文章で稼ぐ人間が、無償のブログも書く理由
萌え理論Blogのid:sirouto2さんが、ここのところ、プロのライターとして書きつつ、無償のブロガーとしても執筆することについていろいろと考察している。それに対して、ケータイ小説評論家・速水健朗(id:gotanda6)さんが応えている。いずれも、ブロガーでもあるライターとしてのわたしとしては、共感できる内容が書かれている。
このあたりで、「有償の表現と無償の表現」とか「表現したいことと商品価値の軋轢」みたいなものも含めて考察してみたいと思う。
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■プロモーションツールとしてのブログ
まずは自分のこと。「松永英明」というライターは、ブログなくしては生まれなかった。別にブログでなくても、日記サイトでもVNIサイトでも何でもいいのだが、ウェブサイトでの露出とそれに対する注目がなければ、ライターとしては別の方向に行っただろうと思う。
もちろん、松永英明としてライターを始めるにあたって、いろいろな出版社に直接売り込みをした。それは例えば、『新選組の謎を斬る!―三谷版「新選組!」を徹底解析 (別冊宝島)』への執筆参加や、『幸福に通じるひそやかな道』などのジェームズ・アレンほかの翻訳本を出す流れとなって続いている。
しかし、この「絵文録ことのは」の旧名である「ウェブログ@ことのは」をはじめとして、「土佐日記 - Tosa Blog」や「女子十二楽坊資料館」(もともとメインブログの記事として書いていたが、後に独立させた)などのサイトを作っていたがゆえに、まずブロガーとしての認知度が高まり、それによって『ウェブログ超入門!』などウェブ系の執筆が増えていったのだった。やがて、一部ではウェブ系のテクニカルライターと誤解されるほどになったわけである。実際には、わたしはテクニカルな解説が苦手で、ブログ本でも運用法だとかブログの歴史だとかブログの位置づけみたいなものに重点を置いていたりする。
話がずれた。ライター、特に編集プロダクションの専属ではないフリーライターにとって、仕事をもらうための営業活動というのは非常に大きな部分を占める。一度書いたものがうまく売れて、次の仕事につながればいいのだが、執筆依頼の流れを絶やさないためには、多大な努力が要る。速水さんも言っているように、雑誌連載をうまくキープし続けるなら、いい流れになるのだが、なかなかそうもいかない。ゴーストライターの仕事を連続して受けるなら、それもまたよしなのだが、顕名で何か執筆しようとすれば、フリーライターの仕事の何割かは「プロモーション」に取られてしまう。
そういう意味で、ブログというのはいいプロモーションツールであると思う。もちろん、これは「人気ブログを作って、それをまとめたブログ本をまとめて出版」という流れではない。これまで、「ブログ本」はほとんどが失敗してきた。ブログをそのまままとめて成功した本といえば、『実録鬼嫁日記』くらいではないかと思う。そうではなく、ブログというのは、うまく使えば、自分(の持ちネタや作風)をプロモーションするためのツールとして有効に機能すると思うのである。うまく使わなければ炎上してしまうけれども。
「ああ、こういうことについて、こんな観点からいろいろと考えている人がいるんだな」「こんなことについての知識がある人なんだな」ということを編集者に見つけてもらうことが可能になるツール、それがブログ(あるいは他の形態でもいいが)ではないか。実際、ブログを見た編集者から「一度打ち合わせでも」という連絡が入ったりする。また、いろいろと持ちネタがある場合に「ブログを見ていただければ」の一言で済むのは楽だ。
自分もブログを営業ツールにしたいと思っていました。それに、営業コストが意外と大きいということを実感しています。
(中略)
ただ、ブログを営業用にすると言葉を選ぶ必要があるのと、ブログを更新するだけではなくサイトに凝縮する必要があるでしょう。
営業のためのブログという問題について、わたしはきっちりとまとまった内容を公開する「表ブログ」と、書き散らす「セカンドブログ」を使い分けている。
■ブログと商業文章の違い
ブログ(またはネットの文章)と商業用の文章の最大の違いは、「編集者が介在するか否か」という言葉で表わせると思う。
編集者というのは、読者の要望やニーズを把握し、それを反映した文章をライターに書かせる役目を持っている。よい編集者は、ライターの言いたいことと、書籍や雑誌全体としての方向性をうまくすり合わせ、よりよく伝わる表現になるよう、いろいろと口を挟む。あちこちに広がった話題を一部に絞ることで内容が明確になるようにし、書き手が当然だと思って省略したところをもう少し詳しく書くように依頼する。言い換えれば、ライターの書きたいとおりに任せきるのではなく、商品としての文章を練り込ませる役割を果たすのが編集者だ。
ブログは、編集者がいない。もちろん、ブロガーが記事を書くときに編集者的な視点をもって推敲することはあるが、基本的に編集者はいない。つまり、書き手が書きたいことを書きたいとおりに書いている。
萌え理論ブログでも述べられているとおり、商業誌で活躍している漫画家や作家が、同人誌を作ることはよくある。商業ベースの制約にかかわらず、自分の表現したいとおりに表現する、という欲求は、表現者であればだれしも抱くものではなかろうか。それは、ブログでは実現できる。もちろん、読者との関係において100%自分の書きたいことを書きたいとおりに書けるわけではないが、商業ベースの「売り物」としての文章とは方向性が違ってくるはずである。
商業ベースの文章を書くときには、ある程度「商品を作る人」としての制約が課せられる。それを典型的に表現したものが、福満しげゆきの漫画だと思う。
講談社 発売日:2007-12-21 やっと… 筆者のストレスと心情がよく伝わる佳作 妻がかわいいです 空気の読める男(でも妻は怒らせてしまう・・・) 「まんが道」の対極のマンガです(笑) | 双葉社 発売日:2008-04-28 「僕の小規模な生活」を『妻』という切り口で料理してみた、という感じでしょうか。 落ち着く 「妻」の魅力全開! 妻かわいい ゆるい! ぬるい! 面白い! | ||||
Amazy |
■薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた。
2年前のことだが、2006年9月18日、渋谷UPLINK FACTORYで吉田アミ&川上未映子のトークイベント「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた。」が開かれたので、行ってきた。
イベント自体はエロ系の話に飛んで行ってしまった部分が多かったが、もともとのテーマは「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた。」というタイトルに秘められていた。少々わかりづらかったが、「消費される『商品』と、『作品』作り」について考えるというのがそもそものテーマだった。
『商品』なのか『作品』なのか、あるいはその比率がどのくらいなのか。これは表現で食おうと考える人にとっては避けられない問題だ。
3人のゲストのうち、この話題が一番盛り上がったのは、渡辺ペコさんのトーク部分だ。渡辺さんは、『サルでもかけるマンガ教室』から一部を引用して、「芸術なんて気取ろうとしても無理」と主張していた。
Amazy |
商業ベースのことを考えず、純粋に芸術的に「作品」を作り続けられるのか、それとも商業的なものとしての「商品」を作ることを(少なくとも、ある程度は)考えなければならないのか。
わたし自身は、かなり割り切って商業ベースに「適合」させることが必要ではないかと思って、仕事用の文章を書いている。それは決して「作品」を貶めるものではないと思っている。いや、有り体に言えば、「大衆文学」と「高尚な文学」を切り離して考え、自分の作品は芸術であって大衆向けの商品などではない、などと考えている文学家に、あまりいい感情は持てない。人間の深奥を描くのが文学であって云々みたいな人は、勝手にやっていてほしいと思う。それより、娯楽作家としての(つまり「商品」としての)本を書き続けた滝沢馬琴なんかが大好きである。大衆迎合、大いに結構である。内容と質さえしっかりしていれば、売らんかなの本も大歓迎だ。
世の中には「純粋芸術」をやり続けて、いずれ認められて商業的に成功する人もいるだろう。それは否定しない。しかし、わたし自身は、文章の職人として、つまり「売り物を作る人」として文章を書いている。
この話題は、音楽ではもっと大きな問題になり得る。レコード会社が「売れ筋」の音楽づくりに走り、アーティストがそれに反発する、という構図もよく語られるところである。しかし、本当のビッグアーティストなら、商業的なニーズをしっかりと押さえつつ、その制約を乗り越えて自分のアピールを成功させるものだろうと思う。音楽の世界で「商売に走っている」といった批評を見ると、レコード会社を慈善事業か何かと勘違いしている人たちがいるんだな、と感じる。
ただ、そうやって割り切って仕事をしていると、純粋に「絶対世間的には売れたりしないが、どうしても自分が表現したい」というテーマが出てくる。そういうものはさくっとブログとかサイトでやってしまえばいいのだ。ブログは、自己満足以上のものである必要はない。もちろん、読者のことを考えてクオリティを高める努力があればアクセスも増えるだろうが、「人気が出るわけのない(読者ニーズのほとんどない)テーマ」を扱うには、非常に適したメディアだと思う。
ところで、先のトークイベントで、「作品」と「商品」の間で揺れていた未映子さんは、後に芥川賞作家となった。
■商業用文章のクオリティを高める
商業用の文章と、ネットで書く文章について、萌え理論さんはこのように述べている。
私の場合は資料性・調査性の有無で分けることになると思います。日本は識字率が高いので文章自体は誰でも書けますが、同じ文字でも情報の正確性は異なるので、フリーとシェアの違いがそこに発生すると見ています。ネットで書く文章はネットで調べた情報だけですが、紙媒体ではそうもいかないでしょう。(ブロガーとライターの違い - 萌え理論Blog)
ここはわたしと少し違うところである。わたしは、ネットであろうと紙媒体であろうと、正確さという点ではさほど変わらない。むしろ、ネットの方が網羅性が高いという意味で、正確であるかもしれない。
現在、個人ウィキサイトである閾ペディアことのはにいろいろまとめて載せようと考えているが、これはその辺の論文にも負けないような内容を載せたいと思っている。そのために、ウェブの情報だけではなく、図書館などでもじっくりと調べている。今の研究テーマとしては「天海僧正と山王一実神道」「ハワイの歴史」「句読点・句読法の歴史」「桃井望怪死事件」「ゲニウス・ロキ」「明治以前も含めた秋葉原(外神田)の歴史」などがあるが、いずれもネットで手に入る情報だけでは、自分の納得できる情報に到達できなかった(もちろんネットの情報は非常に有用であったが)。かつてまとめた「まぼろしの五色不動」に至っては、「それまでのネットの情報はほとんどが根拠なし」という結論になってしまった。
いずれにしても、なかなかカネにはならないのに調べているわけで、ヒマ人扱いされるかもしれないが、いずれも自分としては突き詰めずにはいられないテーマである。
逆に、ネットの話題をテーマに扱った記事を書く場合、当然だが紙媒体であってもネットがメインの情報源となる。『SNSの研究』でmixiコミュニティ乗っ取り事件について書いたが、これは基本的にmixi内での出来事であるから、ネット外の情報はほとんどありえない。逆に、ネットでの情報のみに絞って提供するという姿勢もありえると思う。先日の秋葉原無差別殺人事件について、わたしはサイトで基本的に加藤容疑者の書き込みだけをまとめている。「彼が何を書いたか」だけに絞っているわけである。もし紙媒体でこれについて書くことがあったとしても、踏み込んで現地調査するところまでやるかどうかはわからない。
ネットと商業媒体(紙媒体)を比較したとき、紙媒体の方が情報量が少なくなる場合もある。ネットだとあらゆる関連情報を網羅的に載せることも可能だが、「紙幅の制約」というものが商業的文章には生じてくる。実際のところ、『SNSの研究』に書いた内容は、このブログで連載した内容を大幅に縮め、その上で少々加筆したものである。正確さについては変わらないとしても、情報量は確実に書籍の方が減っている。網羅性が弱まっている。それなのに、そちらでカネを取っているわけである。短い方でカネを取るとは何事か、と叱られそうだが、実際には、その縮まった部分は「編集」によるものであり、その分すっきりして読みやすく、わかりやすくなっているはずである。
つまり、正確さという質ではなく、理解されやすさという質を、わたしは重んじているのだと思う。
もちろん、カネのための文章を書くときには、もう一調べして確認する。しかし、ウェブでまとめるものはネットだけの情報かといえば、そんなことはないので、このように表現してみた。
■紙媒体とウェブの違い
日本語という同じ言葉を使っている以上、紙とネットで原理的な違いがあるわけではありません。しかし、事実上大きな違いがあります。紙媒体は印刷するためネットほど簡単に訂正・削除することができません。字数や締切の融通も利きません。(ブロガーとライターの違い - 萌え理論Blog)
わたしにとって、紙媒体の「レイアウト」は、文章そのものにも大きな影響を与える重大な要因である。
縦書きか、横書きか。1行何文字で、1ページ何行どりか。段組になるのか、そうでないのか。1項目を見開きに収めるのか、流し込みでいくのか。注釈はどこにどれくらい入れなければいけないのか。わたしは最初にそれを指定してもらわないとなかなか書けない。紙媒体でのレイアウトは、わたしにとって、文章そのものを左右するほどの大きな意味を持つ。
ウェブ上では、1行字数などのレイアウトは指定しづらい。むしろ、そんなものを指定してはならないと(特にW3C原理主義者から)言われることになる。閲覧者の見たいとおりのレイアウトに変更できることが至上命題であるかのように言う人もいる(わたしはそれは言い過ぎだと思うのだが)。ウェブで「見せたいレイアウト」を主張すると、どうも肩身が狭い。データ至上主義であって、デザインは切り離されるべき要素だという主張がよくなされている。
しかし、紙媒体では、ライター、エディター、デザイナーの「見せたいレイアウト」を読者に強要することができる。それが「装丁」というものである。そして、装丁と内容は密接に関係している。
昔、某新書中心の出版社で書いたとき、「約1.5ページに1回ずつ小見出しが入るように書いてくれ」と言われた。なぜ1.5ページなのか。それは、約1.5ページに1回小見出しを入れておけば、「見開きに必ず1つまたは2つの小見出しが入る」からである。見開き2ページの中に1つも小見出しがないと、ずっと文章がつまった感じになってしまう。それを避けるためのテクニックであった。
その他、紙媒体では、紙面の黒さ・白さも問題になる。漢字を多用し、改行を少なくすると、紙面が黒くなる。逆に、漢字を開き(かな文字表記を多くし)、改行を増やすと、紙面が白くなる。わたしは改行が少なめなので、今のライターの中では紙面がやや黒い文章を書く方だと思うが、それでも素人が書くよりは格段に漢字率が低いはずである。この紙面の見た目が黒いと、たとえばライトノベルでは失格である。白すぎるとバカっぽく見えてしまうが、年々白くなる傾向にあるようだ。
段組も大きな影響を与える。2段組、3段組と段数が増えるにつれて、文章は軽くなる。一段落、一文が短くなり、軽妙な文体に変わっていく。
ところが、ウェブには(表現側が読者に強要できる)レイアウトがない。ただ、だらだらと書いていくしかない。小さな抵抗として、このブログではできるだけ小見出しを入れるようにし、横幅を制限して一行字数を少なめに抑えようとしているが、それも便宜的なものにすぎない。レイアウトのない世界での文章なのだ。
だから、わたしはブログの文章をそのまま書籍に持ち込むことができない。内容云々以前の問題として、レイアウトを考慮していない文章をそのまま紙媒体に移したくないのだ。
■話が飛びましたが
というわけで、萌え理論Blogでの最近の一連のエントリーに反応して、とりとめもなく、思うことをつらつらと書き並べてみた。こうやってつらつらと書き並べることができるのが、ブログ(ウェブ)のいいところである。
ほかにもいろいろ書くべきことはあるだろうが、とりあえず今回はこの辺で。またツッコミ等があれば、もう少し絞って書けるかもしれない。
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