お盆の起源は仏教ではなく、中国儒教と日本アニミズムの混交
日本では、夏に「ご先祖様が帰ってくる」として「お盆」の風習がある。このときには、先祖のお墓参りを口実にして実家に帰省するのが日本の風習となっている。
そして、お盆というのは『盂蘭盆経』というお経がもとになっている仏教の風習だと思っている人が多い。確かに語源はそうなのだが、この『盂蘭盆経』というお経自体が中国で儒教道徳の影響のもと作られた偽経であり、「お盆」という風習はさらに日本古来のアニミズム信仰が混じって成立した、お釈迦様とは何の関係もない風習なのである。
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日本では儒教道徳の影響を受けて、「親孝行」は無条件に「善」であるとされることが多いが、仏教にはそのような思想はない。また、死んだ人は49日の間に次の世界に生まれ変わるため、「先祖霊」「先祖供養」とか「水子霊」といった発想は仏教のものではないのである。今の日本仏教が「先祖供養」「水子供養」を商売にしているのは、本来の仏教とはかけ離れた行為だ。
■『盂蘭盆経』
「お盆」の名前の由来は、『盂蘭盆経』というお経にある。このお経に基づいて行なわれるようになった行事「盂蘭盆会(うらぼんえ)」が「お盆」と呼ばれるようになった。
盂蘭盆会は七月十五日に行なうと指定しているのも、この『盂蘭盆経』である。ちなみに、現在の日本では、お盆は旧盆(旧暦7月15日)またはそれに近い新暦8月15日に行なわれることが多く、通常の「お盆休み」も8月15日を中心として設けられることが多い。ただし、新暦7月15日に行なわれることもある。
というと、お釈迦様がお盆の起源のように思われるかもしれないが、決してそうではない。『盂蘭盆経』は中国で作られた偽経なのである。登場人物こそ仏弟子であるが、インド仏教の思想とは何のゆかりもなく、中国の親孝行の思想が盛り込まれている。大体において、親孝行とか先祖供養とか言い出すのは、本来の仏教ではなく、中国や日本の思想が入り込んだものである。
以下、盂蘭盆経を全訳しておく。
■『盂蘭盆経』全訳
『盂蘭盆経』西晋月氏三蔵竺法護訳(※訳というが、中国でのでっち上げである)
このように聞いた。あるとき仏陀は舎衛国祇樹給孤独園(シュラーヴァスティーのジェータヴァナ・アナータピンダダシャ・アーラーマ、いわゆる祇園精舎)にいらっしゃった。仏弟子マハーマウドガリヤーヤナ(大目犍連、目連)は初めて神通力を得て、育ててくれた恩に報いるため父母を済度しようと望んだ。そこで道眼をもって世界を見ると、死んだ母親が餓鬼に生まれ変わって、食べるものも得られず苦しんでいるのが見えた。目連は悲しみ、鉢にご飯を盛って持って行くが、母親が右手でご飯をつかんで口に入れようとすると、燃えさかる炭と化してしまい、食べられなかった。目連は号泣して仏陀のところへ言って話す。仏陀は語った。
「お前の母の罪は深い。お前一人の力ではいかんともしがたい。お前の孝順の声が天地、天神・地神、魔や外道道士、四天王神を動かしたとしても、どうしようもない。まさに十方の僧の威神の力をもってのみこの苦しみから脱することができるだろうい。これからその救済方法を教える」
仏陀は目連に告げた。
「十方の僧たちが7月15日に僧自恣(僧たちが自ら懺悔を行なう会)を行なうとき、厄難に苦しんでいる七世の父母から現在の父母のために、百味の食事・五果を盆器に汲み注ぎ、香油・燭台・敷物・寝具を供えよ。この世の素晴らしいもので盆の中を見たし、十方の大徳ある僧たちを供養せよ。この日、一切の聖なる人々は、山間で禅定している者も、四道果という4つの修行の成果を得た者も、樹下で歩く修行をしている者も、六神通が自在で声聞・縁覚を教化している者も、十地菩薩という大いなる人でありながら比丘として現われて大衆の中にいる者も、みな心を一つにし、鉢和羅飯(自恣飯)を受ける。清浄な戒、聖なる人たちの道を備えており、その徳は大きい。これら自恣僧に供養する者は、現在の父母、七世の父母、六種の親族も三途(地獄・餓鬼・畜生)の苦しみを出ることができ、時に応じて解脱し、衣食が足りるようになるだろう。まだ父母が生きている者であれば、百年の福楽となるだろう。亡くなっても七世の父母まで天に生まれ、自在に生まれ変わり、天の華光に入り、無量の快楽を受けるであろう」
仏陀は十方の僧に命じた。
「皆、まず施主の家のために祈願しなさい。七世の父母の幸せを願い、禅定をして意識を定めてから食を受けよ。初めて盆を受けるときには、まず仏塔の前に置いて、僧たちは祈願をし終わってから食を受けるようにせよ」
そのとき、目連・比丘およびここに集まった大菩薩衆はみな大歓喜し、目連の悲しみの泣き声はたちまち滅した。そして、目連の母はこの日、一劫(1カルパ)に及ぶ餓鬼の苦しみから脱することができた。
そのとき、目連はまた仏陀に言った。
「弟子たちを生んだ父母は三宝の功徳の力を得られます。それは僧たちの威神の力のためです。もし未来世の一切の仏弟子が孝順を行ない、またこの盂蘭盆を奉るならば、現在の父母から七世の父母までが救度されるのですか」
仏陀は言われた。
「大変よい質問である。わたしが言いたかったことを、お前は問うてくれた。善男子よ、比丘・比丘尼・国王・太子・王子・大臣・宰相・三公・百官・万民・庶人が孝・慈を行なう者は、みな、生んでくれた現在の父母、過去の七世の父母のために、七月十五日、仏陀が歓喜する日・僧たちの自恣日に、百味の飲食を盂蘭盆の中に置いて、十方の自恣僧に施して、現在の父母の寿命が百年無病であって一切の苦悩の患いがないように、また七世の父母が餓鬼の苦しみを離れ、天人の中に生まれて福楽極みないことを祈ってもらうように」
仏陀は諸々の善男子・善女人に告げた。
「仏弟子であって、孝順を修める者は、思念の中で常に父母供養あるいは七世の父母のことを思う者は、毎年七月十五日に、常に孝順をもって、生んでくれた父母または七世の父母への慈しみの思いをなし、盂蘭盆を作って仏陀と僧に施し、それによって父母が養ってくれた慈愛の恩に報いよ。また、一切の仏弟子は、この法を奉れ」
そのとき、目連比丘、四輩弟子は、仏陀の説かれることを聞いて歓喜し、実行した。
仏陀の説かれた盂蘭盆経(※仏陀はこのような偽経を説かれていない)
■「盂蘭盆」の意味
この経典を文字通りに読めば、「盂蘭盆」とは要するに「盆」のことであり、僧たちへの捧げものを乗せた「盆」そのものであるということになる(赤松考章『「盂蘭盆」考』(高松大学紀要33)参照)。
しかし、伝統的に、盂蘭盆とはサンスクリット語の「ullambana(ウッランバナ)」の音写という説が唱えられてきた。ウッランバナとは「倒懸」と漢訳される言葉で、逆さづりの苦痛という意味になる。
最近になって、ペルシア系のウルヴァン(urvan=「霊魂」)が原語という説も出ているようである。
ただ、いずれにせよ中国で初めてでっち上げられた偽経なので、そのあたりはどうでもいい。とりあえず「盂蘭盆会(うらぼんえ)」が日本で「お盆」と呼ばれているということは確認できる。
■中国の「盂蘭盆経」によるお盆
この盂蘭盆経に基づいて考えると、実は、今の日本で行なわれている「お盆」とはまるで違ったものになる。
- 仏陀の二大弟子の一人である目連が直接、餓鬼道の母親に食事を与えようとしても無理だった。ところが、自恣日(懺悔の会)に参加している仏弟子たちを供養すると、母親は救われた。
- 日本のお盆では、直接ご先祖様に食事などを供える。自恣日などは関係ない。
盂蘭盆経においても、死者が霊界から帰ってくるとか、死者の霊をそのまま供養するという考え方は存在していない。
あと、七世の父母というのは、自分の親からさかのぼって七代という意味ではなく、自分が輪廻転生してきた過去七世のそれぞれの父母ということではないかと思われる。先祖代々と読み取ってはいけない。
したがって、日本の「お盆」は「盂蘭盆経」+アルファであると考える必要がある。
■中元との習合
wikipedia「三元」から引用。
中元
旧暦7月15日。半年間無事に暮らせたことを祝い、祖先の霊を供養する日。元々道教では、中元は人間贖罪の日として、一日中火を焚いて神を祝う風習があった。これが日本に伝わると盂蘭盆(うらぼん)の行事と習合し、祖先の霊を供養し、両親に食べ物を送るようになった。この習慣が、目上の人、お世話になった人等に贈り物をする「お中元」に変化した。
「祖先の霊」という話が出てきたら仏教ではないと思えばよい。さあ、こうして日本の「お盆」に一歩近づいた。
■日本の「魂祭り」「盆踊り」
日本の民俗学的には、折口信夫の論考を参照するとしよう。以下、折口信夫の『盆踊りの話』を全文、現代語に訳して引用する(参考:折口信夫 盆踊りの話 by 青空文庫)
■盆踊りの話
一
盆の祭り(仮りに祭りと言っておく)は、世間では、死んだ聖霊を迎えて祭るものであると言っているが、古代において、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、いわば魂を切り替える時期であった。すなわち、生魂・死霊の区別なく取り扱って、魂の入れ替えをしたのであった。生きた魂を取り扱う「生きみたまの祭り」と、死霊を扱う「死にみたまの祭り」との二つが、盆の祭なのだ。
盆は普通、霊魂の遊離する時期だと考えられているが、これは承知できないことである。日本人の考えでは、魂を招き寄せる時期というのが本当で、人間の体の中へその魂を入れて、不要なものには帰ってもらうのである。これが仏教伝来の魂祭りの思想と合して、合理化されてできたものが、盆の精霊会である。
七夕の祭りと盆の祭りとは、区別がない。時期からいっても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の「生魂の祭り」である。現今の人々は、魂祭りといえばすぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、我々の国の古風では、これは陰惨なときではなく、非常に明るい時期であった。この時期における生魂の祭りの話を、簡単に述べようと思う。
二
日本民族のはかりしれない大昔、日本人が国家組織をもって定住していないころ、あるいはそれ以前に、我々の祖先が多分まだこの国に住んでいなかったころから、私の話は、語り出される。
そのころの日本の人々の生活は、外来魂を年に一度、切り替えねばならなかった。それが、年に二度切り替えることにもなっていった。本来ならば、少なくとも一生に一度切り替えればよいのであるが、これを毎年切り替えることになった。年の暮から初春になるときに、蘇生するために切り替えをし、その年の中頃にもう一度繰り返す。この、後の切り替えが、精霊祭りである。
切り替えとは、魂を体に付けることである。魂を体に付加すると、一種の不思議な偉力ができたのである。たとえば、ある地位にある人は、その外から来る魂を体に付けなければ、その地位を保つことができないのだ。これを一生に一度やるのが、年に二度となり、六度行った時代もあったようだ。
二度の魂祭り、すなわち、暮と盆との二度の祭りに、子分・子方の者から、親方筋へ魂を奉る式「おめでたごと」ということが行なわれたのは、この意味であった。「おめでとう」ということばを唱えれば、自分の魂が、上の人の体に付加するという信仰である。正月には魂の象徴を餅にして、親方へ奉る。
朝覲行幸というのは、天子が、親の形をとっておいでなさる上皇・皇太后のところへ、魂を上げに行かれた行事である。我々の生活もまた同様で、盆には鯖(サバ)を、地方の山奥等では塩鯖をささげて、親・親方のところへ行った。いつのころから魚の鯖になったかわからないが、さば(産飯)ということばの連想から、魚の鯖になったことは事実である。この行事を「生き盆」「生きみたま」という。
三
神道の進んでいくある時期に、魂の信仰が、神の信仰になっていったことがある。昔は、神ばかりいたのではない。精霊がいて、これが向上し、次第に位を授けられて神になったものと、霊魂というもっと尊い神とがあった。その形が断片的に今日の風俗伝説に残っている。その時期に、古代には少なくとも、神が海なら海、河なら河を溯って来て、その辺りの聖なる壇上に待ちかまえている処女の所へ来る。そのとき、聖なる処女は機を織っているのが常であったらしい。この処女が棚機つ女(タナバタツメ)である。この形は、魂の信仰が神の形に考えられたのである。
夏に神が来る。――夏の末、秋の初めに神が来ると考えたのは、日本神道の上でも新しいものである。といっても、わが国家組織がまとまるか、まとまらないころのものであらう。この時期に、我々の民間に残っている、注意すべきことは、処女どもが一所に集って物忌みすることである。今日でも、地方地方に残ってはいるが、たいていは形式化して、やらねば何となく気が済まぬからというような気分で、形式だけを行っている。これをある地方では、盆釜(ボンガマ)という。
地方には、その時だけ村の少女ばかり集まって、一か所にかまどを築いて遊ぶことが今も残って居る。これが実は、いわゆる「ままごと」の初めである。日本人は、隔離して生活するときには、別なかまどを作って、そこで飯を焚くのが常である。盆釜は、「うなゐ」・「めざし」等と称せられる年ごろの同輩が、別に竈を造って、ものを煮焚きして食べる。このときに、小さい男の児たちが、それを壊しに行って喜ぶようなことが行なわれている。
盆釜と同じもので、春には、男の子らが鳥小屋を作ってこもることがある。これは、男の子が「くなど」に奉仕する物忌みなのである。盆釜とは、幼女が処女の仲間入りするためのものである。
これに対して、田植えに先だって処女が山籠りをする行事は、処女から成熟した女になる式である。すなわち、日本では、子供から男・女になるまでに、式が二度あった。男の方では、袴着の式――いわばふんどし始めである。女の方では、今言った裳着の式――腰巻始めとでも言ったらいいか。その裳着の式が二度ある。少女の時と、成熟した女になる時の式とである。しかしこれは一度にしたりすることがあるから一概に言えないが、まず二度行はれるのが本当である。
この式は、田植えの一月前、処女が山籠りをするので、ツツジの枝をかざしてくるのがそのしるしである。これが「早処女(サウトメ)」となって、田植えの行事をするのだ。これ以前に行なわれるのが盆釜といわれる式で、すなわち、早処女になる以前の成女戒である。これは別のものか同じものかわからないが、私は、年に二度行なわれたものと考えている。
盆釜にこもる間は短くなっているが、実は長いものであった。卯月の山ごもりも同じで、近頃ではわずかに一日しかこもらない。こういうふうに段々短くなってきているが、一日では意味がわからないものである。みそぎをするときは一日でよいが、神に仕えるときは長かったもので、それを形式化して行なっているのであろう。
室町から徳川へ入る頃合いから少女の間で盛んになったものに「小町踊り」がある。男の方に「業平踊り」があるから、それに対立したものであるといわれているが、それとは別なものである。小町踊りは、少女らが手をつないで行って、ある場所で踊る踊りである。私が大阪で育ったころ、まだ遠国(おんごく)歌を歌って、小娘たちが町を練り歩いていた。これは盆の踊りの一つである。小町踊りと言うのがこの総名で、この踊りのために日本の近世芸術は一大飛躍を起してきたのだ。そうして、徳川初期の小唄の発達・組み歌の発達とかなっている。娘たちの盆釜の行事は、こうした種々のものを生み出してきた。
四
一方、魂祭りの方面では、ちょうどそのころ、念仏踊りがある。魂祭りは、死んだ近い親族が帰ってくるから魂祭りであるというが、これだけでは、近頃の考えである。以前は、その帰ってくる魂の中に、悪い魂も混って戻って来ることを考えていた。そのために、悪霊を退ける必要があったのだ。この悪霊退散のための踊りが、念仏踊りである。春の終わり、夏に先だって流行する疫病を予防するための踊りであったが、その元は、稲虫を払う踊りである。
日本人はすべて物を並行的に考えるのが例で、田に稲虫が出ると、人間にも疫病が流行すると考えていた。この踊りのもとは、平安朝になって俄然発達してきた「鎮花祭」から起っている。「花が散るころには悪疫が流行するから、花鎮めの祭りをする」というのは平安以後の考えで、もとは、花を散らせまいとする、花の散ることを忘れさせるための踊りであった。これが平安朝になると、疫病退散のための踊りになった。
日本の踊りは宗教を生み出す源となることがあるが、念仏宗も鎮花祭の踊りから発達して来ているのだ。鎮花祭の踊りをする中に、その興奮から、一種の宗教的自覚をおこして念仏宗が出て、その径路に当って念仏踊りが現われたのであった。
念仏踊りは、このように段々意味が変ってきているが、根本には、魂にかかわる祭りだという考えがなくなってはいない。念仏踊りの直接の前の形は魂祭りではあるまいが、しかしそれ以前、平安朝から、あるいは奈良朝のころにも、この魂祭りを考えていたことは見える。
村の精霊が帰ってくる時期に、ちようど念仏踊りを行なった。念仏聖が先に立って踊るときもあり、念仏聖をやとってするときもあり、村人自身がするときもあり、あるいは村全体が念仏聖の村であることもある。この念仏聖が鉦(かね)を叩いて新仏の家に立って踊り、精霊の身振りや、となえごとを唱えて歩いた道行き芸が本筋をなしている。途中のある場所で演芸をするのはまた、歌舞妓狂言の一部を発達させている。
出雲阿国の念仏踊りは、ほんとうのものであったか否かは疑はしい。歌舞妓の草子を見ても、阿国のは念仏踊りの部分がわずかで、享保のころから、念仏踊りはすでに小唄踊りに変ってきている。この道行き芸が、実は盆の踊りの根本である。道を歩きながら、鉦を叩いて、新盆の家の庭で輪を作って踊る式は、神祭りと同一で、月夜の晩に、雨傘をさしたり、踊りの中心に柱をたてたりする。神を招くときには、中央に柱をたてて、そのまわりを踊ってまわるのが型である。この神降しの様式を念仏踊りは採り入れているのだ。出雲の須佐神社の念仏踊りを見ても、その中心には傘のように竹を割ったものをたてている。盆踊りを歌垣の流れであるというのは全く誤りで、勝手な想像にすぎない。男と女とがよれば、その結果、歌垣の終わりのようになるのは当然である。
盆踊りの直接の原因は、だから、念仏踊りであることは事実だ。行なわれる時期も色々あり、踊り方にも色々あって、道を歩いて踊って行く踊り、たとへば阿波の徳島の念仏踊りはその代表的なもので、伊勢踊りと同様である。それから神を迎えてくる道中の踊り、すなわち伊勢踊りが、七夕や盆の踊りの中へ織り込まれてきた。これだけの要素は、従来の盆踊りの中に、その形式を忘れることができないものである。要するに、それは盆釜から生まれて来た小町踊りと、七夕と同一の伊勢踊りと、根本の念仏踊りとの三要素があるのだ。
中昔のころには、盆という時期は、死人の魂が戻ってくるとともに、無縁の亡霊もやってくると考えた。そのため、家では魂祭りをし、外では無縁の怨霊を追ひ払わねばならぬ。この考えが変化して、盆のように、精霊も中一日いるのみで、追い返されてしまう。少しでも亡霊を嫌がるそぶりを見せると、また戻ってくると考えた。戻られると厄介だから、名残惜しい名残惜しいという意味を口には唱えるが、実は嘘で、さう言いつつ追い払うのである。これは、雛流し・七夕流しにつき添うた型式である。もちろん、その他の無縁の精霊・悪霊をも一緒に払い捨ててしまうのである。
こう見て行くと、複雑な盆踊りの形が簡単になってくる。私の盆踊りに対する考えは、簡単ではあるが、大体以上のようなものである。
■まとめ
以上の折口信夫の説から、「お盆」に関する重要なポイントをまとめて補足する。
- 日本の伝統では年二回(年末と夏)に「魂祭り」が行なわれた。これは「生魂の祭り」と「死霊の祭り」であり、「お盆」は死霊の祭りに当たる。
- 「祭り」とは本来、死んだ霊をまつるのではなく、死んだ魂をこの身に受けることであった。
- 盆踊りの起源。もともとは「鎮花祭」で、平安時代には疫病を避けるための踊りになっていった。そこから、空也上人の踊念仏が生まれ、時宗の一遍に受け継がれていった。
盆踊りの起源は、空也の「踊念仏」だというのは歴史上の定説である。そのため、盆踊りは仏教起源のものとされることが多い。しかし、空也が踊念仏を始めたのは、日本の伝統(言い換えれば神道的な起源)に根ざしたものであり、決して仏陀の教えに踊念仏があるわけではないという意味では、これも仏教とは関係ないということになる。
このように見てくると、「お盆」というのは今では仏教行事のように思われているが、そのほとんどすべてが仏教とは関係ない起源を持っており、極めて中国・日本的な行事であるということになる。
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