イエスの愛国心 内村鑑三
イエスの愛国心
内村鑑三
『聖書の研究』明治43年8月
現代語訳:松永
※ここしばらく先人の見解を掲載しますが、必ずしもそのすべてに賛同しているわけではありません。参考意見としての掲載です。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイによる福音書10章5~6節)
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(同23章37節以下)
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。(ローマの信徒への手紙9章3節)
兄弟たち、わたしは彼ら(※イスラエル)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。(同10章1節)
キリスト教には愛国心がないというのは、わたしがよく耳にすることである。実際、キリスト教に世に言うところの愛国心はない。すなわち、国を誇り、敵を憎み、国家のためとならば正義も人道もあえて問わないという、世の人のいうところの愛国心はない。キリスト教は、このような愛国心を罪悪の中に数えることを躊躇しない。これは私欲を国家に移したものにすぎない。愛国心と言えば立派であるが、自己中心の一種と知っては、決して尊ぶべきものではない。
では、キリスト教には愛国心はないのかといえば、決してそうではない。キリスト教にも愛国人がいる。イエスには確かにこれがあった。また、彼の心をよく知った弟子たちにもこれがあった。そのことは聖書が明らかに示している。聖書に愛国心の文字が掲げられていないからといって愛国心の不在を唱えるのは、浅薄きわまる観察である。聖書に愛国の文字はない。しかし、愛国の事実はある。たくさんにある。満ちあふれるほどある。
イエスはもちろん彼の故国を愛した。アブラハムの国、モーセの国、預言者たちの国であるイスラエルの国を愛した。しかし、彼は世の人がこれを愛するようには愛さなかった。彼は、当時の一般国民のように政治的に故国を救おうとはしなかった。人々に句ウェイ合って、当時主権をユダヤ国の上にふるっていたローマ人に背いて、ローマ勢力を排し、これを払って、故国の独立をはかろうとはしなかった。彼は政治については、冷淡とはいわずとも無頓着であった。彼はこのために国民に嫌われた。彼がついにユダヤ人によって十字架につけられた理由の一つは、彼がユダヤ人の要求に応じて政治的・軍事的に国に尽くさなかったからである。
イエスは国の外にある敵をはらおうとしなかった。しかし、それよりもさらに恐るべき内なる敵は、これを殲滅しようとして全心全力を尽くした。彼は、政治的独立をはかろうとはしなかった。しかし、神による心霊的独立を民に与えようとして命を捧げた。イエスに愛国心がなかったのではない。満ちあふれるほどあった。ただ、彼はこれを世の人とはまったく異なった方面に向かって注いだのである。外敵を倒そうとせず、内敵を滅ぼそうとした。政治的に独立しようとせず、心霊的に独立しようとした。愛国心有無の問題ではない。その使用法の問題である。イエスの愛国心は世の人の愛国心とはまったくその使用法を異にしたのである。
では、彼の死後1900年の今日から見て、彼は自分の愛国心を誤用したのであろうか。彼は、ユダヤ人歴史家ヨセフスにならって、軍を率い、砦にこもり、ローマ人に抵抗して、国のために尽くしただろうか。あるいは、イエスが当時の独立軍に加わったならば、勝利はついにユダヤ国に帰して、その国威が天下にあがったかもわからない。しかし、もしそうだったとしてどうであろうか。ユダヤ国は国家として1900年後の今日まで存在し続けたであろうか。はなはだ疑わしいことである。エジプトも滅び、ローマも滅び、ギリシアも滅び、その他の諸国もまた建国されては滅んだ後の今日、ユダヤ国のみが今なお存在するなどとは信じがたいことである。しかし、ユダヤ人が1900年後の今日なお世界の大勢力として存在し、他の国民がすべて滅んでも彼らのみなお人種的に存在し続けている理由は、彼らは幸いにしてイエスのような愛国者を何人も持ったからに違いない。実に、「慈善は国を高め、罪は民の恥となる」(箴言14章34節)であって、愛国心を外に向けて注がず、内に向けて注ぎ、外敵を払おうとするよりもむしろ内的を滅ぼそうとして、人は自分の国を永久に保存することができるのである。国家の保存という観点から見て、イエスの愛国心は最も優れたものであったと言わざるを得ない。イエスは外国人の罪を責めず、自国の民の罪を責めて、その民を永久に保ったのである。ユダヤ人が今日あるのは、イエスと彼の前後に現われたユダヤ国特産の平和的大愛国者の功績に帰さねばならない。
イエスは高く、深く、強い愛国心があった。ゆえに、われら弟子にもまたそれがなければならない。われらもまたわれらの国を愛さなくてはならない。しかも、イエスのようにこれを愛さなければならない。すなわち、外敵よりも内敵を憎まなければならない。われらの中にもまた多く存在する学者とパリサイ人の類を、彼らの面を恐れずに、「偽善者よ」「まむしの類よ」と呼ぶ勇気を持たなければならない。すなわち、剣によってではなく、義(慈善)によって国を救う行為に出なければならない。このように、われらの愛国心を使えば、われらもまた、イエスがユダヤ国民に憎まれたように、われらの国民に憎まれるに違いない。そうすれば、ある種の十字架がわれらの上にもまた置かれるに違いない。しかしながら、国にこのような愛国者が出なければ、その国は長く存続することはできない。われらがもし本当にわれらの国を愛するならば、われらは十字架にかけられようとも、イエスのごとく、われらの国を愛さなければならない。
今のキリスト教信者は一般に愛国心を軽んずる。彼らは、キリスト教は世界的・人類的な宗教であるとの理由のもとに、愛国心といえば偏狭固執の者であると思っている。しかし、彼らのこの態度が、「キリスト教は非国家的である」という世の非難を招くに至った一つの理由でもあると思う。しかしながら、預言者もイエスも彼の弟子たちも、決して非国家的ではなかった。彼らは実に激烈に国家的であった。ただ、前に述べたとおり、彼らは世の人とまったく異なった方向に向かってその国家についての観念を発表したのである。神が各人にその国をお与えになったのは、神がこれを愛し、これとともに発達するためである。人はまさに、その国を愛して自分を愛するのである。国は自己の一部分であって、国を疎んじればその人は自分を疎んぜざるを得ない。人は一人としてはまことに値打ちの少ないものである。その人が国家大に拡大してのみ、その人はまことに自己の本当の重みを感じるのである。愛国心は国のためにのみ必要なのではない。また、自己のために必要なのである。「我は国家」であるというフランス王ルイ十四世の言葉は、そのきよく高い意味においてまたわれら各自も適用すべきものである。
イエスの弟子となって、愛国心は捨てるべきではない。これを浄めるべきである。世の人は、威力をもって天下を圧伏しようとするが、われらは愛をもって世の中を感化しようとすべきである。剣は強いように見えて、非常に弱いものである。これに反して、愛は弱いように見えて、最も強いものである。すべての地は最後には柔和な者の手に帰すであろうという。愛をよろいとして身にまとう愛国者が立たないならば、その国の運命は実におぼつかないのである。
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内村鑑三氏がこのような内容で書かれていたとは知りませんでした。
イエスがどう考えられていたかは正直イエスご自身に聞かないと真実は定かではありません、しかしイエスの国というのは現実的な人種とかそういう国ではないような気がします。。しかも弟子は弟子によって考えとか個性も強く全く同じではないし。まあ人間ですからしょうがないですけど。
聖書とか歴史をちゃんと(殆ど)読んでもいないんでさらに間違ってるかもしれませんけど、イエスにとっては敢えて分けるとすれば、『愛を尊び広い意味での神の教えを信じ実行しようとするもの(意思)』と『それに反するもの』であったのではないかと。そこに現実的な境界など一切ないのではないかと私は思うんですが(苦笑)。あの国に属している云々より、当時、イエスをというか人として守るべきもの(=教え)や神を信じたものは皆同じだとされたように思いますが。現在も未来も同様に。まあ強引かつ極端に言えば、教えを信じるもの、がイエスにとっての民なのではないでしょうか。
まあ、より教えに近しい者達というか、教えをちゃん理解していたかは別として、より謙虚であり、神を仰ぎ見ていたもの達、という意味では、歴史上、あの国に属する人(民族)が多かったのでそうだったかもしれないですが。
しかも預言者という人たちが出てきたのもあの辺りでしょうし。預言者の言う教えとイエスのおっしゃる教えが全く同じかどうかはよく知りません。
でも結局のところ、全てのものは神の造ったものである、といわれているところ、『述べ伝えよ』というあたり、重要だと思います。
ちゃんと勉強した人からしたら違うだろって言われかねませんけどー(苦笑)。
>これとともに 『発達するため 』である。人はまさ に、『その国』を愛して『自分』を愛するのである。『国』は『自己の一部分』であって、 『国を疎んじれば』その人は『自分を疎んぜざるを得ない』。
⇒愛国心は自己の発達と自尊心のために必要?
自己に近いとこから言ってけば、家族⇒親戚⇒市町村⇒国⇒(人種、はここじゃないかも)⇒世界⇒地球⇒太陽系⇒宇宙となりますw。
国の内に自己があるように、地球の、世界の内に国があり、そして自己がある。家族が大事、国が大事なら世界も大事なんじゃないの?世界は一つの国でできてるんではないっていう気がしました。より活発に発達を促すとするなら、ある対立があったほうがはかどりやすいでしょうけど。人はより上を目指す場合、自分より上の存在を少なくしたい傾向を持ってるように思えますから。。そこには何かピラミッド的な支配体系もどきがあるように思えてしまう。頂点が完全者で唯一の存在。より完全者に近い方、上であるほど数が少ないイメージ。それは支配とかそういう意味合いが感じられるもので。組織みたいなものでしょうか。だからライバルいたら勝って自分が上のより数少ないほうへ上がりたいのではないかと。なんとなく人間にはそういうものがあるんじゃないでしょうか。。より優れた存在になりたい。。という。完全者と不完全者の関係を自己と他に重ね合わせることでより完全者に近いと思うのかも。オリンピックにしても1番、2番と順序をつけるわけで。スポーツに限らず、そうですよね。昔話にしろ、あまたある神話にしろ、人間は体系をつくりやすいと思うわけで。ある種の秩序にも繋がります。そういう傾向がよく見られる。
そういう見方で自己がどのような存在であるかを認識するのに他者と比べるのは認識しやすいでしょう。
国は複数ありますが世界は一つしかないです、。じゃあ、宇宙人呼びますかっ!ていう。。国の上は人種なんでしょうか?ちょっと違うかな、国には色んな人種が混ざってますしね。どうなんでしょうね、このあたり。
何にせよ、より自分に近いもの、繋がっているものって事なんでしょうけど…そこは内村氏が言うように、自分の属するもの(繋がっているもの)のレベルを認識することで必然的にそこに繋がっている自己もレベルが高い、という認識なんでしょう。そのレベルの高いところに属している自分は大小あるにしてもそれなりに役目を持っているはず、またはそれを理解できる⇒レベルの高いところに属する自分がやっている役目はレベルが高い⇒自分はそのような役目を果たせるのだからレベルが高い、またはそれ(文化とか?)を理解できる高い能力を持つ存在。っていう感じでしょうか。事実は考えないとしてw。ちなみにもっと自己に近づけたら兄弟姉妹と自分、という関係になります。確かに、兄弟でいがみあったりする仲の悪いとこもありますがw。単により近いか遠いかの差でしょう、。人間って本来競争したり他者と自分を比べるとこ多々あるようなんで、しょうがないかもしれません。それがなくなったら何もしなくなっちゃう人もいるかも、ですね。だったらどうなんだ?っていうのはまた別問題として。
でも、発達することは悪いことだとは思えません。発達することでより人や他の生物の役に立てる機会も増えますから。
まあ、キリスト教としても人間に能力がないと世の中ここまで伝わらなかったわけで。本を書くにしろ、文章にする能力にしろ、それをいかに効率よく広範囲に広めるにしろ、交通機関、出版機関など、多くの発達した人間の能力で広まってるわけですしね。無論人間の能力自体は罪悪とは言えないでしょう、。逆に賜物だと思います、ただ、その種類や使い方、責任、思いなどによるとは思いますけど。。
can you speak english?
no,you can't
you are all pigs,
japanese pigs
なんとなくふらりとここにたどり着きました。
結局のところ、松永さんは
「親近感、あるいは身近に思える人に対する共感を感じられない」
という感性を表明しているようにしか思えません。
無論、病的な愛国心も気持ち悪いですが・・・。
松永さんが「理解できない」という愛国心(サッカーが好きな人とかのそれ)って、愛国心じゃなくて、親近感や、出身地を同じくする者に対する共感でしかないと思うんです。
で、そういったものを感じられないということは、もちろん松永さんの自由だとは思います。
でも、それを格好いいとも真似したいとも思えません。
前述のような親近感や、共感が無限に広がっていってしまう人に対しても、同じように思いますけどね。