普通文章論 自序
明治~昭和を生きた文豪・幸田露伴の文章に「普通文章論」というのがある。これは、実用的な文章を書くにはどうしたらいいかということを論じたものだ。非常に参考になるのだが、幸田露伴は今ひとつメジャーではないようで、これもあまり読まれていないだろう。もったいないと思う。
そこで、序を入れて全部で90節近くあるので、1節ずつ現代語訳して連載していこうと思う。
なお、最初から順番に読みたい場合は、幸田露伴『普通文章論』関連記事ページから読むことができる(下から順に読めばよい)。『普通文章論』全体へトラックバックしたい場合はこの記事に付けてもらえれば幸いだ。
訳し方については、固有名詞以外については極力注釈のいらないように、現代に幸田露伴翁がいたらこんな風に書いたんじゃないかなという感じでやっていきたい。したがって、学術的な厳密さを求める場合はご自分でやっていただければと思う。
※2009年追記。現在、普通文章論 - 閾ペディアことのはの方でまとめているので、まとめて読みたい方はこちらを参照してください。
■自序
「文章って難しい」という嘆き声は古来どれほど発されただろう。この嘆き声を上げる人たちを救おうとして世に出た著作も、また古来どれほどあるだろう。特に、我が国では最近、紅葉をお金に見立てて子供の泣き声を止めさせるくらい親切な著述が、どれほど世に出されただろう。
しかし、文章は依然として難しい。困難は救われていないのである。子供の泣き声を止めることができるのは、与えられたお金が実は落ち葉であることを知らない間だけだ。
著者もまた、しばしば「文章って難しい」という嘆き声を発する一人であるが、「文章って難しい」という嘆き声の中には、実は二種類あるということを感じた。それは、「美術としての文章は難しい」というのと、「実用上の文章は難しい」というものであって、実にこの二種類は区別されるべき性質のものであると思う。また、美術的文章と実用的文章を作る難易度についてはかなりの差があると思う。
そして、世のいわゆる文章の十中八九までは決して美術的文章ではなくて実用的文章であるにもかかわらず、「文章は難しい」という嘆きを救おうとする古来の著書の多くがこの二者をごっちゃにして、実用的文章を書きたいと求めている人に美術的文章をうまく書く方法を教えているように感じた。落ち葉で泣き声を止めさせるような著作に至っては、もとより多くいうまでもない。
そこで、自ら仕方なくこの一編を書くこととした。
もともと、これは美術的文章など書いたりしない人、つまり実用的文章を書きたいと要求する人に作文の道を問われることが多かったのでやったことだから、ただ実用的文章について語っており、美術的文章については語っていない。美術的文章については、著者もまた今嘆き声を上げている一人であるから、先人の教えを求めてやまないのである。
明治戊申秋(明治41年=1908年)
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