匿名・仮名・実名論についての悪魔の辞典(ポイント整理)
なんかブログ界の一部で延々と匿名・実名の話が続いてるね。もう前世紀から続いてる話が今もなおループしているわけだが、以下、いくつかのポイントを整理し、あと、大サービスとして拙著『ウェブログ超入門!』の草稿から関連するデータの部分をドドドーンとコピペしておく。気前よすぎ(笑)、つーかもう1年以上前に書いた本だぜ、これ。原稿仕上げたの、去年の4月だもの。
なお、書いてある単語の意味がわからなかったら、どうして人に聞く前にgoogleやyahooで調べないんだ?失礼じゃないか?←その前に読者に対して不親切。すまん。
■まず言葉の定義をちゃんとしよう
こういう議論では、同じ言葉を使っていながら意味合いが微妙に違っていたり、曖昧になっていたりするので、ちゃんとしておこう。
この辺の記事も参照⇒「ブログはコテハンで書くべきか、捨てハンで書くべきか」論と、その先のいくつか :小林Scrap Bookとか。
- 実名……戸籍名、有名人の芸名、ペンネーム。
- 仮名……戸籍名ではないが特定可能。無名人の芸名、ペンネーム、固定ハンドル、ユーザーID、URL、固定顔文字、固定文体。
- 匿名……個体識別が不可能。空白(あやしいわーるど)、捨てハン(あめぞう)、名無しさん(2ちゃんねる)、としあき(ふたば)、山田(山田BBS)、「通りすがり」、「無力な市民ですが圧倒的多数です」等。群体生物、レギオン*1、生物都市*2、ガイア→ギャラクシア*3。
で、ある程度サイトやブログを続けて運用していると、そこに個性が生まれるから、完全匿名はありえない。したがって、ブロガーは実名か仮名かということになる(とりあえず現状ではURLを使えば別個体と認識できる)。コメント欄はかなり匿名で書ける。しかし、ネット上では完全な匿名はありえないというのも事実。
多くの場合、実名・匿名議論は、小林scrapbookにあるとおり「コテハン(実名+仮名)とステハン(匿名)」という用語を使った方がよかったりする(おそらく、その用語を持ち出すだけで大半の議論は終息する)が、苫米地氏は「実社会において通用している実名またはそれに準ずるもので身分証明可能な人 VS それ以外」に近い認識のようだ。ローカルルールは個人の自由とはいえ、あまりにも通例と違ってると、ねえ。
■実名・仮名・匿名のメリット・デメリット、あるいはそれを選ぶ理由
以下、実際に実名・仮名・匿名のどれでやっているかというより、どの立場に最も共感するかというところで見てもらえれば、と思う。あと、「陥りやすい罠」は、常にそうだというわけではなく、そういう人もいるね、という話。
■実名
戸籍名、あるいは有名人の芸名・ペンネーム・通用名などをネットでも使う場合。
- 実名を選ぶ理由
- リアルでの知名度・主張等をネットに持ち込みたい
- ネットでの知名度・主張等をリアルに持ち込みたい
- ネットとリアルの人格を分けたくない
- ネットでの発言に責任を持っているぞ、という態度表明
- 匿名でやるのは卑怯だという意識
- 肩書きやリアルでの名声という権威を後ろ盾にできる
- デメリット
- ネットでコントロール不能になると実社会での評判にも悪影響が出る
- 実名同士で戦うと、リアルでも大変なことになる
- 無名の人たちからの妬み・僻みを受ける
- 陥りやすい罠
- 実社会での肩書き・地位・礼儀がネットではいとも簡単に踏みにじられることに耐えきれなくなる。
- 実社会で影響力を持っていると、ネットでは思ったように人が動いてくれないという苛立たしさに耐えきれなくなる。
- 匿名のような逃げ場がない道を選んだというだけで自分は卑怯な匿名とは違う、という選民思想、あるいは匿名はずるいという被害妄想が生まれる。それが昂じると、匿名による風評被害に対する復讐心のあまり、トレーサビリティの確保つまり匿名野郎のソーシャルハッキングを目標としてしまう。
- 意見の内容よりも「誰が」「どんな態度で」言っているかということに焦点がシフトし、議論そのものがあさっての方向に向かう。その代表例が、「実名VS匿名」という幻想の対立構造を持ち出すこと。つまり、「発言内容」ではなく「発言者」にこだわる。
- 「正論なら堂々と名を名乗れ」と、実は無関係な二つの命題(正論か否か、匿名か否か)にあたかも関連性があるかのように主張する。
- 匿名の人々があたかも一つの意思を持った群体、あるいは一つの勢力としてまとまって行動しているかのような陰謀論に陥る。そして、匿名全体にレッテルを貼る。
- ネットではアンチの意見がやたらと目立ってしまう傾向があるが、それに打ちのめされる。
- 取り巻き、イエスマンだけを優遇し、「イタいサイト運営者とその信者」状態になってしまう。
■仮名
コテハン、ハンドル、あるいはサイトやブログを持っていて識別可能な場合。
- 仮名を選ぶ理由
- リアルとネットを直接は結びつけたくない
- いきなり実名をさらすのはいろいろな危険がある。個人情報保護。
- ネットのことをリアルに持ち込みたくない
- リアルのことをネットにどの程度持ち込むかコントロールしたい
- リアルの肩書きというバックアップのないところで、内容で勝負
- リアルとはちょっと別キャラあるいは一部分の側面だけをネットに出したい
- しかし独自性は示したい
- ネット内で賛同を得れば、実社会と同様にネット内でも権威を持つようになる
- デメリット
- 実名の人からは匿名扱いされ、匿名の人からはコテハン叩きを受ける。コウモリ扱い。
- 実名ほどの権威はないが、個人攻撃の対象になるし、匿名の逃げ場もない。
- リアルよりもシビアな評価に耐え抜かねばならない。
- 陥りやすい罠
- リアルとネットのギャップに驚かれることがある。
- 逆に、ネットではある程度キャラを作っていたつもりが、ブロガーの顔予想で鋭いところを突かれて焦る。
- 実際に会った人に、リアルでもネットでのキャラクターとして判断される可能性がある。
- 実名・匿名双方の陥りがちな罠に陥ってしまう。
■匿名
個体識別不可能なレベル。
- 匿名を選ぶ理由
- 自分の発言に責任をとらなくていい
- 実名ではやれない告発を行なえる
- 自分のキャラクターを示すことに興味がない
- リアルとネットを完全に切り離したい
- デメリット
- 匿名だから無責任だ、あるいは無責任でありたいから匿名なのだ、と決めつけられがち。
- 匿名と言うだけで情報や議論の価値が下げられる
- 他の匿名と区別がつかない
- 陥りやすい罠
- ネットに完全な匿名はありえないことを忘れてしまう。
- 自分は特定されないことをいいことに、相手に対しては平然と人格攻撃(誹謗中傷)を加える厨房がいる。それを批判されると「正論をはぐらかされた」と逆ギレ。
- 自分の意見が無視されたり削除されたりすると「人の言うことを聞かない」「匿名を無視する自分勝手な運営者」と批判する厨房がいる。「匿名の言うことも謙虚に聞き入れるサイト運営者はいいが、そうでなければ、都合の悪い意見を消す狭量なキチガイ」と主張しがち。ところが、それは実は「匿名(である俺)の意見は必ず反映されなければならない。そうでなければ許せない」というエゴイスティックな主張にすぎない。「匿名はいつでも正しい」という思い上がり。
- 匿名だったら何をやってもいいと勘違いしている厨房はやはり存在している。面と向かってやったら社会人失格ということでも平然とやり、本人に直接言えないようなことでも平然と言える空気を作り出す。
- 自作自演をやるバカが登場。ただ、管理人にIP暴露などで暴かれても、そういう管理人の行為を批判してくれる援護者が登場する。たまにそこまで自作自演する奴もいる。
- 他の匿名のせいで正論までだめにされることがある――が、逆もまた真で、他の匿名の正論をダメにする匿名になりがち。
- 人数が多ければ正しいという誤った「多数決の原理」を前提としてしまう。参照:小学校の帰りの会で、何でもかんでも挙手・多数決で決める。正しさを数で決める。
- 「思ったことをそのまま表現すること」が正しいと思い込み、そうできなければすべてを言論弾圧よばわりする。コミュニケーションの意味の取り違え。
- 単にお祭りに便乗しているだけの野次馬になりかねない。
- 自分たちの考えと違うとすぐに「イタいサイト運営者とその信者」というレッテルを貼る。
- 運営者に賛同する意見をすべて運営者による自作自演と決めつける。自分と違う意見を持つ匿名の存在を認識できない。
- 最後は「勝ち負け」にこだわり、勝利宣言ばかりする。
- 「匿名の批判に耐えきれなくなってコメント削除→コメント欄閉鎖をしたら、サイト閉鎖も時間の問題」と思っているが、「炎上!」にとらわれて肝心の議論の内容はすっかり忘れている。
■『ウェブログ超入門!』草稿から
初稿の段階のデータなので、実際の書籍では言い回しがかなり変わっているところもあるけれど、『ウェブログ超入門!』の内容の中から、「匿名・仮名・実名」についての部分、ならびに「中の人」の話(これは、ブログで与える人格イメージと、実際の人物像にはズレが生じてくるという意味)を引用する。自分の本からの引用なので長め。
■匿名主義か、実名主義か
キャラクター設定ということでは、匿名か、それともある程度プロフィールを公開するか、ということも大きな問題です。日本のインターネット社会では、「実名主義」と「匿名主義」の対立が常に展開されてきました。
草創期の日本のインターネットは、ユーザーが学生や学術機関、研究機関が中心だったので、実名主義が当然とされていました。
ところが、やがてインターネットが一般ユーザーに開放され、匿名で書ける掲示板などが登場すると、匿名主義が勢力を伸ばします。また、個人情報流出やネットストーカーなどの影響で「ネット上で不用意に個人情報を出すのは危険」という風潮も広がっていきました。また「誰が書いたかというレッテルで判断するのではなく、実際に主張された内容で判断すべきだ」という考え方も、匿名主義を後押ししてきたといえます。
もちろん、この匿名主義に対しては「無責任」という批判が必ずついて回ります。
ところが、ウェブログでは「匿名から実名へ」という動きが見られるようです。少なくとも、実名・現住所まで明かさなくても、自分自身のプロフィールを公開していこうという流れが生まれているのです。
■ウェブログは仮名でもかまわない
ここで言葉の定義を厳密にしておきましょう。
まず「匿名」は、「他の人と区別がつかない状態」を指すものとします。「空白」「匿名」「名無し」あるいはその場限りの名前などで、一体どれが誰の意見なのか、どこからどこまでが自分の意見かという境界がはっきりしない状態です。
次に、戸籍上の名前までは明らかにしていないけれども、他の人と区別のつくキャラクターとして振る舞うのを「仮名」としましょう。固定ハンドルやペンネームでの活動です。
そして、戸籍に載っている名前を使ったり、有名人がその芸名やペンネームを使うのを「実名」と呼ぶことにします。
今までの実名・匿名の議論では「仮名」の存在が考慮されず、二者択一に偏るきらいがありましたので、本書では三つに分けて考えていきたいと思います。
そもそも、英米圏では実名主義が主流です。ですから、ウェブログも実名でやるというのが当たり前のようになっています。もちろん、ニックネームで運営されていても、プロフィール欄を見れば本名が書いてあることが多いのです。
この「実名主義のウェブログ」が日本に上陸してからしばらくのうちは、主にIT関係者や学生がウェブログの執筆者でした。つまり、「インターネット初期のユーザー」と非常に近い層によって書かれていたわけです。そうなると、当然のように実名でのウェブログが大半を占めていました。
しかし、多くのユーザーが流れ込むことによって、仮名ブロガーが増えていったのです。それに対して「ウェブログではやはり実名でやるべきだ」「日本の匿名文化にウェブログはあわない」といった議論も出てきました。
ただ、ウェブログはインターネットと少し違って、完全な匿名では運営できません。そもそも、自分一人ののウェブログを書くということは、他の人と明らかに区別されてしまうわけです。したがって、少なくとも「仮名」にならざるを得ません。
■ウェブログでは匿名に埋もれることができない
自分についての物語を語るのがブロガーだとすれば、自分の日常や趣味・嗜好について、つまり自分自身のプロフィールに関わる内容を書かざるを得なくなってしまいます。そのため、自分を「多数の中の一人」に埋もれさせておくことができなくなるのです。
ですから、完全に「匿名」の海の中に溶け込んでいたい人は、ウェブログになじまないかもしれません。しかし、インターネット上で常に「匿名」である、という人はむしろ一部に限られるのではないでしょうか。自分のサイトを運営しつつ、匿名掲示板で無記名で投稿する、といったように、匿名と仮名・実名を使い分けている人が多いはずです。
また、いくら匿名であっても、個性はにじみ出てしまいます。極端な例ですが、ある小さな匿名掲示板では、参加者がだれ一人として投稿者名を書かないにもかかわらず、文体や話題の振り方、あるいは顔文字の使い方で完全にお互いを認識しています。つまり、自然に個性が出てしまうわけです。このレベルまで来ると、匿名である意味がありません。
同様の理由で、匿名掲示板でも「固定ハンドル」という固定された仮名で書き込むようになる人もかなりいます。
これらのことを考えると、ウェブログは仮名でも充分に成り立つと言えるでしょう。一つのサイト・一つのウェブログを維持している以上は、実名であろうと仮名であろうと、匿名のように書き捨てることはできません。決して実名が仮名より偉いとか、責任感があるとは言い切れないのです。ウェブログでは、あなたの必要に応じて、実名でも仮名でもどちらでもいいのではないでしょうか。
■ウェブログによって規定される「中の人」というキャラクター
ネット上では「○○の中の人」という表現が使われることがあります。○○はウェブログやサイトの名前で、筆者の場合なら「ことのはの中の人」と呼ばれるわけです。「松永のやっているウェブログ」よりも「ことのはの人」という認識の方が多いのではないかと思います。
ここで重要なのは、ウェブログにはその人のすべてを表現することはできないけれども、読者はそのウェブログに書かれたことしか知りえない、ということです。わたしたちは日常の何から何まですべてウェブログで表現することはできません。いくら熱心に日常を綴っているブロガーであっても、その人のすべてを表現することはできないのです。
しかし、読者にとっては、たとえばオフ会などで実際に会ったり、個人的に知っているといった特殊な場合を除いて、その人のことはウェブログに書かれたことからしか知ることができません。
こうして、「ブロガーの現実の姿」と「ネットで表現されたブロガーの姿」にはズレが生じます。「○○の中の人」という表現には、「現実には他のこともやってるだろうけれど、とりあえず、○○というウェブログやサイトをやっているという立場における運営者」という意味合いが込められているように思います。
そして、あなたはどのような「中の人」を演じるかを決めることができます。すべてに真面目に取り組む人なのか、おちゃらけた表現で何ごとも茶化してみる人なのか……。実際には一人の性格の中にも色々な側面があるはずですが、「ネットではちょっと軽妙な態度で書こう」と考えた瞬間、あなたは「軽妙なウェブログの中の人」になるのです。
これは裏を返せば、書く内容によってあなた自身のイメージががらりと変わるということでもあります。わたし自身のメインのウェブログは非常に真面目にものごとを書いているので、かなり堅い人と思われている節があります。しかし、インフォーマルのウェブログを知った人から「ずいぶんイメージが変わった」と言われたこともあります。また、あるトラブルがあったとき、ちょっと茶目っ気を出して対応したところ、やはり「意外でした」と言われたこともあります。ウェブログはあなたのイメージを左右するのです。
とりあえずブログ論やりたい人なら読んでおいて損はないと思います。
- *1: マタイによる福音書05:01~13“一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。”
- *2: 諸星大二郎の短編マンガ。有機物と機械が融合し、他の人間と意識が一体化する
- *3: アイザック・アシモフ「ファウンデーション」シリーズ参照
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なかなか更新できず、あいすまぬ事にて候。 実名でのネット活用促す 総務省「悪の温床」化防止 ブログの匿名性が低いということは、必ずしもブログの書き手が実名を使うという... 続きを読む
ちょっと調べモノをしてたら、こんな記事見つけました。 スラッシュドットに見る日本. 続きを読む
いやぁ、勉強になりました。
私も実名と仮名をきちんと定義せずに使っていただけに、非常に身につまされました。
それにしても、この辺の議論は、大昔から繰り返されているんでしょうけど、どっちが正しいという話ではないのでいつまでも盛り上がってしまうんでしょうね。
URL先から来ました。ざっと読ませていただきました。
匿名性の「メリット」という部分について、いかがお考えでしょうか。特に、ネット上における「創作」や「共同性」の可能性について。「全然別の人に変身できるんですよ」で終わりではなく、「誰か」であることを放棄して(つまり上で言う匿名で)創作なり共同性に参画するというあり方に、「無責任」以外の評価はないものでしょうか?