長野の戦争遺跡訪問【4】松代大本営・舞鶴山地下壕(2)
舞鶴山の御座所の向かいには、三種の神器を納める賢所が建設される予定だった。そして、この松代大本営の朝鮮人強制労働と慰安所についての詳しい話を聞く。
■賢所
賢所(かしこどころ)とは、皇位のしるしである三種の神器の一つ、神鏡を祀るところである(八咫鏡の本体は伊勢神宮にあるが、御霊代としての神鏡が宮中に置かれている)。
松代大本営において、賢所は天皇の御座所とは別の場所に作られようとしていた。御座所(気象庁精密地震観測室)の前の駐車場から、向かいの山を見る。
向こうの山(弘法山)に、少し山肌のはげたところ(土色の見えるところ)がある。ちょうどあの横あたりに賢所が作られる予定だったという。ちょうど御座所から伊勢神宮に向かってラインを伸ばした方向である。
たとえ天皇陛下(裕仁陛下)の身に何かがあったとしても、賢所さえ無事であれば、別の皇族を立てて天皇とすることができる。ある意味、天皇陛下自身よりも、賢所の方が大事であったとさえいえる。
天皇陛下の御座所や宮内庁、参謀本部などが入る舞鶴山地下壕は、朝鮮人労働者によって掘られた。ところが、賢所は日本人で、純潔なる(つまり童貞の)男子によって掘られるべきだということになった。そこで連れてこられたのが、熱海の地下建設隊所属の鉄道教習所の学生たちであった。鉄道工事、すなわちトンネル工事の技術を学んでいる学生たちが動員されたわけである。
それほどまでに賢所は神聖なものであったのか。現人神であらせられる天皇・皇后両陛下の御座所でさえも、(たぶん)童貞ではない朝鮮人労働者が掘ることが許されていたのに、である。
なお、建造開始は昭和20年7月。まもなく終戦となり、ほとんど作業は進んでいなかった。
わたしにとっては、この賢所の話が一番興味深かった。
■強制連行の朝鮮人と慰安所
今日の見学は一通り終わりということで、御座所前の駐車場にて、土屋先生のお話を聞く。
その中で、いくつか興味深い事実が語られた。
この松代大本営には、多くの朝鮮人が強制連行されてきて、労働に従事していた。しかし、その人たちが亡くなったという記録あるいは証言はほとんど得られていない。壕内での事故はそれほど多くなかったようである。
飯場が麓に作られ、そこで多くの朝鮮人が働いていた。ところが、その朝鮮人の中でも立場の違いがあって、中には他の朝鮮人を指導する立場にあって優遇されている人もいたという(こういう証言は、「日本による加害」史観の人たちからは得られない話だろう)。
この近くには、朝鮮人女性による「慰安所」が作られた。ところが、そこに日本人軍人が訪れたという事実はなさそうである(ということは、言葉の厳密な意味における「従軍慰安婦」ではなかったことになる)。一方で、一般の朝鮮人労働者はそんなところに通う余裕もなかった。実際には、指導的な立場で優遇されていた朝鮮人が、その慰安所を訪れていたようなのである。
なお、戦後、朝鮮人労働者はほとんどが帰国した。松代の人たちによる見送りも盛大に行なわれたという(一方的に虐待していたなら、そんな見送りはできなかっただろう)。一方で、少数の朝鮮人がそのまま日本にとどまったという。
このような話を聞くにつれ、単純に「日本による加害の歴史」とひとくくりにできないという思いを新たにした。あるいは「日本による加害」という先入観を持って調査してしまうと、こういう話は当事者から聞けないだろう。
■精密地震観測室
土屋先生の話も一通り終わり、そこで先生と別れて山を下ることになった。そこから少し行ったところに、トイレ付きの駐車場があり、そこでトイレ休憩をとることになった。
それはちょうど、精密地震観測室の大坑道側の入り口から川を挟んだところだった。中には入れないが、少し様子を見に行くことにする。
川のすぐ横に入り口がある。
さっき見たのは右端の1号庁舎と小坑道。現在地は大坑道入り口である。
右側の案内板にはこう書かれていた。
「気象庁地震観測室(松代地下大本営跡)第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最期の拠点として、極秘のうちに、大本営軍司令部・参謀本部・政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日午前十一時着工翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九ヶ月の間に当時の金額で二億円の巨費と延三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され突貫工事をもって構築したもので全行程の75%完成した。ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠距離にあり、川中島合戦の古戦場としても知られているとおり要害の地である。規模は三段階、数百米に亘る、ペトン式の半地下建造物、舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤の目の如く縦横に掘抜きその延長は十粁余に及ぶ大地下壕である。現在は世界屈指を誇る気象庁の地震観測所として使用され、高倍率のひずみ地震計はじめ各種高性能観測機が日夜活躍している。長野市観光課」
これで地下壕見学は終了。真田の六文銭があちこちに見られる松代から、長野市の中心部へと向かう。
■記者の方との話
朝からずっと同行していた信濃毎日新聞の記者の方から、「長野県と強制連行」についての講義を受けた。90年代の信濃毎日新聞での連載記事を資料としていただく。長野県には多くの朝鮮人が強制連行されてきたという事実があり、そのことについていろいろと話を聞いた。
さて、この話そのものはさておくとして、わたしは余談に近い部分に非常に興味を覚えた。記者の方が「土屋先生も以前はあんなふうに語ってはいなかったのだけど……」ということを言いだしたのである。ざっくりとまとめてしまうと、大本営地下壕における土屋先生の解説は、以前は「加害責任」をはっきりと言っていたのに、今日の話ではそういう見方がかなり否定されている。以前とは論調が変わってきているというのだ。
わたしから見れば、記者の方(と、いただいた記事)はかなり「加害責任」史観が強いように思われた。しかし、こういう戦争遺跡を加害の歴史とみなす見方を当然のものだと考えているようだった。そして、今回参加した東大生のうち数人は、その見方にかなり賛同しているように思われた。小林よしのりや「新しい教科書を作る会」の話題も出てきた。
もう時間も終わりに近づいていたが、おまけで参加していたにもかかわらず、我慢できなくなって少し発言した。「以前からすれば、世の中の中心ラインが右の方に移動しているのは間違いない。いただいた連載記事の資料だとか、加害責任を当然と考える発言は、たとえば今のネットであれば、反日・自虐・侮日などと言われかねない内容だ。逆に、土屋先生の今日の案内は、非常にうまくバランスを取っていたと思う。自分には非常に受け入れやすいスタンスだった」と。
この発言に対しては、「ネットは過激な発言になりやすい。そして、そういう過激なネットの発言は一部でしかない」という反論もあった。しかし、客観的・相対的にいって、以前よりも今が右寄りになっているのは事実だと思う。以前のような全共闘が当たり前の時代は終わったのだ。
ここで、新たな発言があった。昼に「れきみちの家」で聞いたのだそうだが、長野俊英高校郷土研究班では、今、自分たちの郷土研究班での歴史観そのものの移り変わりについてまとめようとしているのだという。もともと、沖縄で戦争遺跡を見たことがきっかけとなって、「これなら地元にもあるじゃないか」ということで松代大本営の研究が始まったそうだが、1985年の研究班創設以来、歴史の見方にも変化があったのだという。その記者の方もこれは初耳だと言っていた。わたしは、それは非常に興味深いことだと思った。その歴史観の変遷がまとまったら、ぜひ見てみたいと思う。
おそらく、単純な「日本は加害者、朝鮮・中国は被害者」という史観では現代に対応できまい。逆に、「日本は何も悪くない」「日本が過去過ちをおかしたかのような記述が少しでもあれば、日本を貶めるものだ」というのも行きすぎだ。数々の史実は、そのような単純なものではないことでないことを伝えている。
まずは事実を知ること。考えるのはそれからでも遅くはない。
一通りの話が終わって、長い一日は終わった。夜は長野駅前の長野第一ホテル1階「そばきりみよ田 -トップページ」でジャズをBGMにそばを食べた。
■実際に行きたい方へ/文献
今回は長野俊英高校の土屋先生と郷土研究班の案内があったために、突っ込んだこともよくわかった。一般の人でも、学校の授業のないときであればボランティア案内を依頼することができる。連絡は長野俊英高等学校 長野俊英高校郷土研究班まで。信州 松代 れきみちの家にも立ち寄るとよい。郷土研究班の冊子なども手に入る。
また、松代の街の古代から現代に至る歴史を網羅した松代散策ガイドブックとして、NPO法人 夢空間松代のまちと心を育てる会編『信州松代夢空間めぐり』が非常によくできているので、可能であれば入手しておきたい。わたしは、れきみちの家で購入した。
おすすめの書籍は、絞りに絞ると下記2冊。『新版 ガイドブック松代大本営』は携帯にも便利で、新日本出版社(日本共産党系)なのに内容がアカくない。史実をしっかり書いている。
翌日は、あまり知られていない松本・里山辺地下工場跡を訪ねた。ここは、松代大本営地下壕よりも生々しい現場であった。続く。
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