虚構が真実味を生む。近松門左衛門の創作論「虚実皮膜」
人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本作者である近松門左衛門(1653~1724)の芸術論として有名なのが「虚実皮膜(ひにく)」の論である。これは「創作においては、事実を完全に描写するのではなく、多少事実と外れるところがミソ」という話なのだが、ネット上ではなかなかその解説が見当たらなかった。
この近松の話は、浄瑠璃だけではなく、一般の創作や表現活動で(つまり音楽やイラストなどでも)非常に参考になるものだろうと思うので、ここに虚実皮膜論に関する部分を全部現代語訳して公開したい。
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(旧: )
※出典:『難波土産』三木貞成著、元文三(1738)年
この本の「発端」に、穂積以貫が筆録した近松の言葉が掲載されている。
底本として武井協三編『近松門左衛門』(江戸人物讀本・ぺりかん社)を参照した。
以前、わたしが近松のところに訪れていたころ、近松はこんなことを言っていました。
■1:情
総じて、浄瑠璃は人形にかかっている、というのが第一なんで、他の草紙(読み物)と違って、文句はみな動きを肝要とする活き物である。特に、歌舞伎の生身の人の芸と、芝居(劇場)の軒を並べて興行するのに、正根(精神)のない木偶(にんぎょう)にさまざまの情をもたせて、見物人の感動をとろうとするものなので、大げさであっては優れた作品というものに至るのは難しい。
わしが若いとき、大内の草紙(源氏物語)を見ておったら、
「節会のころに雪がたいそう降り積もっていたので、衛士に仰せて橘の雪を払わせなさったところ、そばにある松の枝にも雪がたわわに乗っていたのが、うらめしげにはね返って」
と書いてある。これは心のない草木に魂を吹き込んだ筆の勢いだ。その理由は、橘の雪を払わせなさったのを、松がうらやんで、自分で枝をはね返して、たわわになっている雪をはね落として恨んだ様子、さながら活きて動くような気がしないだろうか。
これを手本として、自分の浄瑠璃の精神(しょうね)を入れることを悟ったのだ。だから、地の文句やセリフのことは言うに及ばず、道行きなどの風景を述べる文句も、情を込めるのを肝要としなければ、必ず感動が薄くなってしまうものだ。
詩人が「興象」と言うのも同じことで、たとえば松島・宮島の絶景を詩に作るにしても、詠んで賞賛する情を持たなければ、無駄に描いた美女を見るようなものである。このために、文句は情をもととする、と心得るべし。
■2:て、に、は
文句に「て」「に」「は」が多いと、何となく下品なものだ。しかし、未熟な作者は、文句を必ず和歌や俳諧のように思い違いをして、五字・七字などの字配りを合わせようとするために、自ずから無用の「て」「に」「は」が多くなる。たとえば「年もゆかぬ娘を」というべきところで「年端もゆかぬ娘をば」というようなものになること、字割りに関わることから起こって、自然と言葉づらがいやしく聞こえる。
だから、大体は文句の長短を揃えて書くべきではあるけれど、浄瑠璃はもともと音曲なので、語るところの長短は節(を実際に語る太夫)にある。それなのに作者から字配りをぎっしりと詰めすぎれば、かえって口に言いにくいことがあるものだ。
そのため、自分の作品ではこんなことに関わらないので、「て」「に」「は」は自ずから少なくなっている。
■3:描写
昔の浄瑠璃は今の祭文(祝詞)同然のもので、花も実もないものであったが、わしが加賀掾(宇治加賀掾)のところから出て筑後掾(竹本義太夫)のところへ移って作文するようになってから、文句に心を用いることは昔よりも一段高くなった。
たとえば公家・武家以下、みなそれぞれの格式を分け、威儀を異ならせ、言葉づかいまで、その映りを第一としている。
そのため、同じ武家であっても、大名であったり、家老であったり、そのほか、禄の高い低いに応じて、それぞれの格に応じて区別をしている。これも読む人がそれぞれの情によく映ることを肝要とするゆえにである。
■4:事実そのままではない
浄瑠璃の文句はすべて事実をありのままに写す。しかし、その中ではまた芸になって、事実にないことがある。
身近な例では女形の口上。多くは実際の女の口上ではよう言わんことが多い。これなどもまた芸というものであって、実際の女の口からはよう言わんことを打ち出して言うからこそ、その実際の情が表れるのだ。こういった類のことを実際の女の情に基づいて包み隠したならば、女の本意などが表れず、かえって慰みにならないからである。
だから、芸というところへ気をつけずに見ていると、女に不相応な鬱陶しい言葉などが多いとそしられるかもしれない。しかし、こういったものは芸と見るべきだ。
このほか、敵役が余りにも臆病な様子だったり、道化のようなおかしみをとるところ、事実ではなく芸と見なすべきところが多い。このため、これを見る人は、そういうことを汲み取る必要がある。
■5:直接的に言わない
浄瑠璃は憂いが肝要であると言って、「あはれなり」というような文句を書く人が多い。または、語るにも、文弥節のように泣くように語ること、自分の作品のいきかたにはないことである。
わしの憂いはみな道筋をもっぱらとしている。芸の六義(表現法)が道筋にあって「あはれ」であれば、節も文句もキッと引き締まっていよいよ「あはれ」になるものだ。このゆえに、あはれを「あはれなり」と言ってしまうときは、含蓄もなくて結局その情が薄くなってしまう。「あはれなり」と言わずに、自然とあはれになるのが肝要なのだ。
たとえば松島などの風景についても、「ああ、いい景色だなあ」と誉めたときには、一言でその風景が皆言い尽くされて、何の面白みもない。その風景を誉めようと思えば、その景色の様子などを、間接的に数々言い立ててれば、いい景色と言わずとも、その景色のおもしろさが自然とわかるものである。
こういうことは、万事にわたることだ。
■6:虚実皮膜の間
ある人がこう言った。
「今どきの人は、よくよく理詰めの事実らしいことでなければ合点せぬ世の中だ。昔の物語のことでも、当世では受け入れられないことが多い。だからこそ、歌舞伎の役者なども、とかくその演技が事実に似るのを上手としている。立役者の家老職は本当の家老に似せ、大名は大名に似ているのが第一とする。昔のような、子供だましのふざけたのはだめだ」
近松はこう答えた。
「この論はもっとものようだが、芸というものの真実の行き方を知らぬ説である。
芸というものは、実と虚との皮膜(ひにく=皮と肉)の間にあるものだ。
なるほど、今の世では事実をよく写しているのを好むため、家老は実際の家老の身振りや口調を写すけれども、だからといって実際の大名の家老などが立役者のように顔に紅おしろいを塗ることがあるだろうか。また、実際の家老は顔を飾らないからといって、立役者がむしゃむしゃとひげの生えたまま、頭ははげたまま舞台へ出て芸をすれば、楽しいものになるだろうか。
皮膜の間というのはここにある。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず。この間になぐさみがあるものなのだ。
これについて、ある御所方の女中に一人の恋する男がいた。たがいに情をあつく通わせていたが、女中は御所の奥深くいたので、男は奥へ参ることもかなわず、ただ朝廷などで御簾の隙から見えるのもたまにしかないので、あまりに恋いこがれてしまった。そこで、その男の姿を木像に刻ませ、顔かたちなども普通の人形とは違って、その男に毫も違わないようにした。色つやの彩色は言うまでもなく、毛の穴までも写させ、耳・鼻の穴も、口の中の歯の数まで、寸分も違えずに作らせたのだ。実際にその男を横に置いてこれを作ったので、その男とこの人形とは、魂があるのとないのとの違いだけだった。例の女中がこれを近づいて見たのだが、このように生身を直に写しては興も冷めて薄汚く、怖い気持ちになるものだ。さしもの女中の恋も冷めて、横に置くのも鬱陶しくなり、すぐに捨ててしまったそうだ。
これを考えると、生身のままをそのまま写すなら、たとえ楊貴妃であっても愛想のつきるところがあるだろう。
それゆえに、「絵空事」といって、その像を描くにも、また木に刻むにも、本当の姿に似せる中に、また大まかなところもあるというのが、結局、人の愛するものとなるわけである。
芝居の趣向もこのように、事実に似せる中にまた大まかなところがあるが、結局、芸になって、人の心のなぐさみとなる。文句のセリフなども、この心がけで見るべきことが多いのだ」
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(旧: )
あ、「写実的なリアルさ」ではなく、「らしいリアルさ」って感じですか。
なんでもかんでも写実に拘っても、現実の紛い物しか出来ないと思うので。
よく、創作相手に、「○○はありえない」と批評される事がありますが、問題なのは、「○○はありえない」事そのものではなくて、それを面白く描けなかった事なんじゃないかと考えてます(面白い「ありえなさ」を真面目に批判するのは的外れかと)
そうですね。表現効果を高めるために、あえて現実と違う要素を入れることによって、かえって真実みが高まるという感じだと思います。
写真であっても、ポーズ付けたり、メイクしたり、光やアングルを調整したりするわけで、事実そのままではないでしょうしね。
「現実にはありえない」という批評も、単に重箱の隅をつついているのか、それとも、他の部分との整合性が採れていないために違和感があるのか、2種類の場合があると思います。
時の経過があきらかにするでしょう
時の経過があきらかにするでしょう