とても使えない「とても」の話

 私の言語感覚には明治とかそれ以前のものが混じっているらしい。というのは、「とても」という言葉を「非常に」といった肯定的な意味で使うことがとてもできないからである。

 この「とても」という言葉が肯定の意味で使われるようになったのは、明治末期以降のことらしい。そこで、その流れを少し追ってみた。

2004年5月27日01:24| 記事内容分類:言葉| by 松永英明
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 岩波国語辞典(第五版)にはこう書かれている。

とても〔副〕

(1) どんなにしても。とうてい。「―出来ない」「―だめだ」

(2) 程度が大きいこと。たいへん。とっても。「―いい」「―きれいだ」

▽「迚も」と書いた。「とてもかくても」の略で、本来は、下に必ず直接的・間接的に打消しを伴った。

 今は2の意味で使われることが多く、1も多少は使われる、という感じだろうが、どういうわけか私はとても2の意味で使うことができないのである。

 昭和39年10月6日付朝日新聞には、「言葉のしおり」というコラムで次のように書かれている。

言葉のしおり 全然

 このごろの若い人たちは「あの映画は全然いいんだ」とか「あそこの食事は全然うまいよ」とかいう。この場合の「全然」は「非常に」「大変」という意味である。

 しかし、「全然」は、本来は「全然出来ない」「全然感心しない」のように、否定の言い方を伴う副詞で、意味は「まるっきり」である。それを「全然いい」「全然うまい」と肯定表現に使うものだから、年寄りたちからは、とんでもない使い方だと非難される。

 ただし、このような使い方は、前例がないわけではない。今、東京では「とてもきれいだ」「とてもうまい」のように、「非常に」「大変」の意味で「とても」を使う。しかし、本来は「とても出来ない」「とても動けない」のように、「とても」は「どうしても」の意味であり、否定表現を伴う言い方なのだ。それが、明治四十年代ごろから、学生たちの間に愛用されて、今では、東京の口頭語としては普通の使い方となってしまっている。

 石山茂利夫著『今様こくご辞書』(読売新聞社)という本には、芥川龍之介の名前が挙げられている。

中でも有名なのが芥川龍之介の「とても考」で、「とても」は必ず否定を伴っているはずなのに、数年前から「とても安い」「とても寒い」などと使われている、といったことを大正末年に書いている。

 この「とても考」というのは、大正九年に書かれた『澄江堂日記』の「とても」と「続「とても」」のことであろう。

「とても」

 「とても安い」とか「とても寒い」とか云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訳ではない。が、従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。

 肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄四年に上梓された「猿蓑」の中に残つてゐる。

    秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹

 すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する間に二百年余りかかつた訳である。「とても」手間取つたと云ふ外はない。

続「とても」

 肯定に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑」の中に出てゐることは「澄江堂雑記」(随筆「百艸」の中)に弁じて置いた。その後島木赤彦さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。

    秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹

 しかしこの頃又乱読をしてゐると、「続春夏秋冬」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。

    市雛やとても数ある顔貌 化羊

 元禄の子尹は肩書通り三河の国の人である。明治の化羊は何国の人であらうか。

 「続春夏秋冬」は明治38年に河東碧梧桐が編纂した句集。とすると、「とても」が肯定の意味で使われるようになったのは、どうやら明治末のことで間違いないようなのだ。

 それから十年ほど経った昭和六年、中山由五郎著『モダン語漫畫辭典』によると、こんな流行語として描かれている。

トテシャン

琴の音色ぢや無い。「トテモ」と「シャン」とが合成した略語で「おいトテシャンが行くぜ」とか「妾トテシャンでせう」なんて、モボ、モガに使はれる言葉だが、あんまり上品なもんぢやァない。

とても

元来「とても」なる言葉は「とても駄目だ」とか「とても敵(かな)はない」と云つた具合に、否定の語を伴ふべき筈であるが、これが一たび近代式使用法に従ふと、反對に「とても好き」とか「とても善い」と云つた風に、最上級を現はす場合に使はれて、しかも百パーセントの效果を収めてゐるから面白い。時には「とても」の次に置くべき語を省いて、近代味を一層漂はせることもある。例へば「信子さんは帝大のMさんと、とても……なんですつて」の如く。

とてもろ

「とても」と「もろ」とが私通して出來た言葉である。女學生間に勢力のある語で、とてもウルトラな「とても」である。「今日の試験、とてもろに難しかつたわ」と云つた具合で、實に鮮やかなもんである。

 このころには肯定的「とても」がかなり定着していたようだ。しかし「とてもろ」は初めて知った。

 このように、「とても」は本来否定表現なのだが、肯定表現として使われるようになり、現在に至るようなのである。しかし、明らかに現代人である私がなぜ「とても」を否定表現でしか使えないのだろうか。我ながら不思議だったのだが、同様の感覚を持つ人のエッセイがあった(今回のこの記事を書いたのは、このエッセイを見つけたのがきっかけである)。

 

 徳島市南矢三町の元教員、岸文雄先生の「全然・てんで・ちっとも…」 より。

 「とても」というのは本来、どのような方法を尽くしても実現不可能だといったときに用いられる副詞であり、語源的には否定表現を接続させるのが正しい使い方であった。それが今日では、「大変」「非常に」に代わる言葉として、「とても美しい」「とても立派だ」のように用いられているのだが、この言葉の変化の兆しはすでに明治時代に始まるようだ。しかし私は、「とてもかくても」「どのようにしても」という言葉の意を思い浮かべるので、肯定表現に用いられると奇異に感じてならないのである。

 つまり、「とてもだめだ」というような表現のイメージが強すぎて、肯定に使われると奇妙に感じてしまう、ということのようだ。

 明治40年代、学生のあいだで「とても」を肯定の意味で使う「誤用」が広まった。それは芥川龍之介も眉をひそめる表現だった。だが、昭和に入って次第に流行語として定着し、今では教科書(特に英語)でも堂々と肯定表現として使われるようになったわけである。今やそれは正当な意味の地位を占めるようになったといえよう。

 今誤用とされている言い方も、何十年後かには教科書に載っているかもしれない。だからあまり目くじらを立てても仕方ない部分はあるのだが、大塚愛「さくらんぼ」の歌詞の中の「書きあらわせれない」という部分はやっぱり変だと思う。

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全然+肯定という用い方は、明治後期の学生に限らず
当時活躍していた文豪たちも普通に使っていたようです。
森鴎外や夏目漱石、そして、『とても考』の芥川龍之介も。

もしも、全然+肯定が本当に「誤用」なのだとしたら、
「とても」に眉をひそめた芥川龍之介も
なんだか少し滑稽な感じがしてしまいますね。

「全然+肯定」はもともと誤用じゃないみたいです。それが明治以降、「全然+否定」だけに限定されて、最近「全然+肯定」が復活しているみたいです。
でも「全然」と「とても」は全然違う言葉で、「とても」に肯定の意味があったことは以前にはなかったようです。

「それって、とってもよろしくてよ」てな仮想「お嬢様」語を思い浮かべてしまうました。

大塚愛のは「ら抜き」言葉になるんすかね?

大塚愛のは「れ入れ」言葉だと思います!
「書きあらわせない」が正しいので。

・・・自分が知的で頭がいいということを主張したがっているような文章。
もうちっと謙虚にかけないかね。

↑嫌味しか込められていないコメント。
もうちっと嫉妬心なしにかけないかね。

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