正しいパクり方――藤原定家の「本歌取りの方法」
「盗用」について、著作権的な観点から言うならば、「もともと他の人が作ったものを利用している、という事実と、その範囲を、誰の目にもすぐわかりやすいような形で示さないものは、盗用」と言ってしまっていいと思う。不正な転載は盗用である。
また、「情報を共有する」ということは決して「著作権を放棄する」ことにはならない。著作者人格権を守りつつ、しかもそのリソースを活用できるようにするために著作権法があり、盗用にならないよう適切に引用するための規定があるわけである。
適切な引用については「引用」は無断でやるのが当たり前で書いたのでご参照を。
さて、私たちは、他の人の業績を利用してさらにそこに新しいものを付け加え、アレンジすることができる。それが単なる「盗用」になるのか、それとも「アレンジ」「翻案」「パロディ」になりえるのか、という分かれ目は、結局のところ「もとの作者への感謝と尊敬」の念を表現するか否かにあると思う。
そして、日本人は古来、盗用にならないように上手に他人の業績を活用してきた。その代表例が「本歌取り」だ。今回は、鎌倉時代前期の有名な歌人・藤原定家の本歌取りについての論を現代語訳してみよう。
まず、『平凡社大百科事典』から「本歌取り」の説明を引用する(この項の記述は奥村恒哉氏)
【本歌取り】 歌学用語。古歌の1句または2句を自作にとり入れ、表現効果の重層化を意図する修辞法。そのとられた古歌を本歌という。この平凡社大百科事典によると、藤原定家の『毎月抄』に本歌取りの理論が説かれているという。そこでその部分を現代語訳してみたい(以下は平凡社大百科事典の引用ではなく独自の現代語訳)。
長い歴史のうちで自然に成長してきた技巧で、たとえば《古今和歌集》巻二の紀貫之の歌
〈三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ〉
は、万葉集巻一の額田王の歌
〈三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなもかくさふべしや〉
を本歌にしている。この例あたりを早いものとして、少しずつ例が増加する。しかし、このころはまだ修辞的な技巧としては意識されていない。
意識的な技巧として推進したのは藤原俊成で、《新古今和歌集》は本歌取りの全盛時代に成立している。それまでは〈盗古歌〉と考えて、本歌取りを避ける主張もあった(藤原清輔《奥義抄》)。
また、本歌を取る方法としては、以前にも書いたことがありますように、花の歌をそのまま花の歌として詠み、月の歌をそのまま月の歌として詠むのは、よほどの達人のやることでしょう。春の歌を秋・冬に詠み変え、恋の歌を雑歌や四季歌などにして、しかもその本歌はあれだな、とわかるように詠むのがいいのです。要するに、「モトネタがちゃんとわかるように」「モトネタそのままではなく、独自のアレンジを加える」のがミソだと言っているわけだ。
本歌のことばをあまり多く取ることはあってはならないことです。そのやり方としては、肝となる句を取るのは二つくらいにしておいて、それを今作ろうとしている歌の上下句に分けて置くのがいいでしょう。
たとえば、
「夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて」(古今集巻十一・恋四八四 よみ人しらず)
という歌を取ってくるのであれば、「雲のはたて」と「物思ふ」という句をとって上下句に置いて、恋の歌ではない雑歌・四季歌などに詠めばいいのです。
最近、この歌を本歌取りして、「夕暮」ということばまで取り込んで詠んでいるものもあります。しかし、「夕暮は」を添えていても、悪いようには聞こえません。独特で、歌の肝となることばばかりをむやみに取ってくるのがいけないのです。また、取るのを遠慮しすぎて、何の歌を本歌にしたのかもわからないようなのは、何の意味もないわけですから、このあたりはいい具合に心得て取るべきです。
本歌取りされた方(データを利用・アレンジされた方)が嬉しくなるような「他の人の作品の活用」を心がけたいものである。それはたとえば「htmlソースではインラインフレームは引用ではなく参照なのだから問題ない」というような教条的な観点では不十分ということでもある。
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松永さん、お久しぶりです。
最近は著作権をめぐる議論が賑やかですね。
しかし、どれも著作権の保護は当然で社会的な善であるということを前提としている。
それに対してはぼく個人はちょっと異論があって、誰が創意創案したものでも生まれてきたコンテンツは社会みんなで共有したほうが楽しいと思っている。
ま、それはさておき、著作権の侵害大国といえば中国ですが、もともと中国には原典主義というか、オリジナル崇拝というかそういった考え方はとても薄かったようです。
印刷のない頃、文献は読む人が書き写したのですが、日本では文字というものがありがたいものとして崇められていたので一字一句間違えないように書き写した。
これに対して昔の中国の文人たちは、原典を読んで自分で不足していると感じたら躊躇いなく改稿し、よりよくなるように修正したようなんですね。だから時代が下ると原典がどうだったのかよくわからなくなって、それを比較検討して正す学問がとても発達したようです。
書にしてもオリジナル崇拝より、オリジナルはお手本であってそれを真似て上手く書ければそれ自体が価値があるという土壌がある。
複製を文化として肯定しているのは伝統なんですね。
ですから当分の間は海賊版はなくならないでしょう。
もちろんディズニー型の著作権囲い込みに対してはクリエイティブ・コモンズのような「利用許諾を広める」方向性もあるわけです。で、これはいいことだと思います。
ただ、そうすると「他人の作品をあたかも自分のものであるかのように偽る」者が出てくるわけで、これは著作権の中の著作者人格権としてしっかり守る必要があると思います。
中国のパターンはむしろ自分のを他人と言ってるわけで(笑)、あ、西洋でもpseudoなんたらというのがあるか。「仮託」については著作者人格権の保護とは別に考えた方がいいと思います。
まあ「伝統」そのものは善し悪しとか進んでる・遅れてるの問題ではなく、単に「違う」という話なんで、伝統同士が食い違ったときのすりあわせが難しいですね。
補足。先日の女子十二楽坊の著作権問題では、
「自分たちが作曲したのではない(だれが作曲したかわからないけど)」と明記→
「とりあえず著作権料は預けておくから、わかったらすぐに払ってくれ」と、本来はレコード会社が払うものを立て替え→
まもなく判明したのできちんと支払い→
今ごろになって作曲者が騒ぎ立てる(売名行為?)
という経緯でした。
19世紀初頭のヨーロッパの文献を読んでいますと「……」と××がいっている。書名すら出てこないんですが、しかし当時の読者はそれでわかっていた形跡があります。この手の本が19世紀末に校訂版で出版されると、かなり原典についての注が増えるんですが、有名どころはやはり注釈なし。
おかげで文献学者は「種本はどれだ」で論文書いて仕事になるわけですが、本歌取りというのは「元ネタがわかる」だけでなく「読者が元ネタを知っている」環境でないとなりたたないのだなあ。と改めておもひにけり。
はじめまして、初めてトラックバック機能を使ってみたんですが、失敗して3重投稿してしまいました。申し訳ありませんがj、No.6と7は削除してください。すみませんでした。