『恋空』とあゆの関係。(『ケータイ小説的。』の感想)
速水健朗さん(【A面】犬にかぶらせろ!/【B面】犬にかぶらせろ!)の著書『ケータイ小説的。――"再ヤンキー化"時代の少女たち』を読んだ。いろいろと示唆的な内容が多くて面白かったので、感想を書く。
■ケータイ小説を解読する本たち。
実は、これまでに以下の三冊の「ケータイ小説」についての書物を読んでいた。
なんで本田は、好きでもないものを持ち上げようとしてるのか?
ケータイ小説のビジネスモデルとは
ケータイ小説に興味が無い人ほど読むべき一冊
簡易でわかりやすく、時代をとらえた一冊かと。。。
次世代マーケティングのケース・スタディ
モバイル文化という大きな視点で、ケータイ小説文化を読み解く
ビジネスの観点からケータイ小説現象を読み解く
内藤みかさんは、自身もケータイ小説家として活躍中の人で、ケータイ小説の書き方(サイトの見栄えなども含めて)についてノウハウ的に書いている。ただし、内藤さんはもともと小説を書いていて、ケータイ小説に移行した人であることには留意しなければならない。
吉田悟美一(よしだ さとび)さんは、モバイルサイト構築技術者として、マーケティング的に分析している。一言でまとめるならば、Web 2.0的な表現としてケータイ小説をとらえているということになろう。
本田透さんも、ケータイ小説市場についての入門書だと明言している。Yoshi著『Deep Love』によって創り上げられたケータイ小説のフォーマットを「ケータイ小説七つの大罪」(「売春(援助交際)」「レイプ」「妊娠」「薬物」「不治の病」「自殺」「真実の愛」)というキーワードで読み解いていく。
他にもケータイ小説を解読する書籍は何冊か出ているようだが、それは読んでいないので触れない。ただし、アマゾンのランキングでは、速水さんの本を含めて上記4冊が上位4冊となっていることは指摘しておこう。
これまでの3冊はいずれもマーケティング的な観点からの分析といえる(本田さんは多少、文化に踏み込んでいる部分があるが)。しかし、速水さんの今回の本は、ダイレクトに文化あるいは世代論からの論点である。
■そうか、浜崎あゆみか。
ケータイ小説として、速水さんは『恋空』『赤い糸』を典型的な例としてあげている。そして、これらの典型的なケータイ恋愛小説の特徴を探っていく。
ケータイ恋愛小説の書き手に、浜崎あゆみが非常に影響を与えている、という指摘は、極めて鋭いものだと思った。過去の自分のトラウマをつづっていること、固有名詞や情景描写がなく心理描写が大半であること、「ヤンキー」傾向があることなど、確かにケータイ小説とあゆの共通項は極めて大きい。「浜崎あゆみ」というキーワードは、浜崎あゆみに共感して育ったという世代論にもつながっていく。
浜崎あゆみとヤンキーという流れから、「ファスト風土化」すなわち東京を指向しない郊外化の流れも発見されていく。
ケータイ小説が生み出された世代的背景を、速水さんは的確に指摘していると思う。いや、むしろ速水さんが「再ヤンキー化」と呼ぶ流れをすでに察知していたからこそ、ケータイ小説の中にその息吹を感じ取ることができたのだろう。
あまりここで書きすぎてわかったような気になられても困るので、内容を詳細に紹介することはしないが、速水さんの分析は一読に値するものであると思う。とにかく、ケータイ小説に興味がある人は、この本を買うか借りるかして読むべきだ。
以上のような次第であるから、速水さんのケータイ小説分析はまさに☆☆☆☆☆(星5つ)だと思う。浜崎あゆみという決定的なキーワードを発見し、世代論に持って行った時点で、他の追随を許さないものがある。
■ケータイ小説、ケータイで読んでます。
さて、この本についての書評で、小飼弾さんはこんなふうに書いている。
ケータイ小説を読まない者にとってケータイ小説に対する最も適切な態度は、笑止して放置して無視すること。
ちなみに私はケータイ小説を読んだことがありません。
ゆえに、本書の内容についてのコメントは控えます。
ケータイ小説の愛読者の書評を読みたいところ。
Dan氏のような「オトナ」は、「ヤンキー」に接する必要はないという。それはそうなのかもしれない。そして、いわゆる「ブロガー」層でケータイ小説の読者というのは少ないのかもしれない。
しかし、(意外に思われるかもしれないが)わたしはモバゲーでケータイ小説を読んでいる。今連載中でしおりに入れているものだけで二桁はある。そして、ケータイでケータイ小説を読んでいると、これが案外面白かったりするのだ。
速水さんにしろ、他のケータイ小説論者にしろ、「単行本化された恋愛系ケータイ小説」を考察の対象としている。速水さんの場合は『恋空』と『赤い糸』が主な対象だ。そして、考察に値するケータイ小説とは、このような「売れ筋」の作品であることに異論はない。
しかし、ケータイ小説を単行本ではなくケータイの小さな画面で読んでいると、『恋空』や『赤い糸』と共通するところ、違うところがいろいろと見えてくる。
わたしが特によく読んでいるのは「ノンフィクション」カテゴリに入った作品である。それ以外の創作もちらほら読んでいるが、ノンフィクションがダントツに面白い。速水さんは、『恋空』や『赤い糸』が(実話かどうかは別にして)「事実をもとにした」作品であるとうたっていることを指摘している。一方で、ノンフィクションカテゴリにある作品群は、いずれも実体験だという(ノンフィクションなのだから当たり前だ)。そこで興味深い点を箇条書きにしてみると、
- 現在進行形の話もあるが、「過去の話です」「もうやめました」とうたっているものが多い。これは「昔のことだから批判しないでください」という保留にもなっている。過去を振り返って書く形式は、メジャー恋愛系ケータイ小説と共通している(その割には、ごく最近の話じゃないの?と思われる書きぶりのときもある)。
- ノンフィクションで実話だと言いながら、創作も混じるかも、と言い訳している作品がみられる。
- 特に地方の話の場合、具体的な地名や店舗名は仮名にされることが多い。それでも、すぐにわかるようにヒント満載で書かれていることも多い。
つまり、ノンフィクションというより「事実をもとにしたフィクション」に限りなく近い。一方で、速水さんの指摘に合致しない特徴もある。
- 作者は、いわゆる「恋愛系ケータイ小説」の著者である「浜崎あゆみに共感するヤンキー系の若い女性」に限定されない。人気作品の中には、30代以上と思われる男性のものもけっこう多い。それでも、ケータイ小説としての文法は守っているように思われる。
- 東京を舞台にしたものもあるし、地方を舞台にしたものもある。つまり「ファスト風土化」のものに限定されない。関東圏でバスガイドをやっていて東京の案内をしているとか、大阪で借金の取り立てをやってるとか、地方都市でデリ嬢やってるとか……。おおよそユーザーの人口分布と一致しているのではないか。「非東京」だけではない。ケータイ小説読者に東京志向がゼロというわけではなさそうだ。
こうしてケータイ小説をケータイで読んでいると、速水さんの本などであまり指摘されていない内容が浮かび上がってくる。それは、ケータイというデバイス(狭い画面・親指キー)で文章を読むのに適した文体・書法になっているということだ。
典型的な例として、人気の高い夢野ぽえ夢さんの「出会い系体験記」シリーズを挙げてみよう(何を読んどるんだというツッコミはおやめください)。まずは小説表紙の説明文を引用してみる(最新作サードより)
6年間で出会い系で知り合った女性との わっしょい体験談
ページ数の増加に伴い
ついにサードを作成
ページ数は多いですが
1ページ5行程度なので
#で読み進めると
かなり読みやすいです
過去の話です
現在は出会い系は
やってません
引っ張るのが大好きなので
やーの[ハート]
1つめの引用は冒頭の解説。2つめが小説の紹介文なのだが、本文もすべてこんな感じで改行されていて、しかも1ページ5行程度(あるいはそれ以下)なのである。一文ごとに改行どころか、句読点代わりに改行されているのだ。短いときには1ページ1行とか一言というときもある。なお「#」というのは「次のページ」へ進むキーのこと。
モバゲーの小説は1作品あたり3000ページまでという制約がある。夢野さんの場合は1作品1000ページくらいなのだが、それでもそれほど時間をかけずに読めてしまう。あの小さいケータイの画面で1ページの全文が収まるように書かれているのだ。表示された瞬間に#を押してちょうどいいくらいのペースである。
夢野さんの作品だけではない。他のケータイ小説でも、いずれも1ページの字数が極めて少ないものが多い(もちろん長いものもあるが少数派といえる)。中には、「顔文字だけ1行」が延々と5ページぐらい続くようなものもある(だんだん驚きの表情が派手になっていったりする)。
まるで紙芝居だ。
いや、アドベンチャーゲームだとかノベル系ゲームの感覚に近いかもしれない。短い文章が表示されて、次々とクリックして読み進めるタイプのゲーム(あるいはノベル)である。
このリズム感なのだ、ケータイ小説というのは。
文章のノリだけでいえば、2000年ごろに流行った「テキストサイト」に似ているような気もするが、それをさらに小さなページに分割した感覚である。
そして、このようにページ分割によって読者を引っ張ることができるため、たとえ文章力に乏しい書き手であっても結構読ませることができるのである。ケータイというデバイスの制約があるからこそ成立する、ケータイ小説マジックである。
すでに書きためてある作品や、完結した作品の場合は、このように一気に読み進めることが多い。一方、連載中のものについては、数日おきに数ページ~十数ページずつ更新されるのをちまちま読んでいくことになる。これが電車の待ち時間などにいい暇つぶしになるのだ(もっと有意義なものを読んだ方がいいというご指摘は甘んじて受ける)。
しかし、こうやって書かれたものを単行本化すると、すっかりペースが狂ってしまうだろう。見開きページでかなりの文章量を納めることのできる紙の書籍では、ページ分割で引っ張る技法で書かれた文章はただ単にくどいものとなってしまう。実際に単行本化するときには、ケータイ小説はかなりリライトされるらしいが。
で、このデバイスの特徴について触れていないことを考えると、速水さんは「単行本化されたケータイ小説」は本で読んだのだろうけれども、ケータイでケータイ小説を読んだことがあるのだろうかと疑問に思ってしまう。
もちろん、なぜリアル系恋愛ケータイ小説がこんなに人気を集めるのか、ケータイ世代の共感を集めるのかについては、速水さんの論考で充分だと思う。しかし、なぜケータイ小説が、ケータイでも読まれ、単行本になっても普段は本なんか手に取らないような人たちの間で売れ、さらにマンガ化されても映画化されてもドラマ化されても注目を集めるのか、この平成のメディアミックスがなぜ成立しうるのかという点については、別途考察が必要だろう。
■「ケータイ小説」は「小説」だ
最後に一点。「ケータイ小説は文芸作品なのか」という論争がよく繰り広げられている。そういうことを提起したい人の結論はだいたい決まっている。「ケータイ小説なんか文学作品とは認められない」だ。「小説」という文字がついているけれども、こんなものは文学ではない、と反発する人たちが多い。
ケータイ小説の文体なり内容なりが、他の優れた文学作品と比べて見劣りすることには、わたしも賛同する。決して必要以上に持ち上げるつもりもない。そして、普通の小説家になりたければ、ケータイ小説には手を出さない方がいいと考える。ケータイ小説の文体に慣れてしまうと、きちんとした文章を構築する技量は磨けないだろうと思う。
しかし、である。ケータイ小説は小説ではない、とは思わない。むしろ、小説の一形態として認めてよいと思う。
そもそも「小説」という語は、そんな高尚な文芸作品を指す言葉ではなかった。
(1)とるに足りないつまらない意見・議論。〔→荘子〕「欲彫小説干天官=小説ヲ彫シテ天官ヲ干メント欲ス」〔→李賀〕
(2)昔、中国で、珍しい物語や町の出来事などをおもしろく書いた作品。
(3)近代文学の形態の一つ。作者の虚構によって、社会・人間を現実的な出来事・人物として描く散文形式の文学。(漢字源)
(1)[漢書芸文志「小説家者流、蓋出於稗官街談巷語、道聴塗説者之所造也」] 市中の出来事や話題を記録したもの。稗史(はいし)。
(2)(坪内逍遥による novel の訳語) 文学の一形式。作者の想像力によって構想し、または事実を脚色する叙事文学。韻文形式だけでなく、語り手が物語るという形式からも自由となった、市民社会で成立した文学形式。古代における伝説・叙事詩、中世における物語などの系譜を受けつぎ、近代になって発達、詩に代って文学の王座を占めるに至った。(広辞苑)
坪内逍遥がnovelの訳語として「小説」という言葉を使うまで、小説は「小さな説」すなわち「つまらない意見」「出来事や話題の記録」だったのだ。ケータイ小説というのは、「小説」の原点に近いといったら過言だろうか。
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