病的愛国心 Diseased Patriotism

病的愛国心 Diseased Patriotism
内村鑑三
『万朝報』明治三十一年三月十一日
現代語に修正:松永

2004年8月 8日08:27| 記事内容分類:政治学| by 松永英明
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「愛国心は常に人類特愛の徳であった」と有名なフランスの一作家は言った。「愛国心は確かにわれらの時代の特愛の徳である。それは宗教にすらなっている。しかし、宗教として、それは当然、そのタルチュフ(偽善的信仰家)を有している。彼らは、もしモリエールがわれらの時代の人であったならば、モリエールが描こうとしたそのものである。この類の偽善がルイ十四世時代の宗教的偽善に劣らず、民衆にいとわしいものとなる日は遠くない」と。
(※訳註:『タルチュフ』はモリエールが描いた喜劇。主人公タルチュフの宗教的偽善を痛烈に批判・諷刺している)

 日本でもフランスと同様である。かつて愛国心が現在のように声高に我が国の人によって叫ばれたことはない。愛国心の名をもってこれ以上の害悪が行われたことがないと私は信じている。愛国心の名において危害が国賓に加えられ、また愛国心の名においてわれらは軍備急増を求める叫び声によって破産の淵に追いやられつつある。我が国の教育制度は、愛国心に訴える声が極端であるが故に、腐敗している。ただ一人の真の愛国者も産み出すことなく、愛国心の「騒音」が国土をほとんど溺れさせようとしている。この類の愛国心については、われらの訴える声をますます高めねばならないが、さらに多くを求めることはできない。

 愛国心が純粋で真実なものであるには、無言にして無意識のものでなければならない。真実の人であって、自己の国に対して熱烈な愛を有さない者はありえない。愛国心はそういう人には「自然の感情」であって、彼の有する皮膚の色のように脱ぎ去ることができないものである。それは彼の存在そのものの一部分であって、真性でまぎれもない自己の当然の結果である。われらに真の人を示してみなさい。そうすればその人には愛国心があることを保証しよう。しかし、愛国心があるからといって、その人の真心を保証することはできない。愛国心はあまりにしばしば「悪漢の最後の拠りどころ」だからである。

 無言で畑で耕す農夫、こつこつと読書にいそしむ学生は、愛国心を説くことを職業とする人々よりはるかに愛国者である。そして、数百万人のこのような無言の農夫や数十万のこのような学生がこの国にいることは、少数のこれら職業的愛国説教者がいるよりも、日本国民の愛国心のために多くを語っている。ほんとうに、日本人の愛国心は、これらの騒がしい愛国者が言いふらすことのできるようなものではなく、あまりに深いものである。それは無言であって無意識のものである。しかし、これら「タルチュフ」たちが口に唱える愛国心は、健康と力を求めて叫ぶ病人の訴えにほかならない。

 愛国心とは、われらが己の国に負う明白な義務を果たすこと以外の何ものであろうか! 隣人に親切であること、貧しい者・乏しい者に同情すること、勤勉であって怠けないこと、謙遜であって丁重であること、などなどは、われらの考えに寄れば、国家の拡大を考え、わが国民の美徳を誇ることと同じくらい愛国的である。多くの場合には、それ以上に愛国的である。芝居がかった愛国心は、実に見かけ倒しである。日本が大いに必要とするものは、深く、無言の、無意識の愛国心であって、今日の騒々しい愛国心ではないのである。

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2004年8月 8日08:27| 記事内容分類:政治学| by 松永英明
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「絵文録ことのは」の松永さんのところで展開中の「愛国心」について、前日の「人格障害」がらみでちょっと書いてみる。 病的愛国心 Diseased Patriotism Gypsy Blood「愛すべき場 ... 続きを読む

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最後のマーキング部分は、イスラムのジハードと共通していると思う。
そういう人たちどうしは、お互い理解しあえる。

一連の流れを読んでると、愛国心について「分からん」と主張してるのか、「かくあれかし」と主張してるのかわけわからん。どっちかに絞ってください

私は個人主義なので”国に対して義務を負う”とは
思ってないのですけど、他者に対してどう振舞うかがその国の
倫理的水準を測るバロメーターになるでしょうね。

経済の論理と同様、愛国などというのは強要すべきもんではなく
国の側が如何に愛される行為を他者に対して振舞ってきたか
によりけりだろう。(愛国の押し付けは商品の押し売りと同じ。
売れないことを客に責任転化してないか。)

国だってサービス機関なんです。サービス機関を選ぶのはあくまで
個人の側です。自国を誇って欲しいなら、まず誇れるような行為を
してから言うべきです。

だから私が内村鑑三さんなら多分こういう風にいうのじゃないだろうか。

愛国心とは、己の国が負う明白な義務をわれらが果たすこと以外の何ものであろうか! 
隣人に親切であること、貧しい者・乏しい者に同情すること、勤勉であって怠けないこと、謙遜であって丁重であること、などなどは、われらの考えに寄れば、国家の発展を考え、わが国民の美徳を誇ることの最初の前提条件である。まず自らにして範を示さぬ者の唱える愛国のなんと空々しいことか。芝居がかった愛国心は、実に見かけ倒しであり、国を貶める行為ですらある。日本が大いに必要とするものは、深く、無言の、無意識の倫理的意識であって、今日の騒々しい愛国心ではない。

今回の日本人の中国人への反応は、愛国心って言うよりは、危機感って言った方が適切だと思う。
中国の反日教育や尖閣諸島への干渉、資源略奪や、中国人による犯罪、
それらを取上げないメディアや、日中友好の為に、弱腰外交しか出来ない政府、同様に、危機感の無い日本人、
それらの問題を直視せず、自己満足な友好を行っている人たち、などなど、
そういうものに対して危機感を持っている人たちが、選手やサポーターが置かれている危険な状況を、すごく身近に感じてるんだと思う。

>>5
危機感は勿論持つべきなのですが、だからといって嫌悪を相手にそっくり返すことがその危機感を解決するものではない。その辺りを踏まえることはまず話の前提としては必要でないかな、と思います。
中国が今回の件で日本人の信頼を落としたとすれば、それは仕方ないことですし、それが中国の落ち度である以上、中国を無理に弁護する筋合いもないですけど、こちらが逆ギレしてもあんまりお互い得るものはないかな、と。

can you speak english?
japanese pigs!!!

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