幸福実現党の研究(4)新・日本国憲法試案

幸福実現党を調べるためには、その「憲法」を見ることが必要だろう。やたらと字の大きいハードカバーだが、『幸福実現党宣言(4) 新・日本国憲法試案』を検証したい。

新・日本国憲法 試案-幸福実現党宣言4 (OR BOOKS)
大川 隆法
幸福の科学出版 ( 2009-07-08 )
ISBN: 9784876883530
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

前文+全16条、十七条憲法とほぼ同じ条文数となる。書籍に掲載された「第2章「新・日本国憲法 試案」講義」(コンメンタールだな)も参照しつつ、研究してみたい。ちなみに、講義については大川隆法氏自らが語っている動画がアップされている(幸福実現党|新・日本国憲法試案)。

なお、このエントリーはかなり長文なので、結論だけ読みたい方は、ページの下の方を見ていただきたい。

2009年8月29日00:25| 記事内容分類:幸福実現党の研究| by 松永英明
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(1)新型インフル/(2)オバマ守護霊/(3)ノストラダムス/(4)憲法試案/(5)金正日守護霊/(6)主要政策/(7)活動年表/(8)得票数・率/(9)陰謀説/(10)ゆくえ

前文

われら日本国国民は、神仏の心を心とし、日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し、神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め、ここに新・日本国憲法を制定する。

講義ではこのように述べられている。

「神仏の心を心とし」とありますが、はっきり言えば、「宗教国家としての立国を目指す」ということを示しているのです。

 つまり、「宗教国家としての基盤を持つ国になりたい」ということを言っており、「マルクス・レーニン主義的な唯物論を国是として立つ国ではない」ということを、ここで明らかにしているわけです。

信教の自由については第二条で規定されるが、宗教の範囲内では信教の自由が述べられているものの、「無信仰」や「唯物論」は排除されるようである。「唯物論の国にはしない」とも講義で明言されている。

私自身は唯識思想が好きな人間であるが、一方で、「マルクス・レーニン主義的な唯物論」や日本共産党の「科学的社会主義」も一つの「信条」であると考えている。無神論、唯物論も認める(つまり、信仰しないことも受け入れる)のが「信仰の自由」であろうと考える。

一方で、「唯物論の国にはしない」というのだが、では「宗教立国」といったときに、どういう信仰に基づいた国になるのかが明確ではない。いや、むしろ「太陽の法にのっとって」なら明確なのだが、信教の自由はあるという。では、スンニ派でもシーア派でもカタリ派でもピューリタンでも英国国教会でも正教会でもカトリックでもモルモン教でもセブンスデー・アドベンチストでもサイエントロジーでも吉田神道でも度会神道でも山王一実神道でも密教立川流でも日蓮宗でも富士講でもブードゥー教でもいいのだかどうだかわからないが、こう挙げてみただけでもわかるとおり、「信仰心がある」というだけでは国の方針が何も立たないのである。偶像崇拝厳禁のタリバーン政権なら、日本中の仏像・神像が消滅するだろうし、それこそが正しい教えにのっとった正しい行いを政治としてやることなのである(タリバーンのバーミヤン仏像破壊は、他宗教や民主主義や文化財保護の観点からは暴虐だが、偶像崇拝を禁止するクルアーン(コーラン)に照らせば極めて正しい)。

その後の解説は、悪くないことを言っている。

「日本のみならず、地球すべての平和と発展・繁栄を目指す」ということで、国際社会における日本国民の責務について、前文で自覚させているのです。「一国平和主義、一国繁栄主義だけでは駄目だ」ということです。

 この部分だけ取り上げれば、まさにその通りだと思う――韓国・朝鮮・中国に対するあの幸福の科学の激しい敵対心を目の当たりにさえしていなければ。

その次がひどい。

さらに、「神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め」と書いてあります。

日本神道やキリスト教では「神の子」でしょうし、仏教では「仏の子」ということになりますが、いずれにせよ、人間は、そうした至高の存在から分かれてきた存在であり、「分け御魂」なのです。これが「人間の尊厳」の根拠です。

そもそも、日本神道でいう「神の子(子孫)」というのと、キリスト教でいう「神の子」はまったく違う。

キリスト教では限定的にはイエス・キリスト一人のみを神の子とし、神とその長子イエスの関係により、キリスト教徒も神の子と呼ばれる。一方、日本神道では、アマテラスの孫が天孫降臨して天皇家の祖先となり、また高天原の神々や国津神の子孫が今の日本人だという「神話からの系譜」を指しているわけであって、概念はまったく異なる。

そして、「仏の子」という概念は、本来の仏教には絶対にあり得ない。いや、ゴータマ・ブッダの子にラーフラという息子はいるが、仏教というのはそういう主従関係を説くものではない。わたしたちすべての中に、ブッダとしての本性(仏性)がそなわっており、そのブッダの本性と一体化すること、言い換えればわたしたちすべてがブッダに「なる」ことが目的である。「仏の子」ではなく「仏」なのだ。仏性、如来蔵といった言葉はそれを表わしている。ヴェーダの「梵我一如」も、宇宙の至高原理ブラフマンと我アートマンが同一だという悟りを意味している(わからない人は諸星大二郎『暗黒神話』『孔子暗黒伝』参照のこと)。

ついでなのでもう一つ補記しておくと、宗教の中には、この世界は汚れた偽りの世であるから、この世界での幸福になど意味がないと考えるものもある。浄土教の厭離穢土しかり、「♪I am GOD'S CHILD この腐敗した世界に堕とされた♪」とまさに「神の子」という言葉を使って歌った鬼束ちひろしかりである。

としてみると、再誕した仏陀であるエル・カンターレ大川隆法氏がキリスト教・日本神道・イスラム教を例に挙げた後(そして仏教について触れることなく)以下のように述べるのは、あまりにもおおざっぱすぎると言わざるを得ない。

 他の諸宗派もいろいろありますが、大まかに見て、基本的な部分、全宗教の共通項に当たるようなものは取り入れているつもりです。

 神の子、仏の子としての本質を持っていることが、人間の尊厳の根拠であり、ここから基本的人権が発生するのです。

そのような「神仏」と「人」を対置するような宗教というものが、宗教の一部でしかないことについての認識がないようである。「神の子、仏の子」という言葉遣いに、それがあらわれているといえる。ただし、生長の家や立正佼成会では「神の子、仏の子」という用語を使っているようである。

そして、続いて「カースト的な差別観のある社会でもなく」と述べているが、そもそもカースト自体がヒンドゥーのカルマの法則に基づいて生み出された制度であり、極めて宗教的な制度である。ヒンドゥーもすべての人に神性があることを信じているが、過去世のカルマによってカーストが固定されるのである。「すべての人が、尊い神仏の子としての本質を持っている」という平等性があったとしても、他の宗教的な教義によって、差別や区別は容易に生まれる。たとえば、「信仰心のある者とない者」といった区別や「唯物論者」への差別は、幸福実現党政権のもとでも容易に生まれるだろう。しかも、幸福の科学自体、霊界における「次元」という階層性を説いている。

この前文の理念がよい悪いではなく、前文の内容・表現自体に矛盾があると言わざるを得ない。

第一条

国民は、和を以って尊しとなし、争うことなきを旨とせよ。また、世界平和実現のため、積極的にその建設に努力せよ。

「平和、調和、寛容というものを基本的な精神にしなさい」というのは、宗教としてではなく社会道徳として見たときには、まあ妥当なことである(「寛容」は宗教的だが、「調和」は宗教というより対人関係をスムーズにさせるためというレベルの内容になる)。まあ、これはよいのだが、だったら「金正日を拉致する」とか、「鳩山民主党内閣になったら日本が攻め込まれます」とか言うのは矛盾していないだろうか。

第二条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

現行の憲法では、政教分離が宗教を圧迫しており、信教の自由が保障されていないと大川氏は説く。「宗教家であれば政治家になれないのはおかしい」と主張する。このあたりは政教分離という概念を基本的に理解していないと思われる。日本の政教分離とは、国教(特に明治維新で作り上げられた国家神道)が、それ以外の宗教の存在を許さないというような状態を防ぐことを意味しており、宗教家が政治家になることを禁じてはいない。

大川氏は、憲法第二十条について批判する。

第二項には、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」とありますが、このようなことをわざわざ憲法で定めることの背景には、宗派を統一した宗教や、ある程度の大きな規模の宗教が、存在できないようにする意図があるようにも見えます。

また、このような書き方をすれば、無神論・唯物論を助長する傾向が出てくるでしょう。

たとえば、「信じる自由もあるが、信じない自由もあるのだ。信教の自由のなかには、"信仰しない自由"だってあるのだ」と言って開き直る人もいます。

しかし、それは、あくまでも、「無神論」という宗教、「無宗教」という宗教を信じているにしかすぎないのです。このような、消極的な自由にしかすぎないものを、積極的な権利として制定すべきではないと私は思います。

むちゃくちゃだとしか思えない。論理が破綻している。

まず、他の宗教の行事などに参加することを強制されない、というのは、ある信仰を守るために必要なことである。たとえば仮に公明党政権になったときに幸福の科学の会員が国立戒壇建設に強制参加させられたり、崇教真光の手かざしを強制されたりすれば、大問題だと感じるだろう。イスラム教徒に豚肉を食わせたり、ヒンドゥー教徒に牛肉を食わせたりするならば、大反乱が起こっても仕方ない。

また、後半の無神論・唯物論についてだが、「無神論」という宗教、「無宗教」という宗教をした瞬間に、それらもまた宗教の一つなのである。となれば、それもまたマイナス方向の信仰であるが、やはり信教の自由として認めねばなるまい。

この部分からわかるのは、幸福実現党が政教分離について正しく理解していないこと、信教の自由について理解できていないこと、そして発言中において堂々と信教の自由を制限する思想があらわれていること、である。

すでに「無神論」「無宗教」という名の宗教については、権利を認めないと明言された。カースト制も否定された。この次に待っているのは、「この思想は宗教的ではない。したがって権利を認めなくてよい」「この宗教は宗教とは認めない」そして「太陽の法のみが宗教である」という流れである。

講義では、宗教は自由マーケットにして淘汰されていけばいいという考え方が示されている。正しい教えかどうかを市場原理に任せるというのが宗教的かどうか、それは読者の皆さまの判断にゆだねたい(「正しさ」は果たして多数決で決まるものであろうか?)。

第三条

行政は、国民投票による大統領制により執行される。大統領の選出法及び任期は、法律によってこれを定める。

議院内閣制を廃して、直接投票で行政の長を選ぶほうがよい、と幸福実現党は主張する。それによって、派閥のボスや金権政治家などを排することができるという。

ただ、国民の直接投票で行政の長を選ぶとなると、「タレントのような人が、総理大臣、あるいは大統領になるのではないか」というおそれも一部あるかとは思います。

しかし、国民はそれほど愚かではないと私は信じています。

実際、現在でも、都道府県知事等は、この第三条の大統領制と同じ仕組みで直接に選ばれていますが、それで特に支障があるとは思われません。

横山ノック大阪府知事、青島幸男東京都知事、石原慎太郎東京都知事、田中康夫長野県知事、東国原英夫(そのまんま東)宮崎県知事、橋下徹大阪府知事、そして幸福の科学が支援した森田健作千葉県知事などはどうなのだろうか。それで県政が「必ずしも悪くなっているわけではありません」というが、正直、ノック府知事などはどうだったのか(芸人としての横山ノックは大好きなのだが……)。「石原鎮守府将軍」と揶揄される東京都知事はどうなのか。それこそ、ポピュリズム政治家、カリスマ性があり、アピール能力に長けた人物が選ばれるだけのことではないだろうか。

おそらく、私は大川隆法氏よりも「大衆」の絶対性を信じていないのだろう。

国民は政治家について、「自分たちを害するか、害しないか」というようなことを、本能的に判断する能力を持っていると考えてよいのではないでしょうか。

そのような楽天的なことを述べていていいのだろうか。衆議院選挙という場面で、国民が幸福実現党の議員を選ばなかったとき、彼らは「国民が、自分たちを害する候補」と認識されたという現実を受け入れられるのだろうか。

第四条

大統領は国家の元首であり、国家防衛の最高責任者でもある。大統領は大臣を任免できる。

ここで大川氏は天皇制を否定し、国民から選ばれた元首である大統領をよしとしている。この点についてはここでは深く触れないこととする。

もっとも、日本の歴史においては、少なくとも天武持統帝以降、天皇親政の一時期は別として、ほとんどすべての期間において「象徴天皇制」が貫かれてきたことは指摘しなければならない。摂関政治も院政も鎌倉幕府も室町幕府も関白秀吉も江戸幕府も明治薩長藩閥政府も昭和軍閥政府も、すべて天皇はお飾りだった。そしてもちろん、戦後の現在もそうである。例外は後醍醐天皇などごく少数であった(鎌倉幕府や室町幕府では、さらに将軍さえもお飾りとなって執権や管領などが実権を握るという、二重の象徴制であったといえる)。

その象徴天皇制が民主主義に反するという指摘は、論理的には矛盾しないと思われるが、幸福実現党と政見の近いエスノセントリズム・ネオリベラリズム(国粋右翼)の反発を買いかねない主張であろう。

第五条

国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍・海軍・空軍よりなる防衛軍を組織する。また、国内の治安は警察がこれにあたる。

テレビの政見放送で見たのだが、大川隆法氏は「小さな政府」による「夜警国家」でなければならないと説いていた。福祉や経済は民間に任せ、政府は国防・警察を中心とし、それらを強化するというのである(この条文講義でも最後に述べられている)。私は「大きな政府」を好み、夜警国家というのは監視管理統制国家につながるので好きではない。

さて、軍事について。私自身は非武装中立というのは現実的ではないと考えているが、この第五条は危険だと思う。それは、「防衛軍を組織する」という部分ではない。「国民の生命・安全・財産を護るため」という部分である。これはすべての戦争の口実となりうるのである。

幸福実現党は、日本に北朝鮮の核ミサイルが打ち込まれることが判明したら、基地を先制攻撃できるようにする、と主張している。ミサイルへの防衛は必要としても、先制攻撃を可能とするならば、「護るため」の定義・範囲・方法を厳密に規定しておかなければならない。でなければ、満州事変のように、あるいは「大量殺戮兵器を有している」と報告されて始まったが、あとからいくら探してもその証拠が見つからなかったイラク戦争のように、きっかけが偽造される可能性がある。この点をいかに防ぐかについて言及がなければ、これは机上の空論とならざるを得ない。

第六条

大統領令以外の法律は、国民によって選ばれた国会議員によって構成される国会が制定する。国会の定員及び任期、構成は、法律に委ねられる。

第七条

大統領令と国会による法律が矛盾した場合は、最高裁長官がこれを仲介する。二週間以内に結論が出ない場合は、大統領令が優先する。

大統領の権限が大きすぎないだろうか。大統領独裁とも受け取れる。

大統領も最高裁長官も投票で選ばれるから民意が反映されている、というのだが……。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は合法的に選挙で議席を占め、アドルフ・ヒトラー総統は「民意によって」総統となったのである。

そして、民意が反映されるのは、厳密には「選挙の投票の瞬間のみ」であることが忘れ去られているように思われる。

第八条

裁判所は三審制により成立するが、最高裁長官は、法律の専門知識を有する者の中から、徳望のある者を国民が選出する。

「徳望」の定義とは何ぞや。大岡越前守忠相や遠山金四郎景元のようにはいかないのが現実である。

第九条

公務員は能力に応じて登用し、実績に応じてその報酬を定める。公務員は、国家を支える使命を有し、国民への奉仕をその旨とする。

この条文自体には、特に異論はない。

第十条

国民には機会の平等と、法律に反しない範囲でのあらゆる自由を保障する。

「結果の平等」は「貧しさの平等」にしかならないから、できるだけ「機会の平等」「チャンスの平等」を憲法において保証し、認めることが大事だ――と大川氏は説く。

しかし、これは「結果の平等」の誤解が大きいのではないだろうか。原理的な共産主義では「結果の平等」であるが、それがモチベーションを削ぐ(さぼっても別に変わらないから)というのも確かにそうだと思う。だが、「機会の平等」だけでは、失敗した者、敗れた者、あるいは「機会の平等にあずかれない者」(障碍者など)の救済策は絶対に必要である。

幸福実現党もそうだが、「小さな政府・新自由主義」を主張する人たちは、「貧乏人は怠けていたからだ」と考えがちである。あるいは「能力がないから仕方がない」と切り捨てがちである。弱者救済ではなく、強者支援。それが幸福実現党の思想だと考えられる。

なお、「法律は少ないほうがよい」という見解については、たしかにそのような要素はある。ただし、「法律に反しない範囲でのあらゆる自由を保障する」ということが、そんなに単純にいくのかという疑問は呈さざるをえない。たとえば「公共の福祉」と「個人の居住の自由」がぶつかったとき、どちらをどの程度優先するのかというのは、これまでも大きな問題となってきたことである。

自由はぶつかり合う。そのときにどのように調整するか。多数の法律や条例、通達などはそのために生まれたものでもある。

第十一条

国家は常に、小さな政府、安い税金を目指し、国民の政治参加の自由を保障しなくてはならない。

「小さな政府」が「政府には、すぐに肥大化していく傾向があります」と捉えられている。しかし、一般的には「政府が経済にタッチしない(あるいはできるだけ関わらない)」のが「小さな政府」の本義である。

つまり、国営企業はできるだけ民営化し、経済には自由放任で、政治が介入しない。教育・福祉・医療などもその例外ではない――というのが「小さな政府」である。その究極が、軍事と治安だけを担当する夜警国家ということになる。これは新自由主義者(ネオリベ)の好む思想でもある。

逆に、「大きな政府」は、市場経済に政府が関与する度合いが大きな政府である。所得の再分配による平等化、公共投資による経済の活性化などが挙げられる。

このような、経済と政府の関わりについての用語である「小さな政府」を「役人の数」などと結びつける幸福実現党の「憲法」とその講義を読む限り、まず政治の勉強から始めたほうがよいのではないかと思える。

「結局、日本の"税率"は高いのです。」と講義では述べられているが、「高福祉・高負担」「中福祉・中負担」「低福祉・低負担」という言葉があるように、税率は福祉と大きな関係がある。「「それほど税金が要る」ということは、間違いなく、政府が非効率な経営を行っているのです。」というが、ことはそう単純でもないのだ。

第十二条

マスコミはその権力を濫用してはならず、常に良心と国民に対して、責任を負う。

講義では、マスコミは現実には「第一権力」になってきている、という。

しかし、マスコミについて「憲法」でこのように規定すべきだろうか? もちろん、私もマスコミやジャーナリズムを錦の御旗に振りかざす者によって被害を受けた人間ではあるが、だからといって、表現・言論・出版の自由を明記せずに逆に「マスコミはその権力を濫用してはならず」という文章を持ってくるのがよいとは思えない。

マスコミが力(「権力」とは考えない)を濫用してはならないのは当然のことである。しかし、マスコミの力をそれほどまでに過信しているのも、もはや時代錯誤であろう。紙媒体(新聞・雑誌)は軒並み部数を落としており、存亡の危機にある。テレビの影響力は依然大きいが、インターネットの登場とともにやがてそれも姿を変えるだろう。

幸福の科学フライデー抗議事件の余韻がまだ残っているのか。マスメディアをひとくくりにして「マスゴミ」と批判する人たちが一部にいるが、幸福実現党はその人たちと共通の考えを持っているようである。

第十三条

地方自治は尊重するが、国家への責務を忘れてはならない。

講義では、阪神大震災のときに各自治体が(左翼的な)反対をしたために効果的な救援ができなかった、という例が挙げられ、特に災害などの有事の際には中央集権的な強制力が必要だと説いている。

地方への権限委譲というものを、非常に限定された例でのみ否定していることは、いかがなものであろうか。

第十四条

天皇制その他の文化的伝統は尊重する。しかし、その権能、及び内容は、行政、立法、司法の三権の独立をそこなわない範囲で、法律でこれを定める。

天皇制を残すとは言っているのだが、その理由がおそらく民族派からは受け入れがたいものであるように思われる。

ただ、天皇制は、残しておけば、おそらく、万一のときに何らかのかたちで役に立つことが、おそらくあるでしょう。

為政者が混乱し、まったく機能しなくなったときには、明治維新のときのように、また役に立つこともあるかもしれません。

それは歴史的には数百年単位で起きていることなので、何かのときの求心力として、天皇制を残しておいたほうがよいと思います。

さらに、天皇制を残しておくと、海外には、「日本は二千六百年の歴史がある国である」とPRすることができます。

二百数十年の歴史しかないアメリカや、千年の歴史を誇ると言っているイギリスなどに負けない、「文化の重みを持った国」として発言することができるのです。二千六百年の歴史は、やはり文化としての重みになるので、この意味でも、天皇制はあってよいと思います。

非常に功利的で、およそ宗教家らしくない発言だと思う。

また、「国の歴史」を「誇り」とするのは、自分自身に自信のないものが行なう逃避行動である。

しかも、「二千六百年」という、考古学的に裏付けのない「神話」を振りかざしている。その長さで英米に負けないというのであれば、日本は4000〜5000年の歴史を持つエジプトやメソポタミア(イラク)やインド(インダス文明ならパキスタン)や中国にまったく太刀打ちできないということにもなる。

第十五条

本憲法により、旧憲法を廃止する。本憲法は大統領の同意のもと、国会の総議員の過半数以上の提案を経て、国民投票で改正される。

硬性憲法・軟性憲法についてはいろいろと良否があるので、ここでは「幸福実現党は軟性憲法を是とする」ということを押さえておくだけにしたい。

第十六条

本憲法に規定なきことは、大統領令もしくは、国会による法律により定められる。

大統領制は任期5年の二期程度の長期政策が必要だというのが大川隆法氏の主張である。

まとめ

ここまで全文と講義を読んでみて、指摘しておきたい点は以下のとおりである。

  • 大川隆法氏は、他の宗教、特に仏教についてよく知らない。
  • 大川隆法氏は、「政教分離」について誤解している。
  • 大川隆法氏は、信仰・思想・信条・良心・表現・言論・出版の自由を制約する。
  • 大川隆法氏は、「機会の平等」と「結果の平等」について誤解している。
  • 大川隆法氏は、「小さい政府」について誤解している。
  • 幸福実現党は、小さい政府・夜警国家を目指す新自由主義政党である。
  • 幸福実現党は、中央集権的な大統領制を提唱している。
  • 幸福実現党は、天皇制を文化的形式にとどめることを提唱している。
  • 幸福実現党は、軟性憲法を主張する。

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2009年8月29日00:25| 記事内容分類:幸福実現党の研究| by 松永英明
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コメント(2)

否定・否定・否定・・・・

そこにあるエネルギーは何ですか?

なんか屈折した感情が湧き出るのですか?

私なんか、なるほど・・・新しく起草すると、こういうスタイルもあるんだ
なんて思います。
普段から憲法なんて気にしていませんから、良い悪いと言うより、好き嫌いからの感想しかないですね。

あなたの執着に興味があって、この記事を読みましたが、『気に入らない』ことに説明をわざわざつけるのは、相当エネルギーが要りますよね。

ところであなたは、憲法に対して独自の考えがあっての批評・非難・否定なら、あなたの考えを開示する方が、発展的ではないかと思う次第です。ハイ。

このブログ記事について

このページは、松永英明が2009年8月29日 00:25に書いたブログ記事です。
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