文章は論じにくい
- 幸田露伴『普通文章論』第1回
文章というものは、その功は広大で火が燃えるように盛んなものであり、その徳は深く厚く悠久な、実に人間のなすことの中でも一つの大事といっていいものである。で、そういう素晴らしいものであるから、文章をわが心のままに書きこなそうということは、なかなか容易なことではない。まして文章の批判や談論をしようとするのは、いよいよもって難しいことである。
明の王弇州((王弇州【王世貞】明の学者・詩人。字は元美。号は弇州山人。江蘇の人。李攀竜と共に古文辞を唱道、文は西漢、詩は盛唐を模範とした。著「弇州山人四部稿」「弇山堂別集」など。(1526~1590) ))は、学問もあれば才識もあった人で、欧陽永叔((欧陽永叔【欧陽脩】北宋の政治家・学者。江西廬陵の人。字は永叔。号は酔翁・六一居士。諡は文忠。唐宋八大家の一。仁宗・英宗・神宗に仕え、王安石の新法に反対して引退。著「文忠集」「新唐書」「新五代史」「集古録」「毛詩本義」など。(1007~1072) ))を罵っては「仏教の教えも知らず、書経も知らず、詩経も知らない」とけなしたり、黄山谷((黄山谷【黄庭堅】北宋の詩人。字は魯直、山谷・涪翁と号す。江西の人。江西詩派の祖。師の蘇軾とともに蘇黄と称され、草書にも秀でた。著「山谷詩集」。(1045~1105) ))をあざけっては「小乗とするにもたらず、これは外道でしかない」とバカにしたり、蘇東坡(子瞻)((蘇東坡【蘇軾】北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一。洵の子。轍の兄。字は子瞻、号は東坡(居士)。大蘇と称される。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画をも能くした。諡は文忠。著「赤壁賦」「東坡詞」のほかに「東坡志林」など。(1036~1101) ))を評しては、「子瞻の文を読めば才能があるのはわかるが、書を読んでいないようにみえる。子瞻の詩を読めば学識があるのはわかるが、しかしものすごく才能がない者のようにみえる」といって軽んじたりしたくらいの人であった。
ところがその弇州が『芸苑巵言』四巻を著わして、盛んに文章を論じて威張りまわしたのはよかったけれども、晩年に及んで李西涯という人の『楽府』に序文を書いた中では、『巵言』を著わして批判談論をあえてしたことを後悔していたり、死に臨んだときには手に蘇東坡の文集を捨てなかったという事実を残していたりする。
弇州の学問才識をもってしてさえそうなのであるから、不学短才の自分などが文章を論じたり何ぞするのは、力の乏しい者が力業をあえてするようなもので、はなはだもっておぼつかないことであり、さらにまた僭越限りないことである。
しかし、自分は今、このようなことを思っている。なるほど、力の乏しい者が力士の真似はできないけれども、力の乏しい者でも力相応のものは持ち上げることができるというのは事実である。力が乏しければ、一俵の米さえも持ち上げることができない。しかし、一俵の何分の一かの三升とか五升とかいう量の米であれば、危うげなく持ち上げることができる。
この道理によって、文章という素晴らしい大きなもの全体を批判したり論じたりしようとするのではなく、文章の何分の一かに当たる一部分を議論しようと考えるのであれば、これに耐えることができるかもしれない。自分は、今まさに文章全体を議論しようとは考えていない。文章の中の一小区画について議論しようとしているのである。
と、こう思っていて、そしてこれを無理とは思わないので、この企てを放棄しようとは思わないのである。
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