バレンタインデーの起源と歴史

 バレンタインデーの起源について、以前やっていたサイトのために書いた記事データが見つかった。読み返してみると、多少宗教性を除くように修正すれば使えそうなので、今回、ここに新版で公開することにした。

2007年2月13日13:29| 記事内容分類:世界史, 民俗学・都市伝説| by 松永英明
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聖ウァレンティヌス St.Valentinus

 バレンタインとは何者か? この謎を解くのは容易ではない。ある本によれば、ウァレンティヌスという名前の2人の異なった人物がいて、その生涯が一つの伝説にまとめられてしまったという。また、同一人物から二つの伝説が生じたと述べている本もある。さらに、ウァレンティヌスという名前の人は3人いたともいう。いずれも2月14日が殉教の日である、と初期の殉教者列伝に記されている。

 一人はローマの司祭とされ、一人はインテラムナ(今のテルニ)の司教とされる。この二人はどちらも3世紀後半に殉教し、フラミニア街道に埋葬された。二人は同一人物ともされる。この二人の聖ウァレンティヌスについては、何らかの種類の言行録が残されているが、かなり遅い時期のものであり、歴史的資料価値はない。

 次のようないろいろな話が伝わっている。

  • ウァレンティヌスはローマの司祭で、クラウディウス2世ゴティクスによる迫害期のさなか、269年か270年ごろに殉教し、フラミニア街道に埋葬された。
  • ウァレンティヌスは、ローマで殉死したテルニの司教であった。
  • ウァレンティヌスは迫害期にキリスト教徒を支援した若い非信者だった。彼は捕えられて刑務所に入れられて、そこで信者となり、269年2月14日に棍棒で撃たれて死んだ。刑務所内で、彼は友人たちに「あなたのウァレンティヌスを覚えていてください」「あなた方を愛しています」というメッセージを送ったとされる。
  • ある物語では、ウァレンティヌスは、クラウディウス帝の結婚禁止令を破って、ひそかにカップルを結婚させた司祭であったとされている。
  • 異教の神々を崇拝することを拒否したため、ウァレンティヌスは投獄された。看守の娘と親しくなって、娘を祈りによって治療したといわれる。そして、処刑の日(2月14日)、娘に「あなたのウァレンティヌス」と書き記したといわれる。

 古代にはローマのフラミニアの門として知られていたものが、ウィリアム・オヴ・マームズベリー(英国の年代記作者。12世紀)の時代には聖ウァレンティヌスの門(ポルタ・ウァレティニ)と呼ばれていた。現在はポルタ・デル・ポポロと呼ばれている。この名前は、ごく近くにあった聖人をまつっている小さな教会(現在のサント・バレンチノ教会)からとられたようである。

 多くの仲間とともにアフリカで殉教した3人目の聖ウァレンティヌスについては、さらによくわからない。

ルペルカーリア祭 Lupercalia

 2月14日は、聖ウァレンティヌスを記念する特別な日として設定された。これはローマの異教の愛の祭であるルペルカーリア祭の前日である。

 古代ローマでは、2月は公式に春の初めであり、そしてみそぎの時であるとされていた。家々は掃き清め、それから塩とスペルト小麦を室内全体に撒くことによって儀式的に浄化された。2月15日に始まるルペルカーリアは、ローマの農耕神ファウヌスと、ローマの建国者ロームルスとレムスに捧げられた豊饒祭であった。

 祝祭を始めるために、ローマの司祭の1階級であるルペルキが神聖なる洞穴パレンティヌスに集まった。この洞穴では、ローマの建国者であるロームルスとレムスが幼少時に雌狼リュカイウスによって育てられたと信じられていた。

 司祭はそれから山羊を豊饒のために、犬を浄化のために捧げる。それから少年たちは山羊の皮を薄く切り、それをいけにえの血に浸して、通りに出ていき、女性たちや畑を山羊の皮で軽く叩いた。ローマの女性たちは、獣皮で叩かれることを怖がるどころか、歓迎した。細片によってその年はさらに子宝に恵まれると信じていたからだ。

 伝説によると、その日の後刻、都市中のすべての若い女性たちは、自分の名前を大きいつぼの中に入れる。都市の独身男性はそれぞれ、つぼから名前を選び出し、その年は選んだ女性とカップルになる。これらの組み合わせはしばしば結婚に至った。

 紀元496年、法王ゲラシウス1世は、ルペルカーリア祭を15日から14日に変更し、異教の祭をやめさせようとした。教会は、愛を祝うこと自体は悪いことではなく、異教の要素が神をおとしめることを悪いことだと考えたのである。ルペルカーリア祭は廃止されたが、その痕跡は聖ウァレンティヌスの日(セント・バレンタイン・デー)に残された。ウァレンティヌスは恋人たちの後援者として知られていた。

中世――鳥の求愛の季節

 バレンタインデーと結び付けられた一般的な習慣は、中世の間にイギリスとフランスで受け入れられるようになった因習的信念に起源を有していることが確かだ。それは、2月14日、すなわち1年の2番目の月の中日に、鳥がつがいを作り始めるというものである。チョーサー(14世紀)の「百鳥の集い(Parliament of Foules)」にはこう書かれている。

これは聖ヴァレンティン(Seynt Valentyne)の日に送られた

すべての鳥がつがいを選ぶためにやってくる日に

 そういうわけで、この日は恋人たちのために特別に捧げられた日であり、ラブレターを書いて恋人のしるしを送る適切な機会であるとみなされた。14世紀から15世紀の英仏両国の文学は、この行事をほのめかす内容を含んでいる。

 おそらく最も初期のものは、英仏両国語を使う詩人ジョン・ガウアー(チョーサーの友人)がフランス語で書いたバラード第34と第35であろう。

バレンタイン・カード

 ローマのルペルカーリア祭と似た慣習は、14世紀に始まった。恋人がその日のためにくじで選ばれた。これは、鳥の春の求愛鳴きがウァレンティヌスの日に始まるという信仰に合わせるものであった。これらのランダムに選ばれたペアの間で送られたメッセージは、現代のバレンタインデー・カードの原型である。

 現在に伝わる最古のバレンタイン・カードは、アジャンクールの戦い(1413年10月25日)でとらわれてロンドン塔に幽閉されていたオルレアン公シャルルが妻に宛てて書いた詩である。1415年に書かれた手紙はロンドンの英国図書館の写本コレクションの一部となっている。その数年後、イングランド国王ヘンリー5世がヴァロワのカトリーヌへのバレンタインの言葉を書くために、ジョン・リドゲートという作家を雇ったとされている。

 このころ、お互いに選択しあった人たちは、「わたしのバレンタイン」と呼びあっていたように思われる。パストン家の書簡(15世紀)の中で、デイム・エリザベス・ブルースは、お気に入りの求婚者宛に、その娘と結婚してほしいという話題についてこのように書いている。

 そして、わが縁者よ、月曜日は聖バレンタインデーで、すべての鳥がそのつがいを選ぶ日です。あなたが木曜日の夜に来てその日までとどまるつもりであれば、あなたがわが夫に話すことができるよう神に誓います。そして、この問題に決着をつけられるように祈ります。

 その直後にその娘自身が同じ男性に宛てた手紙の中には、「わたしが本当に愛するバレンタイン、ジョン・パストン殿」と書かれている。「バレンタイン」を選んで手紙を送る習慣は、後年には比較的すたれるようになった。

近代以降

 1700年代のイギリスでは、バレンタイン・カードは友人の戸口の上がり段に置かれ、男性と女性に与えられた。子供たちはバレンタイン・キャロルを歌った。

 清教徒革命で権力を握ったクロムウェルは、バレンタインは不道徳であると宣言し、禁止した。しかし1660年までにバレンタインデーは復活した。

 バレンタインデーのために特別に印刷されたカードは、1780年代になって普及した。それはドイツでフロイントシャフトカルテン(友情のカード)と呼ばれて大当たりした。

 1800年までには商業的バレンタインが登場した。アメリカでは、バレンタインには花、キャンデー、香水といった贈り物がついてまわることになっている。

日本

 昭和11年(1936)2月12日付英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に、神戸のチョコレート会社モロゾフの広告に、バレンタインデーの習慣が書かれた。このとき、贈り物にはチョコレートを、という宣伝が日本で初めて行なわれた。ただし、このときは「女性から男性へ贈る」ということはなかった。この14日後、二・二六事件が起こっている。

 昭和33年(1958)メリーチョコレートが新宿・伊勢丹デパートでバレンタイン・セールを始めた。3日間で30円の板チョコ5枚と4円のカード5枚しか売れなかった。翌年、メリーチョコレートはハート形チョコレートを作り、「女性から男性へ贈りましょう」という宣伝を始めた。ここから、日本独自のバレンタインデーの風習が広まることになる。

 昭和30年代後半から各社のバレンタイン商戦が開始される。その販売合戦は毎年エスカレートしていったのだった。

中国の情人節

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追記(16:30)

ことのはがバレンタインデーの起源で触れていないこと。

http://www.kotono8.com/2007/02/13post_1.html

それはこちら

http://allabout.co.jp/gourmet/ethnicfood/closeup/CU20060425A/

性欲をかきたてるいわゆる催淫効果があり、恋愛感情を起こすホルモンと似た働きをする物質も含まれている

http://homepage2.nifty.com/smark/214Valen.htm

古くは、神経の興奮作用があり、興奮剤、性欲増強剤として使われていました。

天然のバイアグラと言っていい。

女性から男性に渡すとはこれまた意味ありげである。

追記:極東ブログのエントリーにもあった。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/11/post_12.html

 ここは歴史的流れについてだから書いてなかっただけだが、チョコレートに催淫効果があるのは事実。

なぜバレンタインデーにチョコレートなのか――キャドバリーの箱

 で、チョコレートとバレンタインデーの関係を見直そうと思ったら、こんな文章があった。

バレンタインデーにチョコレートを贈る風習は、19世紀のイギリスのチョコレート会社キャドバリー社によって始められた。

 それは本当かどうか、調べ始めると、ここまで断言できる資料はなかなか見つからない。

 このキャドバリー社自身による記述を年表風にまとめると以下のようになる。

  • 1824年 バーミンガムで食料雑貨店を開店
  • 1831年 ココアやチョコレートを製造する企業として創業
  • 1854年 英国王室からココア・チョコレート製造業者として認可
  • 1860年代 純粋なココアの製造を目指す
  • 1870年代 海外進出
  • 1877年 パリに出店(パリはチョコレートの本家)
  • 1878年 ボーンビル工場が始動
  • 19世紀末、イギリスに海外製のミルクチョコレートが登場
  • 1905年 生乳を使用した新しいミルクチョコレート"キャドバリー デイリーミルクチョコレート"を発表

 ここにはバレンタインデーの話は載っていない。そこで検索すると、このような文章があったので、訳して載せてみる。前半はここで書いていたのと同様の内容。

 チョコレートがバレンタインデーの儀式に使われるようになったのは、比較的後になってからのことである。コンキスタドール(16世紀にメキシコ・ペルーを征服したスペイン人)たち は1528年にチョコレートをスペインにもたらした。そして、豆からココアを作る製法は知っていたが、チョコレートを食べられるようにする方法は1847年、Fry & Sonsの発見を待たねばならなかった。それから20年後、キャドバリー兄弟は、もっとなめらかで甘いチョコレートの製法を発明した。チョコレートは、ビロードと鏡で作られた細工箱に入れられ、チョコレートを食べたあとにも小物入れとして使われた。リチャード・キャドバリーは1870年ごろ、最初のハート型のバレンタインデー箱をキャンディーのために作った。

 1870年ごろにハート型のキャンディーボックスがバレンタインデー用に作られたのはわかったが、それがバレンタインデー用であるとは書かれていないのである。

 そこでもう少し調べると、うまくまとめてくれているサイトがあった。以下、その翻訳。

なぜバレンタインデーにチョコレートのおしゃれな箱をあげるの?

バレンタインデーに愛情のこもったプレゼントをあげるという伝統については、ちゃんと文書が残っている。この日にチョコレートをあげることについては書かれていない。しかし、そういう風習が始まったのが19世紀中頃だと確認できる。その当時、チョコレートは高価で、価値の高い商品だった。催淫性があるためにチョコレートが贈られるようになったのだと信じる人もいる。また、クリスマスとイースター(復活祭)の間の売れない時期に商品を売り込もうとする菓子屋の巧妙なマーケティング計画だと論じる人たちもいる。理由が何であろうと、素晴らしいことじゃないか!

チョコレートのパッケージについて

はじめのころ、紙のラベルの貼られた木の箱の中に包まれずに棒状で入れられ、店のカウンターに飾られていた。それから間もなく、一つずつ紙で包むようになった。金印刷と金属の箔を使って、菓子に繰り返し金箔の豪華な文字を載せることは、すでに何世紀もなされてきたことである。デザインは最近の画像を使い、チョコレートは素晴らしいと宣伝する絵が登場した。さらに絵で飾られ、薄織物と紙のレースで縁取られた特別な箱で地位が高められた。中身ではなく、パッケージが多くを占めるようになり、広告はほとんど菓子の味よりもスタイルに重点を置くようになっていった。

  • 『砂糖菓子とシャーベット:甘味前史』(Sugar-Plums and Sherbet: The Prehistory of Sweets)ローラ・メイソン[Laura Mason [Prospect Books:Devon] 2004 (p. 208)

キャドバリーがチョコレートキャンディーを初めて作ったのは1868年で、風雅なヴィクトリアンスタイルで飾り付けられた箱であった。

バレンタインデーにチョコレートを贈ることについて

 チョコレートの本当の効果が何であろうと、バレンタインデーにチョコレートを贈る伝統の起源はよくわからない。

  • Giving Chocolate On Valentine's Day More Than Romantic, KAREN SCHWARTZ, Associated Press Writer, The Associated Press, February 12, 1989

バレンタインデーにチョコレートを贈る伝統は、英国のチョコレート製造家リチャード・キャドバリーにさかのぼれる。彼はバレンタインデーのキャンディーボックスを初めてヴィクトリア朝の時代に「発明」した。ふくよかなキューピッドが愛の矢を撃つというカードで飾ることを夢見たヴィクトリア朝の人たちは、やがて、贅沢なチョコレートが夢のように詰め合わされたハート型の箱の蓋を開けることを夢見るようになったのだ。

  • For Lovers, Chocolate, Niki Dwyer (UPI), The Buffalo News, February 11, 1998, Lifestyles (p. 2D)

 キャドバリーはチョコレートの箱を作ったことを認めているが、それはバレンタインデー用とは言い切れない。

 キャドバリーの「おしゃれなチョコレート」(詰め合わせ)は、子供たちが切り抜いてスクラップブックに貼れるような小さな絵で飾られたものとして売られていた。リチャード・キャドバリーはかなりの芸術的な才能を持っていた。自分自身の絵から、野心的で魅力的なデザインをさらに導入した。そのオリジナルの箱が多く残っている。自分自身の子供たちをモデルにしたり、花や休日の旅行の風景を描いて、英国に初めて素敵なチョコレート箱を示したのである。これらは人気を博し、キャドバリーのビジネスと菓子取引の双方を助けることとなった。精巧なチョコレート箱は、ヴィクトリア朝末期には特別な贈り物とみなされるようになっており、素敵なチョコレートを食べた後には小物入れかボタン箱として使われた。それゆえ、デザインは後で使うことも考慮されていた。斜めに切られた鏡のついたビロード覆いの小箱や、絹で縁取られた宝石箱から、子猫の絵、風景、愛嬌のある女の子の絵が蓋にある小箱まで、いろいろなデザインがあった。その人気は、第二次世界大戦の間に消え失せるまで続いた。ヴィクトリア朝とエドワード朝のチョコレート箱は、今もコレクターのアイテムとして扱われている。1870年代、ココアプレスの導入以後、チョコレート製造の品質は高まり、キャドバリーはフランスの製造業者が英国市場を独占している状況を崩すことができた。

 というわけで、「バレンタインデーにチョコレート」の起源は、「キャドバリーのチョコレート箱」が発端になった可能性が高いが、直接的な関係はいまだ不明というところらしい。そして、日本の場合は1936年、二・二六事件の年のモロゾフが最初に宣伝した、ということになりそうである。

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2007年2月13日13:29| 記事内容分類:世界史, 民俗学・都市伝説| by 松永英明
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コメント(2)

こんにちは。
別件で、一度オハナシしたことがありますね。

日本でのバレンタインの起源、面白く拝見しました。実は、第二次大戦前~戦中の日本で、どのくらいバレンタイン(チョコレートを贈りあう習慣)があったのかについて、ずーーーーーーっと知りたくて探していました。
お時間のあるときにでも、日本のチョコレート商戦はモロゾフが起源だとするソース、この記事(=日本の起源についての項目)を書くにあたり参考にした本などがあれば、教えていただきたいのですが。
話を広げれば、戦中の日本にいたキリスト教徒の人たちは、何を考えて、どんな行動をとっていたのか、そんなことも知りたいんですよ。何かヒントになるようなご意見はありますか?

え? 放置プレイ?

このブログ記事について

このページは、松永英明が2007年2月13日 13:29に書いたブログ記事です。
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