SMAP草彅剛(草なぎ剛)が泥酔した「檜町公園」のゲニウス・ロキ
SMAP草彅剛(草なぎ剛)が酔っぱらって全裸になってしまい、逮捕されたという「檜町公園」。ここは東京ミッドタウンの裏にある庭園の一つである。
先日(4月10日)、たまたま東京ミッドタウンで打ち合わせがあり、その帰りに檜町公園を散歩して写真を撮っていた。その写真をまとめ、檜町公園の場所の記憶(ゲニウス・ロキ)をたどってみたい。
■東京ミッドタウン
六本木と乃木坂が最寄りとなる東京ミッドタウン。
ル・コルビュジェの「輝く都市」思想に影響された森ビル型都市計画の典型的な建築物である(※ミッドタウンは森ビルではなく三井不動産。誤記していたので訂正する)。輝く都市とは、高層ビルにすることで残った場所を緑地とする都市計画だ。これについて私は現在研究中である。
ロンドン万博のクリスタル・パレスや、パリ万博のエッフェル塔を受け継ぐかのような構造が見られる。
以下、昨年9月1日撮影の写真があった。
この東京ミッドタウンの裏にミッドタウンガーデンがある。こちらも2008年9月1日撮影。
ミッドタウンガーデンからミッドタウンを見上げる。こちらは4月10日携帯撮影。
ミッドタウンは丘の上にある。丘の下には住宅街。2008年9月1日撮影。
デザイン専門施設「21_21 DESIGN SIGHT」もミッドタウンガーデン内にある。
(この一枚のみ先日撮影)
このミッドタウンガーデンの隣が檜町公園だ。ガーデンと公園はなめらかにつながっており、境界もあまりはっきりしない。
■檜町公園
檜町公園は庭園を中心とした一画である。以下、携帯での撮影。
公園の入り口からミッドタウンを見上げる。
檜町公園から乃木坂方面へ下の道を進む。住宅地の向こうにミッドタウンがそびえる。
■東京ミッドタウンと檜町公園のゲニウス・ロキ
六本木の東京ミッドタウンの敷地は、江戸時代には長州藩毛利家(松平大膳大夫)の下屋敷であった。檜が植えられていたために檜屋敷と呼ばれ、このために後に檜町という地名が付けられることとなった。この屋敷内の庭園は「清水亭」と呼ばれていたという。
幕末の元治元年(1864)、長州征討が勃発すると長州は幕府への反逆者として扱われたため、屋敷は幕府に没収され、徹底的に破壊された。
明治維新後には「赤坂檜町」と名づけられ、この長州藩邸跡には陸軍第一師団歩兵第一連隊が置かれた。二・二六事件ではこの第一連隊(と第三連隊)が中心となったのである。
終戦・占領にともない、この地は進駐軍に接収され、西側の近衛歩兵第五連隊があった場所(現在、国立新美術館がある)と合わせて「ハーディ・バラックス」となった(Wikipediaその他の資料では、この占領期の状況についての記載が省かれていることが多い)。ハーディ・バラックスは米陸軍第一騎兵師団ほかの兵舎となった。下士官兵の宿舎となり、米兵たちは六本木の街へ繰り出していくこととなった。
ハーディ・バラックスが接収解除されたのは昭和三十四年(1959年)である。元歩兵第一連隊後は防衛庁の敷地となった。ただし、ハーディ・バラックスのごく一部のみが返還されておらず、ヘリポート、星条旗新聞社、独身将校宿舎、ガレージなどがある。
敷地の中で防衛庁が建設されなかった一画が檜町公園として整備された。昭和三十八年(1963年)に都立公園として開園され、五年後に港区に管轄が移動した。
2000年5月、防衛庁が新宿区市ヶ谷に移転した。その跡地が再開発されたのが東京ミッドタウンであり、2007年にグランドオープンした。それと同時に、檜町公園も回遊式日本庭園として再整備された。ミッドタウンガーデンともなめらかにつながり、開放感のある空間となっている。
長州藩と長州征討、歩兵第一連隊と二・二六事件、占領軍とハーディ・バラックス、防衛庁と軍事的な歴史をたどってきたこの場所は、今、デザインや文化の街・東京ミッドタウンとして新しい歴史を刻もうとしている。
その裏手で(おそらくストレスがたまっていたのだろうと思うが)「地デジの顔」にもなっていた平成アイドルグループのメンバーが不祥事を起こしてしまったのだった。
(ちなみに、檜町公園がハッテン場だったというのはデマと思われる。過去のハッテン場リストに檜町公園は入っていないし、夜間は立ち入り禁止で巡回もある。しかも、見晴らしのよい場所である。)
■ゲニウス・ロキについては、メールマガジンもご参照ください。→「場所の記憶」「都市の歴史」で社会を読み解く――松永英明のゲニウス・ロキ探索
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