近代サンタクロースの生みの親はブッシュ大統領のご先祖様だった

 クリスマスシリーズ第3弾は、近代サンタクロースのもとになった「聖ニコラスの訪問記」という詩の作者が、ムーアではなくリヴィングストンだったという話をさらに突っ込んでみる。アメリカでは定着しつつあるようだが、日本では話題にもならず。大体、その詩も「赤鼻のトナカイ」ほど有名じゃないし、作者名なんかもっと有名じゃないから仕方ないかもしれない。ただ、ウェブ上では岩波新書の葛野浩昭著『サンタクロースの大旅行』(98年刊)の孫引きばかりで、現時点では間違った(あるいは古い)記述になってしまっているので、その点は正しておきたい。

2006年12月24日03:54| 記事内容分類:世界史, 民俗学・都市伝説| by 松永英明
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 で、なぜこれが問題かというと、ムーアがこの詩の作者だとしたら、なぜアメリカのサンタクロースが北欧の妖精風になったのか、という疑問に明快な答えが与えられないからである。しかし、リヴィングストンはオランダ系だったので、当時イギリスや清教徒の間で禁止されていた聖ニコラスの祭も違和感なく取り入れることができた。また、北欧神話やトナカイについて詳しく、北欧文化の専門家を自認していたらしい彼が、北欧のイメージをふんだんに盛り込んだというのも自然な話。また、神学者だったムーアにしては宗教性がほとんどない、という疑問も解消される。

 結局、サンタクロースというのは、キリスト教の聖者が云々というより、フェアリー・テイルの主人公と割り切るべきものなのだろう。

 というわけで、まずは、ニューヨーク・タイムスの元記事を訳したデータを引用してみる。長いので、特に関連する部分を。

文学探偵が伝統的なクリスマス詩の著者に疑いを投げかける

 150年以上、クリスマスごとに、子供たちは靴下を注意深く煙突のそばに吊るし、その伝統についてはクレメント・クラーク・ムーアに由来すると教わってきた。

 裕福なマンハッタンの神学者ムーアは、1823年に「聖ニコラスの訪問記」でアメリカのサンタクロースのイメージを作り上げた人物として歴史に残っている。「クリスマスの前の夜」というほうが有名なこの詩は、世界中で広く読まれた。

 しかし、ムーアは本当にそれを書いたのか? この詩の初期の歴史の新しい研究の結果、ヴァッサー・カレッジのドン・フォスター英語学教授とその学生たちは、文学的な詐欺を犯したとしてムーアを告発している。一連の状況証拠を整理し、詩の精神とスタイルがムーアの他の著作と明らかに合わない、と結論づけた。

 新刊の"Author Unknown"(Henry Holt & Company)でフォスター氏は、「聖ニコラスの訪問」が1823年にニューヨーク州トロイの新聞で匿名で発表されていること、それはオランダ系の紳士詩人ヘンリー・リヴィングストン・ジュニアの見方や詩歌とひじょうに一致することを論じている。

 ニューヨーク州ポーキプシーに住んでいたリヴィングストンは、ムーアが詩の著者とされる前に死んだ。

 リヴィングストン一族は、詩の人気が高まった20年後に最初に指摘し、それ以来ずっと、リヴィングストンが書いたのだと主張してきた。しかし、物的証拠がなく、これらの主張は何ももたらさなかった。去年(1999年)、リヴィングストンの7世の子孫にしてアマチュア系図学者であるMary Van Deusenがフォスター氏に援助を求めた。

 著名な文学探偵のフォスター氏は、証拠の影響を探すためにコンピューター化された文献を使って、テキストの言葉遣いと構文の詳細を研究する技術を開発した。シェークスピアが匿名の詩「Funeral Elegy」の著者であること、ジャーナリストのジョー・クラインが小説『原色(Primary Colors)』の著者であることを突き止めたことで知られている。

 この件は他の学者によってまだ追試されていないが、アメリカの象徴ともなった詩についての議論を呼ぶことは間違いない。「その詩は近代アメリカのクリスマスを形成する役割を演じた、と誰もが記している」と、歴史書『クリスマスのための闘い』(Knopf, 1996)の著者シュテファン・ニッセンバウムは述べている。1820年以前、アメリカで典型的に描かれた聖ニコラス、またの名をサンタクロースは、やせた厳しい司教で、贈り物としてしばしば試練を与えることもあり、クリスマス・イブに来るとも限らなかった。この詩は聖ニコラスを陽気な妖精(エルフ)に作り直し、子供たちに贈り物を与える時期をクリスマスに変えていったのである。

 それが最初に登場したのは、上流の文学者たちが匿名で出版することの多い時代だった。それは新聞が上流の文学者たちの価値を低く見なしていたからである。およそ20年後、この詩の人気が全国的に増刷されて広まるまで、ムーアはその著者として名乗りでなかった。彼は後に、「長く沈黙していたのは、つまらないものと思ったものに対する気後れがあったからだ」と説明した。オリジナル原稿は今までおもてに現われず、誰も今まで説得力ある異議申し立てをしてこなかった。

 しかし、フォスター氏の報告では、今のチェルシー市にある土地の持ち主だったムーアはこのような遊び心に満ちた詩を書くことのなさそうな不平屋であった。彼は親であることに厳しい姿勢を示しており、その詩と書き物は「騒々しい少女たち」と「騒がしい少年たち」の鬱陶しい物音についてしばしば書いている。他のクリスマス詩で、自分自身の子供たちに、謙虚にし、死ぬべき運命について考え、はかない喜びを避けるように注意している。彼は 「不謹慎な詩歌」を「表現の輝き、音節の響き、それが伝える発想のみだらな誘惑のいずれにおいても薦めない」と非難している。

 この詩の聖ニコラスはパイプをたしなんでいるが、ムーア氏はタバコを「アヘンの不実な助手」として非難している。フォスター氏はまた、ムーアを、トナカイに関する混乱で一撃する。後半生に詩を手書きしたとき、彼はサンタの最後の2頭のトナカイのもとの名前を間違って書いているのである。彼は、オランダ系アメリカ人の雷と稲妻を意味する「DunderとBlixem」ではなく、印刷屋の誤植「DonderとBritzen」に従っている。ムーアはドイツ語を話したが、オランダ語を知らなかった。

 「人々は最初の版を誤植としている。しかし、リヴィングストンのようなオランダ系にとって、それはまさに正しい表記だったのです」とフォスター氏は語る。

 また、盗作の明らかな例も探り当てた。図書館に牧羊業マニュアルを寄付したとき、ムーアは表紙の裏に、「私がフランス語からこれを訳した」と書いた。しかし、最後のページの著作権表示には、誰か別の人が単独の翻訳者として記されていたのである。

 「クレメント・クラーク・ムーアは、(正直者)ジョージ・ワシントンではなありませんでした」とフォスター氏は述べる。

 歴史家は、ムーアが著者だという見方が最初に表面化したのは1837年で、このとき、友人のチャールズ・フェンノ・ホフマンがそれを表沙汰にしたのだ、と述べている。しかし、フォスター氏は、ホフマンが念頭に置いていたのは、別のまずい詩だ、と論じている。もう一つの詩「オールド・サンタクロース」は、1821年に発行された小冊子に匿名で載っていた。

 フォスターは、その詩こそムーアの書き物であるという顕著な特徴をいくつか有しているという。たとえば、「dread」という語の頻繁な使用、形容詞「various」の多用、受動態「seen」の特殊な用法などである。「オールド・サンタクロース」は、いたずらな子供たちへの厳しい非難に4節を費やしている。

 ムーアはさらに14年間沈黙し続け、友人のホフマンは、どうしてそのような結論に達したか尋ねられないうちに神経衰弱になってしまった。

 最終的に、家族のたっての頼みによって、1844年、ムーアはこの有名な詩の著者だと語り、自分自身のもっと厳粛な詩歌集にこっそり収録した。しかし、フォスター氏は、自分が調べるまで「危険はなかった」という。

 一歩踏み出してしまう前に、ムーアは最初に「訪問」を発表した新聞トロイ・センティネルのオーナーに手紙を書き、誰かがその来歴を知っているかどうか尋ねている。それを知っていた人間はすべて、ムーアが名乗り出る前の数年間に没していた。

 フォスター氏の事件の最重要点は「訪問」の文学的な由来にある。これを書いた人物は、18世紀の詩人ウィリアム・キングとクリストファー・アンスティーの流れに密接に続いている、とフォスター氏が言う。どちらも「弱弱強」格つまり3音節目に強勢のある拍子で、大衆的かつ下品な詩を書いた。例えば、キングの詩の1つは「二日酔いのアポロンが空を渡る二輪戦車を操縦しようと奮闘している」という情景を描く。他の箇所で、アポロンの「猟犬」はサンタのトナカイのように「踊り跳ねる」。

 「訪問」は、その拍子、スタイル、イメージ、語彙を二人やその系列の詩人たちから借りている、とフォスター氏は述べている。しかし、ムーアが明確な「弱弱強」格の詩を書いたのはただ一つだけ、怠惰と尊大さについての道徳を論じた「ブタと雄鶏」のみである。

 これは、「訪問」の著者に影響を与えたはずの詩からは、ほとんど何も借用していない。ムーアは一般に信心深い詩人をまねている、とフォスター氏は述べている。

 しかし、フォスター氏の分析によれば 、ヘンリー・リヴィングストンはこのような下品な「弱弱強」格から頻繁に借用している。リヴィングストンは、クリスマスごとに家族に「弱弱強」格の詩歌を書いている。それらの多くはキングやアンスティーから言葉を借りており、そのため「訪問」によく似ている。

 この事件のために、フォスター氏はリヴィングストンのよく知られた作品、それらに影響を与えた文章、「訪問」に共通する形式上の癖のデータを作った。例えば、リヴィングストンの書いた者は、「all」の異常な使用に満ちている。それは「聖ニコラスの訪問記」でも同様であり、「家をすっかり通って」「ベッドですっかり気持ちよく」「すっかり毛皮を来て」などがある。

 「すっかり気持ちいい」という用法が最初に出てくるのは、リヴィングストンの他の詩に影響を与えた下品な「弱弱強」格の詩にある。もう1つの例は、「ハッピー・クリスマス」という祝福だ。たいていの人は「メリー・クリスマス」というのに、リヴィングストン氏は首尾一貫して「ハッピー」を使っている。

 「訪問」は、リヴィングストンの大好きなイメージの寄せ集めである、とフォスター氏は書いている。リヴィングストンの軽い詩は、サンタの空飛ぶそりとトナカイのように、空飛ぶ子供たち・動物・妖精・ボートその他の乗り物でいっぱいである。リヴィングストンは、自分自身が北極圏の専門家であると思いこみ、ラップランドのトナカイについて別のところで書いている。また、空飛ぶ山羊に引っ張られる二輪戦車に乗っている北欧神話のトール神についても書いている。リヴィングストンは聖ニコラスが毎年訪問して来るというオランダの伝説にも精通していたことだろう。

 詩の原作者は、サンタのトナカイの点呼において、独特の叫び声をちりばめているが、それもまたリヴィングストンのもう一つの癖なのである。「それは年期の入ったリヴィングストンなんです」とフォスター氏は言う。

MAJOR HENRY LIVINGSTON JR. (1748-1828)

 リヴィングストンの経歴。ブッシュ大統領と血縁関係にあるらしい。

 ヘンリー・リヴィングストン・ジュニアは1748年10月13日にニューヨーク州ポーキプシーで生まれた。リヴィングストン一家は、植民地時代から革命期のニューヨークの重要な一族であった。最初のリヴィングストン荘の領主ロバート・リヴィングストンの末の息子ギルバートから続くポーキプシーの系譜は、他の息子たちロバートやフィリップのよく知られた子孫ほど恵まれてはいなかった。しかし、 ギルバート・リヴィングストンの他の子孫、ジョージ・ウォーカー・ハーバート・ブッシュ大統領とその息子ジョージ・W・ブッシュ現大統領のおかげで、この系譜は注目されるようになった。

 ヘンリーの兄弟、ジョン・ヘンリー・リヴィングストン師は12歳でエール校に入学し、オランダ改革派教会のオランダとアメリカの支部を合併させることができた。死の時点で、リヴィングストン師はラトガース大学学長であった。ヘンリーの父親と兄ギルバートはニューヨーク行政に関与しており、そしてヘンリーの父方の叔父(ピエール・ファン・コートランド)はニューヨーク州の最初の副知事であった。けれども法律畑がヘンリー一家の多くにとってなじみ深かった。義弟ジョーナス・プラット裁判官は知事になれなかった候補であり、その娘エリザベスの夫で合衆国連邦最高裁判事スミス・トンプソンもそうである。ヘンリーの孫シドニー・ブリースはイリノイ最高裁判所の裁判長であった。

 百科事典的知識と文学愛好で知られているヘンリー・リヴィングストンは、農場主であり、測量技師であり、治安判事であって、財政関係限定の犯罪と民事を扱う司法的地位にあった。1775年の革命軍に参加した最初のニューヨーク州人の一人ヘンリー・リヴィングストン少佐は、いとこの夫モントゴメリー元帥に従ってハドソン川をさかのぼってカナダに侵攻する戦役に参加し、新妻サラ・ウェリスと生後1週間の赤ん坊をポーキプシーの地所ロウカスト・グローヴに残していった。赤ん坊キャサリンは、現在、リヴィングストン少佐の知られている中で最初の詩のテーマである。リヴィングストンは仮差押え委員として戦争に関係していたので、この戦役後、英国人ロイヤリストたちの所有していた土地を私物化し、革命のためにそれを売却した。

 リヴィングストン少佐が詩や散文のほとんどを無名または「R」という筆名で発行したのは、サラが1783年に早逝したあとの時期である。サラの死の10年後、ヘンリーはダッチェス郡の政治家の娘で隣人の姉妹であったジェーン・パターソンと結婚した。二人の妻との間に、ヘンリーは12人の子供をもうけた。ポリティカル・バロメーター、ポーキプシー・ジャーナル、ニューヨーク・マガジンなどの多くの雑誌で、1787年以降、たまには特別な場合のために作った楽しい詩歌を出版した。最も有名な詩「聖ニコラスの訪問記」は2000年まで、1844年に詩集にその詩を掲載していたクレメント・クラーク・ムーア(1779-1863)の作品とされてきた。リヴィングストンは1828年2月29日に死んだ。

というわけで、原典版の翻訳を載せておく。

聖ニコラスの訪問記(クリスマスの前の夜)

クリスマスの前の夜、家じゅうすっかり、

ネズミ一匹、生き物は寝静まっていた。

くつしたはきちんと煙突のそばに吊されていた、

聖ニコラスがもうすぐやって来るのを期待して。

子供たちはベッドの中ですっかりおやすみ、

砂糖菓子の夢が頭の中で踊っているころ、

ママはスカーフをかぶり、自分は帽子をかぶり、

脳は長い冬の居眠り状態に入ったところ――

芝生の上にガチャガチャいう音が響いたので、

何が起こったのか見るためにベッドから跳ね起きたんだ。

フラッシュのように窓のところに飛んでいき、

雨戸をはねのけ、窓を押し上げた。

降ったばかりの雪の上の月影が、

下界のものを真昼のように照らしてる、

驚いて見開いた目に見えたのはなんと、

小さなそりと、8頭の小さなトナカイ、

小さなじいさんが御者、元気よく素早く、

そいつは聖ニックだとすぐにわかったね。

ワシより早く駿馬たちを来させて、

笛を吹き、叫び、そいつらの名前を呼んだ。

「さあ!Dasher、さあ!Dancer、さあ!Prancer、Vixen、

「行け!Comet、行け!Cupid、行け!Dunder、Blixem。

「玄関のてっぺんに!壁のてっぺんに!

「さあ、駆け抜けろ!駆け抜けろ!すっかり駆け抜けろ!」

風のあらしのときに乾いた葉っぱが飛んでいくように、

じゃまものがあれば空に登り、

駿馬たちは屋根の上まで飛び上がる、

おもちゃで一杯のそりも――聖ニコラスも一緒に。

それからあっという間に、屋根の上から聞こえてくる、

小さなひずめが踊り跳ねて駆けている。

頭を引っ込め、周りを見回していると、

聖ニコラスが煙突をはずんで落ちてきた。

頭から足先まで、すっかり毛皮を身にまとい、

着ているものはすっかり灰とすすでよごれてる。

おもちゃの包みを後ろに放り出し、

荷物を開いたばかりの行商人みたい。

その目は――なんとキラキラ! えくぼはなんと楽しそう、

ほおはバラみたい、鼻はサクランボみたい、

おどけた小さな口は弓のように笑ってる。

あごひげは雪のように真っ白。

パイプの先を歯でしっかりくわえ、

その煙が頭のまわりを輪のように囲んでた。

広い顔で、ちょっと丸いおなか、

笑うとゼリーでいっぱいのお椀のように揺れる。

まるまる太ってまんまるの、ほんとに愉快な老妖精、

それを見たらつい笑っちゃったね。

片目でウィンク、小首をかしげ、

恐れる必要なんかないことがすぐにわかったよ。

言葉を使わず話したが、まっすぐ仕事に向かっていって、

靴下をすっかり埋めていき、それからくるりと振り返る。

それから指を鼻の横に当て、

一度うなずき、煙突を登っていったんだ。

そりに飛び乗り、トナカイたちに合図して、

それからすっかり飛んでいった、アザミの綿毛のように。

でも大きな声が聞こえてきた、視界から消えないうちに――

みなさんハッピー・クリスマス、みなさんよい夜を。

 そうそう、聖書の世界では一日の始まりは夕方から。だから、現在の暦の「24日の夜」はまさに「クリスマス当日の夜」である。もともと「クリスマス・イヴ」のeveとはevenすなわち「夕」とか「晩」という意味であって、「当日の夜」のことだった。

 それが「前夜」の意味になってしまったのは夜中が一日の始まりとなってからのこと。だから「イブイブ」で「前々夜」というのはさすがに苦しすぎる。

 この詩では「クリスマスの前の夜」と書かれているが、本来、クリスマスはクリスマス・イブに始まって、次の日没に終わる。とすると、25日の夜になってもまだクリスマス気分というのはずいぶん遅刻だということになろう。

(2001.12.25.初出、2006.12.24.修正版)

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2006年12月24日03:54| 記事内容分類:世界史, 民俗学・都市伝説| by 松永英明
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