二種類の文章を一緒くたに論じるのはおかしい
- 幸田露伴『普通文章論』第3回
そこで美術的文章と実用的文章の間には、二つをごっちゃにできない厳然たる壁が存在していて、その壁が二つを明白に区別している。
つまり、実用的文章の側からいってみると、実世間における直接の任務の有無ということがその壁に示されている。また、美術的文章の側からいってみると、美感の有無ということがその壁に大書してあって、人に美感を与えない文章はこちらに入ってはならん、と拒絶しているのである。
この美術的文章と実用的文章では、その目的が各々異なるので、おのずからその性質や機能や色彩や様子がみな異なってくる。で、二者を混同してしまって一緒くたに論じることは不可能で、かつ不合理なことである。
例を上げれば、数理を解くときの文章は実用的文章で非美術的文章であるし、詩はもとより非実用的文章で美術的文章である。
そこで、数理を解いた文章にもし論理の筋道が幽玄で補足しがたいところがあったりなんかしたら、大いに責めとがめなければならない。しかし、詩の方では、感じが曖昧模糊としてさえいなければ、論理の筋道はいささかぼんやりしていて隅々まで明白でなくても、さほどとがめられないのである。ちょうど、地図は正確明瞭でなければ不可だが、絵は雲・霧が山川を覆うところを描いても差し支えない、というのと同じ道理である。
さらに一つ例を挙げてみるならば、美術的文章の方では擬古文というのも許される。すなわち、場合によっては荘重でありたいという希望から、非常に古い言語や文字や文法を用いて書いても、それはそのやり方で成功さえしていれば、別にとがめ立てはしないのである。しかし、実用的文章の方では擬古文は不可としなければならない。『書経』や『左伝』の調子で数学の本を書かれたり、『源氏物語』や『伊勢物語』のような文体で商業視察の報告を書かれたりしたら、実に困ることになるから、絶対に排斥しなければならない。「鄭伯、段に鄢に克つ」というような調子や、「……あんなれ」「……べかんめる」などという古くさい文体を持ち出されたりした日には、実際世界の用事は果たせない。それゆえに、美術的文章の方では擬古文を許しても、実用的文章の方では擬古文は許せない。
そこで、実用的文章と美術的文章の二種類の文章を一緒に論じることはできない、という結論になる。しかし、この事実を無視して、ただ一つの「文章」という言葉なんだから、文章とさえいえば同じもののように見なしてしまって、それでいて修辞法や作文法を教えるなどと言っているものがいるのは、本当に大づかみの議論で、詳細を尽くしていないと思われる。
つまり、同じ定規をもって取り扱うことのできない、まるで異なった性質のものを、一つの定規で律しようというのは、元来無理である。
古来、このことを無視して文章を論じたり、あるいは作文法を教えたりしているのは、たとえば兵士と農夫とは志すところがおのおの異なっているのに、二者を混同して論じたり教えたりするようなもので、不合理であることは言うまでもない。田んぼで耕し、収穫するときの態度と、戦場においてかけずり回るときの態度を一緒にすることはできない。鋤をとって土をいじる道と、剣・戟を振るったり銃砲を扱ったりする道とは、その精神も異なっていれば、手段も違っている。作業も違っていれば、希望するものも違っている。それを同一にしてしまって、「田んぼを耕す動作が遅い。戦場で駆けるように敏捷にすべきである」などといったところで、それは気が狂ったような言葉であるし、小銃の持ち方を教えるのに「鋤の持ち方のようにすべきだ」と言ったならば、それも気の違った言葉であろう。
で、そんな馬鹿げたことは誰も言ったりしない。しかし、文章ではちょうどそれと同じような論じ方や教え方をしていて、それでも不思議に思っていないのが世間の常である。習慣が長くなると何ごとも疑わないものであるが、美術的文章と実用的文章を同列に論じたり教えたりするようなのは、実に不合理である。
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