長野の戦争遺跡訪問【2】「信州松代 れきみちの家」

第1話からの続き。6月28日、松代大本営地下壕を訪れた。象山地下壕から出て、「信州松代 れきみちの家」にて昼食を取る。

2008年7月15日01:19| 記事内容分類:日本史| by 松永英明
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象山地下壕から出てきた。

地下壕での疑問

地下壕の中で疑問に思ったのは、「トイレはどう処理していたのだろう」ということだった。政府機関やNHKがここに引っ越してくるとなったら、その人数も大変なものになるだろう。そうすると、当然、トイレのことも考えねばならないはずだ。しかし、壕内にはそれらしき施設はなかった。

壕から出て質問しようと思ったら、別の参加者が土屋先生にまったく同じことを質問していた。どうやら、トイレは壕の中にはなく、外に予定されていたらしい。さらに言えば、この地下壕は生活の場ではなく、あくまでも政府「機関」を収容する場所だったという。

つまり、松代に疎開した政府関係者は、この象山地下壕に「通う」ことになっていたようなのだ。

そうか。松代大本営は、政府の人間を守ろうとしたというよりは、政府「機能」を守ろうとしたんじゃないだろうか。

松代のズリは霞ヶ関の舗装に使われた

象山地下壕から川沿いに戻る。その途中で、土屋先生が立花隆氏に語っていたことが興味深かった。

松代大本営の地下壕を掘削して出たズリ(石屑)は、終戦後、霞ヶ関一帯の舗装に使われたというのである。進駐軍が戦後の霞ヶ関を舗装するのに、ちょうど都合のいい堅い石が松代にあったのだ。本土決戦を覚悟して掘り進められた地下壕のズリが、進駐軍によって霞ヶ関の舗装に転用されたというのは、何とも皮肉なことである。

皆神山

かつて「日本のピラミッド」として騒がれたこともある皆神山の遠景。

名前がいいので天皇の御座所のための地下壕が掘られたが、岩盤の質が悪く、倉庫として使われることになった。現在は崩落していて危険なので、地下壕は非公開。今回は行かなかった。

「信州松代 れきみちの家」

「信州松代 れきみちの家」にて昼食。この建物は、土屋先生が私財を投じて作ったものだという。長野俊英高校郷土研究班の拠点ともなっているようだ。郷土研究班のメンバーに老舗旅館の息子もいて、その特製の和菓子餅もごちそうになった。

さて、壁にはこれまでの研究成果や、文部科学大臣が訪れたときの写真などが貼ってある。その中でもひときわ目立つのが、「西条地区強制立ち退き(受け入れ)地図」だ。

生徒が棒で示しながら解説してくれる。大本営、天皇・皇后両陛下の御座所は、先ほど訪れた象山地下壕よりさらに登っていった舞鶴山地下壕に計画されていた。ところが、天皇陛下よりも高いところに住むのは失礼だということで、西条地区のある一定のラインより南(地理的には高くなっているところ)の住民が強制的に立ち退かされ、下の方の家などがそれを受け入れたというのである。

この地図は、生徒たちが聞き取り調査を元に作成した貴重なもの。

ここに示された事実は、松代大本営を「日本が朝鮮に対して行なった加害の歴史遺産」としてとらえる見方とは、一線を画している。つまり、現地では日本人も(たまたま高台に住んでいたというだけで)移転しなければならなかったのだ。

(あとで検索して、『松代でなにがあったか!―大本営建設、西条地区住民の証言』竜鳳書房という本が出ていることを知った。内容紹介によると「太平洋戦争末期、長野市松代に建設された大本営地下壕。その地域の住民たちが、こうむった戦争被害の実態を語り、「朝鮮人強制労働」の視点からのみ展開される平和運動のあり方に問題を投げかける、貴重な証言集」とある。西条地区の強制立ち退きと、松代に置かれた慰安所の事実についてまとめられている。地元ではこういう視点もあるのだということを知る上で重要な資料といえよう。)

「れきみちの家」では、郷土研究班による関係者への聞き取り調査をまとめた資料なども販売されていた。これは非常に貴重な、そして充実したものである。

郷土研究班は、体験者からの聞き取りを非常に重視している。これは大切なことだと思う。もちろん、体験者に語ってもらおうと思えば、たとえば西条地区のお年寄りなどに当時の話を聞くとき、最初からイデオロギーなどを振りかざすことなく、淡々と事実を聞かせてほしいという態度を示すことが必要になってくる。イデオロギーありきの運動体ならばそういうことはできないかもしれないが、「日本人はみんな加害責任があり、朝鮮人はすべて被害者だ」という視点では発掘できない証言も多々あるはずだ。そういう意味で、現地では日本人だって大変だったという視点に立つことの可能な、柔軟な視点を持っている「れきみちの家」の方向性を、わたしはすんなりと受け入れることができた。

ついでに松代の観光ガイド「信州松代夢空間めぐり」も購入。明治の大女優・松井須磨子の生誕の地であることは初めて知った。ただ、今回の松代行では、城下町として栄え、「松代三山」と呼ばれる思想家を輩出し、さらに女優松井須磨子や国内初の民間機械製糸場(六工社)といった「大本営候補地以前の歴史」には立ち入ることができなかったので、これは今後改めて行ってみたいと思う。

さて、高校生たちはテストが近いということで、午前中のみの同行であった。午後は土屋先生の引率で、天皇の御座所と大本営の置かれた舞鶴山地下壕へと向かった。続く。

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