「集合知」ウィキペディアの限界と可能性(Wikipediaの役割について)
先日、自前のウィキ百科サイト「閾ペディアことのは」を立ち上げてみた。これは、Wikipedia(ウィキペディア)と同じくMediaWikiで作られた極私的百科である。「集合知」の典型ともされるウィキペディアに対して、自分のは当然「個人のまとめ」であって、その性質は自ずから違ってくるのは当然であり、そのどちらがいいとか悪いではなく、それぞれに役割と得手不得手が出てくることになる。
さて、ウィキペディアの運営方針をもとにして、それを少しもじるつもりで自分の運営方針を書き始めてみたところ、どういうわけか完全に逆転してしまった。そこで、改めてウィキペディアというものの存在と性質を考えてみようと思った。
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(旧: )
■ウィキペディアの「集合知」は「真実」を追及するものではない
以前、私ははてなの方でこんなことを書いた。
■Wikipediaの限界
Web2.0の例としてあげられるWikipediaであるが、多数の人が一定のルールのもとで編集に加わることによって見えるモノは、決して「真実」ではない。それは「現在認識されている情報の集積」にすぎない。「議論」は真実を発見するのに重要な役割を果たす過程であるが、「真実」にとっては必要条件でもなければ十分条件でもない。「議論」は「解釈」を深めるものである。ガリレオの時代にwikipediaがあったらどのような記述になるかを想像してみればいい。
こう述べたところ、どういうわけかひどい曲解をする人がいたのだが、要するに「集合知」――多数の人の「認識」を寄せ集めたところで、それが「真実」かどうかについてはまた別の検証プロセスが必要だということを述べただけである。
そして、何より重大なことは、ウィキペディアは真実ではなく、認識された情報の集積であるということを、ウィキペディアの基本方針そのものが認めている(あるいは、ウィキペディアがそういうものを目指すと最初から明記されている)ということである。
■ウィキペディアの方針
「Wikipedia:基本方針とガイドライン」をじっくり検討してみていただきたい。特に以下の内容が重要なポイントとされている。
すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない
ウィキペディアに掲載される情報は信頼できるものでなければいけません。あらかじめ信頼できる情報源から公表、出版されている事実、視点、理論及び議論だけを収録してください。記事は可能なかぎり情報源を明記すべきです。情報源が明らかでない内容は、異議を述べて取り除くことができます。
- Wikipedia:独自の調査は載せない
ウィキペディアの記事に未発表の理論、データ、言明、概念、論証、アイデアを掲載することはできません。また、発表済みのデータや言明、概念、論証、アイデアからの新たな分析結果・合成結果を掲載することもできません
読み流すと何となく当たり前のことを言っているようにもみえるのだが、きちんと読んでみると、ウィキペディアの性質がよく見えてくる。
まず、ウィキペディアは「中立」を前提とする。そのために、「客観的で信頼できる検証可能な情報源」でこういうふうに言われている、ということを記載するのみである。簡単に言ってしまえば、一流の新聞などでの報道記事に基づいて書くのはかまわない。しかし、検証可能でなければならないので、たとえば自分が直接取材をして得た情報なども排除されることになる。
これは「当事者がこう言っている」ということでさえも除外される場合がある。つまり、反論を載せたければ、その反論が新聞なり何なりの「誰でも検証可能」な情報源に載ってからにしろ、というのがウィキペディアの主張である。
■「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
ウィキペディアが真実を追究する場ではない、ということは、ウィキペディア自身が強く主張していることである。ウィキペディアにおいて「検証可能」とは「広く信頼されている報道機関の報道で確かめることができる」というレベルのことを指しており、追試ができるとか、本人に訊けば同じことが訊けるということは「検証可能」とはされていない。
まさに「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」しか問われていないのだ。Wikipedia:検証可能性:「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にはこう書かれている。
この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自の調査を発表してはならないからです。記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。
極端な言い方をすれば、メディアリテラシーを捨て去って「信頼できる情報源」の情報を鵜呑みにし、それを集積するのがウィキペディアだということである。事実か否かの追及については、ウィキペディアでは有害無益なものでしかないと宣告されている。「真偽よりも検証可能性」、その「検証」とは図書館に行けば有名な媒体で同じことが読めるかどうかということでしかない。
つまり、ウィキペディアはウィキペディア自身が主張するとおり、「真実」を載せる場ではなく、現代における「権威ある情報源が何と言っているか」の集積でしかない。それはそれで役に立つというか、基礎資料としての性質は確かに備えているだろう。そして、基礎資料は必要である。また、この方針がウィキペディアを論争の場とする危険性を減らしていることもまた間違いのないことだ。
だが、それはまさにウィキペディア(あるいはWeb 2.0型集合知)の限界でもある。「みんなで、客観的な情報を持ち寄っているのだから、これが人類の叡智の結集だ」などというのは、ウィキペディア自身が否定している。
■「多数決」は「真実」ではない
民主主義や多数決の原理というのは、決して正しいわけではない。
「ガリレオの時代にwikipediaがあったらどのような記述になるかを想像してみればいい」と書いたら、翌日、BigBang氏が「AnotherB - ガリレオブログに起きたこと----1633年の大炎上」というのを書いて具体化してくれたわけだが、現在のウィキペディアの方針なら、まさに権威的なプトレマイオスの体系が真実とされ、ガリレオの説はよくて「このように反論する者もいる」程度にしか書かれなかっただろう。しかも、それが少数説であることもきちんと書かれなければならない。
しかし、ウィキペディアの方針でいえば、それでいいのである。「現時点で認識されている知識の集大成」であればそれでいいのだ。1630年代にウィキペディアがあったとして、それは「権威的な天文学者は天動説が正しいとしている。一部の天文学者の中に地動説を唱える者もいるが、それはトンデモとして否定されている」と書くのがウィキペディア的正解だということである。そして、どちらが正しいか、ウィキペディア上で検証するな、という方針も厳しく守られねばならない。
注:ここでこう書くと、あたかも私がいわゆる疑似科学擁護であるかのごとき主張を意図的に繰り返す者たちがいる。つまり、「今は否定されているがそのうちそちらが常識になるかもしれない」という物言いは疑似科学擁護によく使われるのだから「ガリレオは当時トンデモだった」と言うのは疑似科学擁護だ、疑似科学の思考回路だ――などと主張する者たちがいる。
もちろん、ここでは疑似科学擁護的なことを主張しているのではない。単に「ウィキペディアでは真実の検証ではなく、世間でどういう見解が権威となっているかをまとめているだけ」ということを示すために書いたのである。
ちなみに、疑似科学についていえば、「後世になって正しいことが証明された、当時のトンデモ理論が存在する」ということが事実であっても、「だからこのトンデモ理論は後世に正しいと受け入れられる」を論理的に意味しない(むしろ、受け入れられることもあるが受け入れられないことの方がはるかに多い)という事実を提示すれば充分であると考える。
したがって「多数の人がそう考えている」あるいは「専門家がたいていそう考えている」ということは、決してそれが「真実である」ことを担保するものではなく、単に「現代社会ではそれが正しいとしておくのが無難」ということでしかない。
■「多数決」は「真実」ではないが「正しい」こともある
もちろん、偉い学者さんたちがこう考えている、権威ある新聞やメディアがこう述べている、ということを、とりあえず「正しいもの」「真実」としておいて(いちいち検証せずに)受け入れ、それに基づいて思索・行動するならば、それで用が足せることも多い。なぜなら、世の中は必ずしも真実に基づいて動いているわけでもないし、真実が必要でないことも多いからだ。
真実を告げない方がいいこともあるのだろう。誰もが「宝くじでは寺銭が半分取られるから、払い戻しの期待値は買った宝くじの半分くらい」という真実に基づいて行動し、「もしかしたら何億円当たるかも」という夢を追えばいいという世間の「正しさ」を冷静に否定するなら、宝くじを買うような人はいなくなるはずだ。だから、「宝くじは買えば買うほど損」という「真実」を告げることは「無粋」であり、「宝くじで夢が買える」という、統計学的には真実とは言えない表現の方が世間的に正しいとされたりもする。
また、世の中は「真実」か否かだけではない。たとえば、人の好みに真偽はない。だから、別に服の色がパステルカラーだろうとモノトーンだろうとシャーベットカラーだろうとサイケ調であろうと、どれが正解でどれが間違いということはない。ただ、これが服飾業界の場合、「多数の人が今好む色」という「多数決」ことが「正解」である。2007年春夏のメンズ流行色が「サイレント・ニュートラル」「ル・グラン・ブルー」「ノスタルジック・ブライツ」であるとするならば、(それが仮に流行色協会によって世論を誘導しているのであったとしても)その流れに乗っかることこそが「正しい」のである。
もし、そういう「世間の正解」から外れ、流行に乗っからないとすれば、それは保守主義・個人主義であり、よくいえばオリジナリティあふれる人、悪くいえば世間からずれた人となる。だが、別にそれは「世間的な正解」ではないが、善でも悪でも真でも偽でもない。ただ、目的に合うか合わないかしかない。
したがって、世の中には「真偽」ではかれることと「多数決」ではかれることがあって、それは別々の判断基準である。そして、ウィキペディアはそれを「権威」の判断以外の判断基準を捨て、ただ権威的情報を集積しているというだけの話である。それは、ウィキペディア自身が認めるとおり、ものごとを調べるとっかかりにしかならず、もし真偽を追及したければ自分でやれ、という話なのだ。
だから、ウィキペディアが集合知として何か「真実」を生み出すかのような錯覚を持ってはいけない。あれは真実を探るための土台となる「けっこう信頼性が高いと思われている情報源の情報のまとめ」でしかない。その信頼性自体が検証されることはないから、要するに「世間で正しいと認めそうな人の多い情報の集積」ということになる。
■「ソース至上主義」の危険性
さて、このように見てくるとはっきりするが、ウィキペディアは実は「文献主義」とでもいうべきものであるといえる――この文献主義というネーミングには、善意も悪意もない。ただ、単に(広い意味での)文献によるまとめだということである。
悪しき文献主義としては、たとえば匿名掲示板の「ソース至上主義」が挙げられる。誰かの発言に対して「ソースを挙げろ」という。それはもちろん、いい加減な思いつきではないということを示すための一助にはなるだろう。しかし、ソースがあれば正しいのか。あるいはネット上に、あるいは資料には載っていない事実には永久にたどりつけないという欠点がある。
ウィキペディアでは、「信頼できる情報源」としての「出典」を示せない情報は容赦なく切り捨てよ、という方針がある。それは、たとえ本人がそう言っていようが、あるいは「実際に見に行ったらそうだった」であろうが、「検証不可能なので却下」とされるのである。そういう性質の場所なのだと理解すれば、すなわち「権威的文献情報の集積所」だと理解すればそれはそれでいいのだが、それが極めて不十分なものであると感じられる場面も数多くあるだろう。
たとえば文献を丁寧に読み込み、そこからわかることをまとめれば、それはそれで何らかの分析になる。たとえば古典などであれば、残された文献を解読するしかない。しかし、それはあくまでも「文章から読み取れることは○○である」という限定付きの情報にすぎない。私が1年前に公表した「きっこの日記」全文読破+分析も、あくまで「ネット上の記述から読み取れることとしては」という保留を最初から最後までつけていた(にもかかわらず誤読する人の多かったことよ)。
しかも、ウィキペディアではこういうふうに文献から読み取れることを表現することさえも「独自の研究」として禁じられている。ただ単に「こう書かれている」という併記・列挙、あるいは誰か別の人による権威ある分析結果しか書けないことになっている。少なくともウィキペディアを「洗練された情報源」として扱うことは難しい(役に立つことは多いのだけれど)。
「ウィキペディアでこう書かれている」は、そういう情報が存在するというレベルの事実にすぎない。「ウィキペディアでこう書かれている、だから真実だ」というのは(ウィキペディア自身について書かれたこと以外は)正しい考え方ではない。(注:だからウィキペディアに書かれたことは間違いだ、と言っているわけではない。そういう曲解はしないでほしい)
■Web 2.0とWeb 1.0の棲み分け
もはやWeb 2.0という言葉は目新しいものでも何でもなくなったので、今なら逆に振り返って言えることもあろうと思う。
まず、Web 2.0を定義しよう。いろいろな観点があるが、ここでは「情報発信者・情報提供者・情報享受者が同じになる仕組み」と定義してみたい。ポイントは「ある場所に集まった人たちが同じ資格で情報を共有する」ということである。
一方、それ以前のウェブの中心的スタイルを仮にWeb 1.0とし、「情報発信者と情報提供者と情報享受者の間に区別が存在している」と定義してみる。たとえば個人サイトがあって、掲示板情報が管理人によってサイトでまとめ直しされるとしても、やはり「管理人」と「情報提供者」で立場が大きく違う。Web 2.0のように、みんなが同じ立場で情報をやりとりするというわけではない。
この定義はWeb 2.0/1.0について「情報共有の方法」という点からとらえたものなので、APIやRSSのような仕組み(つまり情報のパーツ化と再利用)やロングテールの発掘といった側面については論じていない。しかし、今回の話にはその辺は関係ないので置いておく。
さて、そうすると、ウィキペディアは「だれでも編集に参加できる」という点で明らかにWeb 2.0的である。そして、それをうまく稼働させるために、情報の「真偽」を考慮しないという立場を取ることとなった。それは、「今の世間で大体正しいとされることがら」をまとめる役に立つ。
いわゆる「クチコミ情報サイト」は、もともと「みんながどう評価しているか」を知ることができればいいわけだし、何が人気かがわかればいいわけだから、Web 2.0的な状態が最も役に立つと言い切ってもいいだろう。言い換えれば、多数決が正しいときには、Web 2.0は非常に効果を発揮する。
しかし、真実を探るには「独自調査」も必要になるし、「信頼できる情報源」を疑う必要も出てくる。つまり、Web 2.0は「万能ではない」のだ。
注:ここで念を押しておくが、こういう書き方をするとすぐに「松永はWeb 2.0を否定した」とか言い出す奴らがいる。まったくもって頭が悪いと思う。私はWeb 2.0は万能ではない、つまり役に立つときもあれば、役に立たない場面もある、と述べているのである。私も価格.comの掲示板やamazonの評価には目を通し、判断のための一基準としている。
ただ、それが本当に「真実」かといえば、そもそも正解のない世界であったりもするわけで、そこに表現されたもの=真実だと考えるのは無理だ、と言っているわけである。
■極私的百科の試み
極私的百科事典をウィキペディアと似たようなスタイルで、ただし自分一人だけでまとめたらどうなるか、というのが閾ペディアことのはである。
そして、ウィキペディアの方針にならって閾ペディアことのはの方針をまとめ始めたところ、なんと自分の私的百科ではウィキペディアと完全に反対の方針となってしまったのだ。最初から意図して反対のものを作ろうと思ったわけではないのだが、情報に対する自分の姿勢を貫こうと思ったら、完全に反対になったのである。
その基本方針と三大方針は以下のとおりである。
- 閾ペディアことのは:基本方針とガイドライン
- 閾ペディアことのは:中立的な観点などこの世に存在し得ない。独断と偏見であることを常に自覚し、自説に自分が責任を持つ。
- 閾ペディアことのは:検証可能性を限定しない。編集内容のソースとして、出版物やウェブサイトなどのみを指定すべきではない。
- 閾ペディアことのは:独自の調査は大いに推奨する。一次情報に自ら当たる姿勢を重視する。
これは、決してウィキペディアの存在を否定するものではなく、むしろ、ウィキペディアと極私的百科(あるいは松永がやりたいようにやる場合の発想)との違いを浮き立たせるものであると考えている。別にこれが正しいとか、私的百科はこうあるべきだとか主張しているわけではない。ただ、自分が勝手にやるならこうだよ、というだけのことだ。ましてや、この流儀をウィキペディアに持ち込むつもりもない。
しかし、自分が何か情報をまとめるとしたら、ウィキペディアではやれないことをやりたいわけで、そうなると「一次情報の重視」だとか、「いかなる情報源も鵜呑みにしない」とか、「権威や他の情報源に責任転嫁しない。あくまでも自分が書いたことは自分に責任があるとする」といったことが重要になってくる。「誰かがいったことであって自分は言ってない」と後から言い出すようなことはしたくないし、いい加減な憶測を垂れ流しておいて「誰かが否定してくれるだろうから問題ない」などという態度を示すようなことは、人間として絶対にやりたくないことである。
■編集者の存在
自費出版などではなく、商業出版物としての本づくりに関わっている(関わったことがある)人たちであれば理解していただけると思うが、「ただ単に情報を集めただけ」のものはたいていの場合、良書とは呼べない。いや、現実問題として、必ず「編集作業」が必要である。そして、少なくともその本の方針や、情報の採用・不採用の基準を決めるという意味で、編集は極めて大きな意味を持っている。そこに「名編集者」や「実力ある編集者」の出てくる余地がある。
むしろ、編集があるからこそ、意味のあるものができる、ということは、出版業界の人間なら誰もが認めることだろう。たとえば、フラットな編集を特徴とするWeb 2.0を描いた梅田望夫氏の本は、決してWeb 2.0的に作られたものではなく、梅田氏一人の視点で書かれたものである。それは決してウィキペディア的に中立なものでもなければ、Web2.0的に集合知によって生み出されたものでもない。
だから何が言いたいかといえば、要は目的と必要に応じた使い分けであり、それぞれの特徴が生かされる状況を考える必要があるという話である。
ウィキペディアは、権威ある文献情報の集積であって、それ自体は真実を追究しない。それでカバーできない部分は多くあるから、個人サイトなどの出番もあるといえる。もちろん、私の極私的百科はウィキペディアから決して「信頼できる情報源」とはみなされないだろう。しかし、そうであってもやはり、自分自身で情報の編集を行ない、真実はどこにあるのだろうかと考え続けてみたいと思うのである。
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Wikipediaが集合知であることによる性格と、
辞書としての編集方針がいささか混同されているように思えます。 おそらく、ガリレオの時代に辞書を作成しようと思った場合、Wikipedia方式をとらなくても、同様の結果となることでしょう。必ずしも真実を求めないという部分は辞書としての編集方針ゆえではないでしょうか。
集合知であることの限界については、もう少し踏み込んだ考察が必要ではないかと思います。
Wikipediaは「辞書」ではなく「事典」。UZ氏の見解によれば、新明解国語辞典の存在は無視されている。
集合知はやはり「真実」より「多数決」でしかないでしょう。
ソース至上主義自体には問題ないと思います。一次ソースか二次ソースか、ソースの記者、ソースの内容、ソースの乗ってるメディアなどソースには様々な情報が含まれています。
個人的に問題に考えているのはWikipediaの"中立的な観点"だけです。人によってソースの信頼度が異なりそもそも中立的な観点なんて存在しえないのですから、一つの項目にいくらでもforkを認めることが重要だと思います。
それと"独自の研究"(=ソース)を集める場所というのは面白いですが、それとは分けるべきだと思います。独自の研究は要IDとし、同じ項目でもIDごとにページを作りその人以外が書き込めないようにするべきです。
そもそも、真実とは何か?
人間の認識は多様である。国民性、民族によってもちがう。家庭ごとに、人の考え方はちがう。もちろん個人どうしでも、ちがう。
まったく同じ認識など存在しないから、
すべての人が「等しく」認識する、という前提の絶対的な真実は存在しない。
マスコミの強みは「法人組織のため、情報の出所がはっきりしている」「編集者のチェックを受けた上で発信されている」「情報のアーカイブ手段(図書館など)が完備されている」だと思います。これらは個人が情報発信できるようになったインターネット時代になっても揺らいでいません。
こうなると、バラ色のように語られてきた「個人が情報発信できるインターネット」というのは何だったのだろうかと考えてしまいます。
この弱点を補うのが、藤代裕之氏が言う「ミドルメディア」ではないかと思います。個人が発信した情報を元に取材をするマスコミという感じで、J-CASTがそうです。