ハンコ・元号・縦書きをやめたくない歴史的な理由
ハンコ・元号・縦書きをやめよう - 池田信夫 blogを読んだ。
あまり根拠もしっかりと書かれておらず、思いつきだけで書いているのではないかという印象を受けたが、歴史的な事実関係を見ながら、何となく「やめなくていいんじゃないの?」という意見を書いてみたいと思う。
ちなみに、わたしは保守派でもなければ国粋主義者でもない。
■「捺印して郵送せよ」が失礼とは?
あるウェブマガジンに依頼された原稿を送ったら、「申告書」がEメールに添付されて、「銀行口座を書いて署名・捺印して郵送せよ。それまで原稿は掲載しない」という。「私が頼んで原稿を書いたんじゃない。こんな失礼なサイトに原稿を掲載するのは、こっちがお断り」と返事したら、担当者があわてて「経理規定を見直します」とフォローしてきた。
ここを読んだが、これは「掲載前に契約を完了せよ」と言われたことを「失礼」だと感じたというのならまだ理解できるのだが、なぜこれが「ハンコをやめよう」につながるのかが全く理解できない。本が出版された後でようやく契約条件が明らかになることもある出版業界の通例から見れば、事前にきちんと契約を済ませること自体に問題があるとも思えないし、ましてやそれがなぜ「ハンコをやめよう」なのかわからない。
池田先生に「私が頼んで原稿を書いたんじゃない。こんな失礼なサイトに原稿を掲載するのは、こっちがお断り」と言われたウェブマガジンは、むしろ「そんな失礼な書き手に原稿を依頼したのが間違いでした、もう頼みません」と撤回すべきだった。
印鑑の文化は、メソポタミアの粘土板にさかのぼり、それが東方に伝わったものだ。欧州には印鑑文化は流行らなかったが、中国文化圏では印鑑はきわめて重要なものとなった。日本では卑弥呼の金印から玉璽というものが尊重されてきた。
ハンコよりサインが優れているという意見はあってもよいと思うが、その点、頭ごなしに「ハンコを求めるのは失礼だ」と主張するのはいかがなものであろうか。
なお、こう言ったからといって、わたしはサイン廃止論者ではない。あえていえばハンコ・サイン共存論者である。西洋式のサインをよしとするのなら、江戸時代以前の花押の復権を主張したいところだ。平安時代以降、花押という独特のサイン文化が日本で発達した。しかし、江戸時代になって、面倒なのでハンコ文化に変わっていったのである。そういう歴史を無視したところに、池田氏の飛躍した見解が存在しているのだと思う。
■西暦以外の暦はあってはならないのか
官庁のサイトのExcelデータも元号なので、手作業でひとつひとつ西暦に直さないと使い物にならない。元号法は「元号は政令で定める」と規定しているだけで、元号の使用を義務づけてはいないので、官庁のデータはせめて西暦を併記すべきだ。NHKも、海外ニュースは西暦で国内ニュースが元号という混乱した書式をやめるべきだ。
世界的にも、公文書で独自の年号しか使わないのは北朝鮮の「主体暦」だけ
わたし自身、今年が平成何年だったか思い出せなくて困ることがある。だから、一つめの引用部分の趣旨、すなわち「元号を使うなら西暦も併記すべきだ」という主張には異論はない。両方あっていいと思う。
しかし、後半はめちゃくちゃだ。元号を使うような奴は北朝鮮と一緒、というような乱暴な印象づけ・世論操作にも思えてくる。「日本がガラパゴスを通り越して「北朝鮮化」する状況を象徴している」という結論はあまりにもひどいレッテル貼りにしか見えない。
実際にはそんなことはない。西暦だけが世界で通用しており、独自暦は北朝鮮と一緒、などと言われる筋合いはない。
台湾では1912年を元年とする「民国暦(中華民国暦)」がよく使われている。本の奥付にも平然と(注記なく)民国暦表記がなされていて、うっかりすると間違ってしまう。発行年が「97年」と書いてあったら、1997年ではなく「2008年」なのだ。もっとも、台湾でも国民党支持者(台湾は中国=中華民国の一部で、中国の代表が国民党と考える人たち)はこの暦が好きだが、民進党支持者(台湾は中国とは関係のない独自の国と考える人たち)は民国暦を嫌っている。
ユーザーの多い紀年法としては、ヒジュラ暦(イスラム暦)もある。イラン暦、アフガン暦はそれぞれ公式の暦として採用されている。いずれもヒジュラの年(西暦622年)を元年としている。そのほか、ユダヤ暦、タイの仏暦も存在している。
さらに今は使われていない数々の紀年法(ローマ建国暦など)の存在を考えれば、キリスト紀元の西暦がグローバル・スタンダードとして使われるようになった歴史はきわめて短く、また歴史上もきわめて特異な状況であることが理解されるはずである。そもそも、なぜキリスト紀元(しかもイエスの出生年は紀元元年ではないというのが定説)を採用するのが「よい」というのか、それは「ユーザー数が圧倒的に多い」という以外の理由はないはずだ。
もちろん、わたしも歴史を通じて一つの数字で表せる西暦を便利だと思うが、しかし、紀元前の年数が「過去から未来に進むにつれて数字が小さくなる」というのは使いづらいとも感じる。西暦とても万能ではない。
一方で元号は天皇制との関係もあってイデオロギー的に問題視される部分もあるだろうが、わたしは、やはり「天皇」に一定の精神的よりどころを見いだしている日本の文化などは、元号によって区分けするとわかりやすい部分があると思う。「元禄」「文化・文政」といった元号が江戸庶民文化と結びついて理解され、また明治・大正・昭和(戦前・戦後)・平成と記したときに時代の雰囲気が理解しやすいようにも思われる。「昭和アイドル」とか「平成ライダー」とかいった区分けは、「60's」「70's」といった言葉と共存していていいと思うのだ。
その点から言えば、一世一元の制はむしろ改めて、「そろそろ気分変えたくない?」というときに改元していい、という制度にしたら楽しいと思う。「元年に戻ったことですから、一からやり直すつもりでがんばりましょう」みたいな感じで。
だから、西暦を一つの軸としつつも、他の元号・紀年法を認めるというのが、文化的多様性を守りつつも実用性を高めるという点で、もっとも実際的だろうと思うのである。
■書字方向も千差万別
私の見ている画面のほとんどはPCのモニターなので、縦書きは読みにくく、文書をファイルするときも混乱する。日本だけが右縦書きという世界に例をみない方式を続けているのは、新聞が最大の原因だろう。
左横書き以外の書式を使っているのは、アラビア語とモンゴル語しかない。
言語学出身者から言わせてもらえば、「これはひどい」の一言である。たとえば中国大陸ではかなりの割合で書籍は横書きだが、しかし、もちろん縦書きの本もある。街中の看板や包装紙などにも縦書きは多用されている。中国茶のパッケージで横書きだと安っぽい。台湾では縦書きの本がもう少し多いようである。
そもそも、文字の書き方としては、
- 上から下への縦書き・右列→左列
- 上から下への縦書き・左列→右列
- 右から左への横書き
- 左から右への横書き
- 牛耕式(一行書くごとに上下をひっくり返して反対側に進む)
といったパターンがある(さすがに「下から上への縦書き」パターンはほとんど見ない)。
エジプトのヒエログリフには、決まった書き方の方向はない。絵文字を左右に並べたり、上下に並べたりするのも自由自在である。一つだけルールがあって、それは「顔が向いている方向へ読んでいく」のである。
漢文は「上から下への縦書き・右列→左列」である。日本語など、漢字文化圏はこの影響を受けている。なお、日本語では当初、横書きにしたときに「右から左」になっていたが、これは実は「一行が一字の縦書き文章を右列から左列へと書いた」と考えるのが妥当だという『横書き登場―日本語表記の近代 (岩波新書 新赤版 (863))』の説が慧眼だと思う。その後、西洋式に合わせて、左から右への横書きが生まれたのだ。文字を書く方向についての議論をする際には、本書は必読である。
モンゴル文字は池田氏も「左横書き以外の書式」と述べているが、これは「上から下への縦書き・左列→右列」である。そのもとになったウイグル文字は、もともと横書きだったが、これを回転させて縦書きにした。
現代のアルファベットの祖といえるフェニキア文字は、原則として右から左の横書き、ときに牛耕式であったとされる。その子孫は、右から左の横書き(ヘブライ語、アラビア語、ペルシア語等々)と、左から右への横書き(ギリシア文字、ローマン・アルファベット、キリル文字、デーヴァナーガリー文字などのインド系文字→ビルマ・チベット系の文字等々)へと二分化された。
たまたま英語をはじめとするヨーロッパ人がそろって「左から右への横書き」派だったために、また「0(ゼロ)」を発明したインド人が起源の「アラビア数字」がやはり左から右へ書くものであったため、「横書き」しかも「左から右」が主流になったのである(アラビア語では数字だけを左から右へ書く)。もしオスマントルコ帝国が世界を牛耳っていたら、「右から左の横書き」が世界のグローバルスタンダードになっていたかもしれない。
そういうわけで、「左から右への横書き」が世界の大勢を占めつつあるとはいえ、それ以外の書法はなくしてしまえというのは、あまりにも乱暴な議論だと思う。
なお、世界で最も機能的・合理的な文字といえば、それは1446年に人工的に作られたハングル文字であろうと思う。何しろ、音と文字との間に何の関係もない他のすべての言語と違って、ハングルは発生するときの調音部位を示す形となっているのである(k音はのど、t音は舌先を歯に当てている形、など)。いかも一音節をひとまとまりの文字として表している。これほど合理的かつシステマティックな文字もあるまい。
しかし、池田氏は「全世界ハングル化」などを唱えることはないだろう。そして、ローマン・アルファベットという「多数派」をよしとするのである。
■結論
池田氏の主張する「ハンコ・元号・縦書きをやめよう」とは、結局、世界の文化の多様性には目をやらず、世界基準化しつつある欧米型文化をそのまま深く考えずに採用し、もって機能性・実用性を高めよう、という主張であるように思われる。それは、「マジョリティに合わせるのが合理的」という、至極単純な思考であると断じなければならない。
しかし、多数に迎合することが必ずしも受け入れられるとは限らない。明治以降何度か「漢字全廃・ローマ字採用」論が繰り返されてきたが、そのいずれもが失敗に終わった。日本人は、漢字かな混じり文で表意文字と表音文字を混在させ、縦書きも横書きもできるという柔軟な書法を、明治以降の150年の間に作り上げてきたのだ。
それどころか、左から右への横書きが普通に使われるようになったのは、戦後60年あまりでしかない。それを基準として縦書きを捨てよと言うのはあまりにも乱暴な話だ。
ちなみに、わたしはEmEditorを使って横書きで文章を書くが、その多くは印刷されて縦書きに収まることを想定している。縦書き・横書きの双方が共存しているからこそ、日本の書法は、そういう頭の切り替えを可能にしているのだと思う。
そして、誤解がないように、最後にわたしの主張を繰り返しておく。ハンコとサイン、どちらもあっていい。元号と西暦、どちらもあっていい。そして、縦書きと横書き、どちらもあっていい。
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「文化とは、ムダなことに価値をつけるものである」というタケルンバ卿の言葉には、まったくそのとおりと言いたい。ところで、
時間は「17時」みたいに午前・午後が関係ない表記で書くのに慣れましたね
自分も時間を書くときには(誤解がない限り)「1700」みたいに4桁で書いて済ませたりする。しかし、「午後5時」という言い方も使う。ときには「午後5時、17時でいいですね」と両方の言い方で確認することによって、つまり冗長性を持ち込むことによって確実さを高めることもある。
また、弾氏も言及している。
しかし、この両氏とも、縦書き擁護だが、元号・ハンコは捨ててもいいという。この点がわたしの見解と異なるところである。
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