国民と文章との距離
- 幸田露伴『普通文章論』第17回
さて、第1【表音文字】第2【表意文字】の状態の諸国は、何ごとも一利一害であるから不便なこともあるだろうが、とにかく、その国民がその国の文章を書くのはあまり難しくないはずだ。
特に言語をそのまま文章に写し取って差し支えない表音文字の国であれば、若干の文字を学び、その組み立て法を学びさえすれば文章は書けるのである。
また、第2の支那のような国の民は、第1状態の国民のように容易に文章は書けないのである。しかし、俗語体の文章、すなわち小役人や下っ端書記官のような文章を書くことはそれほど困難ではないらしい。だから、無学者が書く文章は必ずそういうスタイルである。また、学者も、自分の言論を広宣流布したいと願うときや、その説が人々の身体にしみこむほど徹底したいときには、そのスタイルを用いている。
元来は、支那でも最初から別に俗語体の文章というものがあったわけではないし、後世からいえば「古文」と称する文章でも、その時代の俗な言葉と縁がないわけではない。すでに『史記』などでは方言すら使っているくらいである。しかし、不幸にして支那という国の人民は昔のものを尊ぶことがはなはだしいので、ついに後世に至っては、支那人の理想とする「よい文章」とは、現在の実際の言語の形や語法とは距離のあるものになってしまった。そのために、人民が文章として好む文章は、容易には人々が作ることができないようになっている。
で、自然と時文だの俗語体の文章だのが生ずるに至ったわけだが、これは文学の観点から見ても、教育の観点から見ても、すべてがあたかも複視のように二重状態になっている。こうして、国民のエネルギーが無駄に費やされてしまうため、その国運は発達しがたい有様となっているのである。
第4【表音文字と表意文字を両用】の朝鮮のような国は、その国語と密着した文字文章がその国の人によって作り上げられたため、たまたま文字や文章の本当の使命を説明しているといえる。もし、その国の人民がハングルの制作者の恩恵を深く感じるようになれば、その国民は第1に挙げた欧米諸国民と同じ利益を受けることになる。そうでなければ、支那のような状態とも違うとはいえ、やはり相応にエネルギーを無駄づかいしなければならなくなる。
さて、第3の【表音文字(=仮名文字)と表意文字(=漢字)とを混用】している日本のような国はどうであろうか。不幸にして、このことがそもそも、日本人民に文章は作りにくいと思わせる一因となっているのである。
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