆いてはならない。私はいろいろはかりごとをめぐらても、まだ大臣にお近づきはできていない。財布をはたいても、まだ美人の手に触れることはできていない。君は死肉のくせに、生きている私よりはるかに恵まれているではないか。私は自分の肉を屠って、君のようになりたいと思うほどだ。そうしたら願いがかなうかもな。しかし、食べる人が私の肉だと知ったなら、必ず吐いて野良犬どもに投げ与えるだろう。果報は寝て待てというが、私はそのときを待つにも至らない。ましてや腹が不平を言ってるぞ。腹が鳴ってゴロゴロ、ああ、牛肉に満足したようだ。
露店を開いて肉を売る者がいる。これを烹籠(にこみ)という。これは肉店に上がることのできない貧乏人相手だ。不精オヤジが水バナをすすりながら作る。竹串で肉を貫き、これを大鍋に入れる。火は常についていて、肉は常に沸いている。一串で値段は文久二孔。オヤジが「にこみあったかい」と呼び込みをする。
店を四通の街に開くときは、必ず人や人力車のよく通るところだ。人力車夫が鍋を囲んでこれを喰う。とにかく群がって、縦食いするものあり、横食いする者あり、あるいは串を争って闘う者もいる。
この肉のことなんだが。毎日屠殺場を回って、その廃肉を買ってくる者が多いらしい。こわばって渋紙のようになっているのは、すでに十日経った肉。柔らかくて豆腐みたいなのは、もう腐ったような肉だ。下汁は鎌倉時代のみたいな古いのがたまってるし、日々古くなっていき、その臭気は鼻をつくようだ。肉はもともと薬食だといっても、これを喰っても効果がないのは藪医者だって知っている。それどころか、屠殺場の廃肉が手に入らなければ、犬・馬の肉を混ぜる者もいるという。餓鬼となってもそんな毒は喰いたくない。もし誤って犬肉を食ったら、開化もたちまち野蛮となり、おそらくは文明人にかみついてしまうだろう。
それでこの店の看板にこう書いてあるのだな。「近頃、我が店の肉に偽の肉がまじっていることがございます。四方からお越しのお客様、その肉の色を吟味してからお召し上がりください」と。
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