「英語公用語ではなく多言語化」はなぜ激しい反発を受けたか――「英語《だけ》ではだめ」再論

前回の文章「「英語を公用語化」する企業はグローバルを履き違えている。必要なのは多言語化[絵文録ことのは]2010/06/30」は、livedoor BLOGOSにも転載され、多数の反発を受けた。感情的な反発や誤解・誤読も非常に多く見られたが、「事実上の世界標準語である英語ができなければ世界のビジネスで生き残ることはできない」「英語が最も効率的・現実的」という考え方が世の中ではむしろ主流なのだろう。

しかし、わたしはそれでもやはり「英語」一辺倒の考え方にはまったく馴染めない。「英語至上主義」の声があまりにも多いことから逆に、勢い余ってエスペラントの学習を始めることを決意してしまったくらいだ。

「英語」一辺倒にはどのような危険性があるのか。それを述べておきたい。その前に必ず前回の記事を最後まで読んでおいていただきたい。

2010年7月 5日13:20| 記事内容分類:言葉| by 松永英明
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わたしは「英語の排除」などまったく述べていない

誤読として多かったのが、わたしが「英語を排除」しようとしている、という誤った認識だ。極端な例としては、わたしの「英語だけではなく多言語化」を、どういうわけか戦時中の「敵性語排除・日本語の共通語化運動」と同一視するような意見まであった。全然違う。

わたしは英語を排除する気はまったくない。それは前回も楽天6000人の振り分けとして、半分の3000人という絶対的多数を英語担当としていることからも理解されよう。わたしは「英語」を絶対視しないが、英語も「多言語」の一つであるという意味では尊重する。(絶対性を否定しただけでなぜ全否定したかのように思われるのだろう、と疑問を呈したら、絶対性なるがゆえに崇拝している人たちは、絶対性を否定されることを全否定されたも同然と考えるから、という回答がツイッターで返ってきた。なるほど)。

わたし自身、英語からの翻訳書を出したり、eBayでやりとりしたりしている。「英語不要」論など一度も述べたことはない。改めて言い直すと、「英語《だけ》では、見えなくなるものがある」というのがわたしの意見である。

「英語公用語ではなく多言語化」への反対意見を分類する

今回わたしが見た限りでの、上記記事への反応をまとめるとこのようになる。原文ママではないが、BLOGOSのコメント欄等には実例が多々あるので、シャドウボクシングではないことを言い添えておく。

  1. 賛同。英語だけ覚えればよいという発想ではうまくいかない。他の言語も覚えること(場合によっては英語抜きで別言語を覚えること)は有効だ。
  2. 英語を土台とした上で多言語に進むことが理想。英語はその第一歩。
  3. 多言語話者が集まったときに、英語を使うのが実際的。
  4. ビジネスの世界では英語が事実上の世界標準語だから、世界市場においては英語が必要条件。英語以外は非効率。
  5. 英語だけでも大変なのに他の言語なんか学んでいられるか。
  6. お前のようなビジネスや国際環境からほど遠い奴だけがこういうことを言うんだ。起業して楽天並みの会社に育ててから言えるもんなら言ってみろ。

1についてはわたしがこれ以上言葉を重ねる必要はないだろう。また、6のような意見は検討に値しない。

2の意見なら、最終目標が多言語である。こういう人なら、たとえば英語をやりつつ、基礎的ではあっても多言語に触れるくらいの柔軟さは持ち合わせているだろう。また、学習上も複数言語を同時に学ぶことによって、共通点と相違点がわかりやすくなり、結果的に習得が早まるという利点もある(これは6への反論となる)。

ただし、何がなんでも英語、となると、英語至上主義の弊害が現われる。たとえば、「中国語も英語と語順が同じなのだから、まずは英語を覚えるべきだ」というコメントを見かけたが、これは誤りだ。そもそも、中国語は英語と「SVO」という基礎的な語順しか文法が一致していない。中国語の入門文法を少しでもやったことがあれば、英語をやっておけば中国語もわかる、というのはあまりにも乱暴な見方だとわかるだろう。そもそも、そういう多様性に気付くことができなくなる、というのが、英語一辺倒の弊害なのである。

3については、確かにそういう事例は挙げられるだろう。わたし自身、ロシア人と話をするのにお互いがブロークン英語を使って意思疎通したことがあった。お互いがブロークンだったので逆に言語コミュニケーション以外の部分でよく通じたようにも思われる。ただ、こういう環境であっても、お互いがお互いの母語に興味を持ち合うことによって、必ずやコミュニケーションは(感情的な部分も含めて)うまくいくようになるはずだ。「オランダ語でこの商品は何と呼ばれているの?」「アフリカーンス語に刺身を表わす言葉はあるの?」「日本語ではそれを『出る杭は打たれる』というよ」などのやりとり(すなわち多文化尊重に基づく興味)を持つことが必要だと思う。

ただ、英語以外の言葉が多少なりともわかるとすれば、それは大きなアドバンテージになると思うのだが、それはいかがだろうか。

4の反論が(前回のタイトル的にも)最も重要な部分で、楽天・ユニクロもこの「英語ができないとグローバル化に乗り遅れる、世界市場に入っていけない」という焦燥感を土台に持っているように思われる。これについて、後半でわたしの考え方を述べる。

英語至上主義の問題点

さて、こういう英語一辺倒思想がごく当たり前のものとして受け入れられ、英語だけじゃだめというと激しい反発を受ける状況に、わたしはどうも納得できないものを感じていた。そして、書店をブラブラしているときにエスペラントのテキストを見つけ、とりあえず1冊購入した。4時間で覚える地球語エスペラント CD付である。

そして、この本を読んで、エスペラントの理念に非常に共感できることに驚いた。

国際共通語としては英語があればそれで十分だと考える人も多いでしょう。しかし、本当にそれで満足できるかというと、それでは困るという人も多いのです。主な理由は三つあります。第1は、世界中の全員が英語を知っているわけではないということです。……英語が通じない国が多いのは事実です。日本にいると、世界中どこでも英語が通用するような錯覚を抱いてしまいますが、フランス、スペイン、東欧などへ行けば英語が通じないことはめずらしくありません。今、世界の人口は57億人と言われています。英語人口は7億5000万人ですから、その他の49億5000万人は苦心して英語を学ばなければなりません。第2は、それが英語を母語とする人以外には不利になることです。もし英語を国際語に決めたら、英国圏の人と論争したり、商売したり、裁判の弁護をしたりするときに、ずっと不利になると思いませんか。第3は、英語を学ぶのは言語としても結構むつかしいということです。自由自在に英語を話せる日本人が一体どれだけいるでしょうか。

……現段階で国際的に通用する言語とは、もっとも強大な国の言語であり、その実情は言語帝国主義による文化的侵略だと考えてもよいでしょう。英語という言語の中に支配、抑圧、差別を見抜いて、言語的侵略を直視し、その便利さと文化性にごまかされないことが大事です。

ザメンホフの「人類人主義(homaranismo)」には大いに共感する。「どこの出身かと尋ねられれば、生まれた国を答えるが、何人(なにじん)かと尋ねられれば、人類人であると答える」という考え方である。わたしの思想は人類人主義と非常に共通しているようにも思われる。ただ、ここでは深く立ち入らないことにする。重要なのは、個々個別の価値すべてを尊重し、敬意を払うという考え方である。

エスペラントは、世界にあまたある多数の言語の多様性を保つために、中立的な言語として考案された。それは、英語よりもはるかに合理的な言語である。上記の本の「4時間で覚える」というのは、基本文法と基本単語が4時間で理解できるということであるが、4日間でも一週間でもなく、4時間で押さえられる。それでいて、豊かな文学作品や厳密な法律文書も素晴らしい形で表現できる、優れた言語だと感じた。

さて、この思想を土台に考えれば、英語という単独の価値を世界中に押しつけることは一種の暴力でもある。そして、それによって見えなくなるものが生まれてくる。もちろん、多言語を将来に見据えた人が暫定的に英語を踏み台に使うのは、実用上もアリだと思う。しかし、英語だけでよい、英語ができなければ国際的ビジネスマン失格、というのは、世界の一部分しか見ない弊害を生むと思う。

英語一辺倒では世界の一部しか見ていない

世界のどこの国のビジネスマンも、英語が話せて当然、という主張がある。ニーズに合わせれば、確かに英語は重要かもしれない。しかしである。そういう「英語が話せる人」というのは、英語ネイティブを除けば、国際的なビジネスの世界のみに目を向けた場合の話であるということを忘れてはならない。

インドには現時点で800の言語があるという。だからインド全体での公用語がヒンディー語(州ごとに他の公用語がある)、準公用語が英語となっている。そして、エリート層は英語を使うだろう(実際にはインド式英語であるが)。これを指して「インドでビジネスをするときには英語があればよい」と主張する人もいる。しかし、それは誤りだと思う。

インドで英語を話すのは、国際的なビジネスに関わる人、あるいはエリート層なのである。一般大衆はそうではない。逆に、もともと英語は公用語の地位から下ろされる予定であったが、ヒンディー語を解さない地域があるので英語がいまだ準公用語として残っている、というような実態もあるほどである。

英語一辺倒でよい、という人たちは、世界には英語を話さない非エリート層がいるということに目を向けていない。あるいは、そういう人たちを相手にしていない。エリート上流階級同士の共通語が事実上、英語になっているとしても、それは英米文化スタンダードという(巨大ではあるが)限定された世界に参入するだけの話であって、本当に世界全体の隅々に目を配り、気を配っているとは到底言えないのである。

わたしはこのような状況を考えていた。たとえば中国に進出した楽天は「楽酷天」と表記している。これはルークーティエンみたいな感じで発音されるし、酷はcoolのネット的訳語として定着しているので、よいネーミングだと思う。これは、中国語の素養がなければできないネーミングだ。英語しか知らず、中国語のピンインを英語風にしか発音できないような人たちばかりでは、こんな発想は浮かばなかっただろう(たとえばyanjingはヤンジンじゃなくイェンチンに近い)。

ネーミングだけではない。サービスそのものは中国語で提供され、顧客は基本的に中国語しか話せない。彼らがほしがるもの、彼らの求めるサービス、売り上げに繋がる微妙な表現やニュアンス、あるいは彼らへの至上の接客を、「英語だけ話せればいい、他は不要だし非効率的」と考える人たちが本当に提供できるであろうか。

わたしはそこが気になってしょうがないのである。顧客の立場になって考えるのが商売やサービスの基本ではないのか。もちろん、英語を話して国際化対応していますという企業人だけを相手にしていても儲かるだろうし、それで世界展開はできるだろう。でも、それでいいのか。進出先の文化を、言語も含めて、少しでも理解したい、という考え方はないのだろうか。英語ができなければ英米スタンダードによるグローバル化に取り残される、という焦りだけでよいのだろうか。

わたしにはそうは思えない。だから「とりあえず英語」ではなく「英語だけが必須、他は余計」という人たちが本当に「国際的」なのか、という疑問がある。

顧客だけではない。国際化(この場合、英語化)に対応しようというような考えのないローカルな企業や職人を発掘し、そこにネットワークを広げる上で、「英語しかやる気がない」は致命的な欠陥となる。

女子十二楽坊のデビューアルバムに付属していた自己紹介DVD映像で、一人のメンバーが英語で自己紹介していた。それは、グローバルで素晴らしいと称賛されるより前に、なんで英語なの?日本で英語が通じるとでも勘違いしているの?と疑問に思われていたものだ。中国語よりは理解されるだろうという考えのもとに英語で話したのだろうが、一般顧客に対しては勘違いした人のように見えたのも事実である。そういう違和感を抱かせるのが「英語ならどこでも通じる」と信じて疑わない思想なのである。

楽天が非日本人企業になる日

英語でビジネスができることが至上命令となる企業においては、内田樹氏の言うように「英語ができるだけの人材が、英語力は劣るが才能のある人よりも上位に来る」という危険性がある。

その結果、英語をネイティブで話す人たちが優先的に採用されることになるだろう。なぜなら、英語力が同程度の能力であっても、英語力が最優先課題となりかねないからである。それは、楽天という企業で日本人がほとんど採用されなくなるということでもある。

わたし自身はナショナリストでも何でもないので、日本人であるかどうかなどどうでもよいと思っている。しかし、楽天・ユニクロ方式では、英語帝国主義という名の別の意味でのローカライゼーションにより、非英語話者がそこから閉め出される、排除されることになる。ここに大きな問題がある。そして、英語を話せる企業との取引にしか目が向かなくなっていく。

わたしは、真のグローバル化とは、多様性を逆に促す方向性になければならないと考えている。究極的には国家や言語などのグルーピングさえも崩壊し、60億人が60億のバリエーションを保ちながら、相互理解のできる状況である。そこまでの道のりは遠いが、しかし、英語という疑似グローバルへの安易な「統合・統一」は、真のグローバル化ではない。

グローバル企業だけでは面白くない

世界のどこに行ってもマクドナルドやケンタッキーやスターバックスがある。北京や上海でも、麦当劳や肯德基や星巴克といった表記で同様の店がある。そういう店舗を見て面白いとも思うのだが、王府井や南京路がそういった店ばかりで埋め尽くされたら面白くないだろう。台北では7-11とファミリーマート(「全家」)があちこちにあるので便利なのだが、そういう店だけでよいとは思わない。

日本の商店街でも同じで、どこに行ってもコンビニなどの全国チェーン系の店ばかりならどうしようもない。「ファスト風土化」と揶揄されるように、郊外のバイパス沿いの新しい商店地域が、マクドナルドとTSUTAYAとジャスコばかりという画一化された風景になるのもつまらない。

わたしはそういうグローバル的な店の存在自体を否定はしない。コンビニが見あたらない地域は、それはそれで不便である。だが、それ「だけ」になることはその場所を殺すことになると思う。

そして、グローバルではない店舗というのは、「世界に進出してシェアを広げないと将来的にやばい」などとは考えてもいない。英語ができなければ世界に取り残されるとも考えていない。仮に、地元への出荷だけで十分満足している酒蔵があったとして、彼らにいきなり英語しか話せない外国企業が接近してきたとしても、いくら儲かるとか言われたってなんだよあの毛唐、というようなことにしかならない。だが、もしそこで自分がいかにこのお酒に惚れたか、それを世界に紹介したい、という気持ちを、たどたどしい日本語混じりで訴えられたら、逆に心が動くこともあるだろう。

もし英語をネイティブとする人たちだけを「世界」として目指すのであれば、それはそれでいいだろう。わたしも「1億人」という日本市場が成り立ってもいいと思っているので、逆にいえば「英語市場」の方がそれよりも市場規模も大きいし、それはそれでありだと思う。しかし、それならば「うちのメインターゲットは英語圏なんです」というべきであって、「世界で通用するには」云々といった言葉を使うべきではない。

eBayがあれば日本のヤフオクや中国の淘宝網は不要ということにはならない。英語もそれと同じことである。

最後に雑記

最後に、いくつか雑記としてまとまりのないことを書く。

前回、わたしが学んだという言葉の中には、現在は使われていない言葉がいくつもあったのだが、その点を突っ込む声はなかった。おそらく「英語《だけ》ではだめ」と英語の絶対性・万能性を否定したところに反発が来たので、そんな些細なところには目も行かなかったのだろう。

さて、その言葉の中にシュメール語を挙げていた。古代メソポタミアで使われていた粘土板の楔形文字を使う言語だ。そんなもの学んでも何の役にも立たない、実用的には。だが、シュメール語は日本語と同じく、表意文字と表音文字を同時に使っている。その解明には、日本人が大きく貢献した。また、シュメール語の研究が最も進んでいるのはドイツなので、シュメール語辞典を読むにはドイツ語が必須となる。

マイナー言語を学ぼうとすると、たとえばスラブ系の言語ならロシア語での解説書しかないというような場合も存在する。たとえ仮に事実上の世界共通語が英語だとしても、途中にドイツ語やフランス語やロシア語やスペイン語が挟まることは多い。そして、学べば学ぶほど、英語がいかに特殊で複雑(不規則すぎる)かが理解できるようになってくる。

わたしはエスペラントが作られた経緯については大いに共感するが、みんながエスペラントを話すべきだとか覚えるべきだとか、楽天の社内公用語はエスペラントにすべきだとか、そんなことを主張する気はない(そういう会社が一つくらいあっても面白いとは思うのだが)。エスペラントは多様性尊重のための一つのツールだと思っている。なので、あまたある言語の一つとして、エスペラントを習得することを決意した。同時に、これは趣味的にだが、ハワイ語入門も買ってきた。ハワイ語こそ「英語でいいじゃないか」と言われそうな言葉の筆頭ともいえる。だからこそ、学んでみたいのである。

それは5の意見「英語だけでも大変なのに他のをやってられるか」という(ほとんどが感情的な)意見に対して、身をもって反論しようということでもある。「6年~10年もやってきた言葉なのだから英語を深めれば」という意見もあるが、そんなに長い間やって身に付いていない言葉なら、別のもっと性にあった言葉を学べばいいと思う。英語は決して、最初に学ぶのに適した言葉でもないし、英語を学べば他の言語にも応用できるといった事実もない。むしろラテン語とドイツ語とフランス語を押さえた方が、他の印欧語系の言語を習得しやすいと思う。

わたしは、ラフカディオ・ハーンや、マーティ・フリードマンや、スコット・マーフィーが好きだ。彼らのやっていることは英語帝国主義グローバリゼーションに反することであるともいえる。だから共感する。わたしはナショナリストではない。エスノセントリズムにも与することはない。だから、世界中あちこちのいろんな言葉を覚え、いろんな人たちの考え方に少しでも近づいてみたいと思う。

どこまでできるかなんてわからない。ただ、そういう気持ちは常に持っていたいと思うのである。かつて英国領だった香港では英語も当然通じる。それでもなお、香港に行くことがあるのなら、広東語を一つでも二つでも覚えていきたいと思うのだ。

今若者はみんなAmerica それも西海岸に
憧れていると雑誌のグラビアが笑う
そういえば友達はみんなAmerica人になってゆく
――さだまさし『前夜(桃花鳥)』

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2010年7月 5日13:20| 記事内容分類:言葉| by 松永英明
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英語公用化の企業に対する意見を延べた方が、批判に対して 反論されています。 http://www.kotono8.com/2010/07/05notonl... 続きを読む

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ユニクロと楽天ですが、日本語帝国主義を英語に置き換えただけでは?多様な「第二言語」は出自の多元化により保証されると思います。
日本語の国際語化は私も望むところですが、暴力の裏打ちなしでは現時点では非常に難しいと思います。だからこそ、この点についてはより野心的に考える必要(人に道化と指さされても)があるのかもしれませんね。

記事を拝読し、なるほど、と思うことがいろいろありました。
私はエスペラントを話す者ですが、「あまたある言語の一つとして、エスペラントを習得」というくだりに共感します。
私の場合は、英語が国際共通語として様々なところであまりに当たり前に扱われているのに感情的に反発し、エスペラントを学びました。勉強して8年ほどですが、この言語を通して様々な知り合いもできる中で、言語そのものへの愛着が育ち、現在の英語をとりまく状況への反発もあいまって、ついつい「エスペラントを国際共通語に」と心情的に傾くこともあります。ただ、エスペラントは文法は整理されているとはいえ、語彙等がヨーロッパの幾つかの言語に偏っていますし、これを国際共通語とすれば、必ず抑圧的に感じる人がでてくるでしょうから、本気で「国際共通語に」とは考えません。
エスペラントの創始者、L.L.ザメンホフの著作を全て読んだわけではありませんが、エスペラントはまさに国際共通語として全世界で使われるために作られたのでしょうし、エスペラントを広める運動家たちは、かつてはそのために動いていたと思います。今もそう考える人もいるかも知れませんが、私の周りの人々をみると、そんなことより、エスペラントを使うことで世界の様々な人と知り合ったり遊んだりすることを目的にしている人が多いようです。そうした人々の集団が使う言葉として、多言語の中の一つにエスペラントが位置づけられるといいな、と、私は思っています。

こんにちは。私の意見を記します。ご一読下さい。

「英語だけではダメ」という部分に異論をはさむ気はまったくないのですが、どうにもこの一連のエントリーに違和感を感じたので、私なりに考えてみたのです。

違和感の原因は、楽天(三木谷氏)やユニクロ(柳井氏)が推し進めようとしている「社内公用語の英語化」と、松永さんの言われる「英語公用語ではなく多言語化」は、議論の土台となる土俵が異なっているのではないかと感じられるのです。

松永さんの言われる「英語公用語ではなく多言語化」は、世界中を相手に活躍したい(仕事だけに非ず)と考えている個人の在り方としてなら、全く以てその通りだと思います。

対して三木谷氏や柳井氏は、経営者として、全世界展開を図れ尚且つコスト削減のために最も手っ取り早い方向性を社内に示した、ということではないかと。

松永さんはインド(や中国)でのビジネス展開の例を出されていました。が、実際のビジネスの場合、

◆楽天のようなビジネス=楽天と小規模法人との店子契約=なら、
(1)日本語しかできない社員が、日本語の出来るインド人を雇って店子候補と交渉し、最終的にインド人弁護士を雇って契約にこぎ着ける
(2)英語の出来る社員が、英語の出来るインド人弁護士を雇って店子候補と交渉し、契約にこぎ着ける
(3)適正のある社員にヒンディー語を勉強させ、ヒンディー語で店子候補と交渉し、契約にこぎ着ける。適正ある社員は、ヒンディー語で契約を交わせる程度まで勉強しなくてはならない。(契約書のひな形を作るのはインド人弁護士に任せればよい)

◆ユニクロのようなビジネス=大規模製造小売業=なら、店員は間違いなくインド人を採用する(日本国内のH&MやギャップやFOREVER21やイケアの店員は日本人ですよね)ので、
(1)日本語しかできない社員が、日本語の出来るインド人マネージャーを雇って店舗運営する
(2)英語の出来る社員が、英語の出来るインド人マネージャーを雇って店舗運営する
(3)適正のある社員にヒンディー語を勉強させ、ヒンディー語で店員を直接指導する。適正ある社員は、店員に対しヒンディー語で怒ったり宥めたりやる気を出させたり悩み事の相談に乗ってあげたり出来る程度まで勉強しなくてはならない。

(3)が実現できればコスト的には最も安くなりますが、育てた人材が流出したら一からやり直しになるので、リスクを含めて考えると、どっちの場合でも(2)のケースがコスト的には最も安くなります。

つまり、三木谷氏や柳井氏は、「これからも増収増益を続けるためには海外進出しかない。海外進出するにあたり、(上記のような理由で)進出コストを下げなければならない。下げるためには君たちが英語を使えるようになればいいのだ。やれ」と社員に号令をかけただけ。

だから松永さんのエントリーには違和感が発生している。
私はそんな気がします。

社内英語可に伴う弊害として、英語が出来る奴が社内を我がもの顔で闊歩するという憂慮も、中長期(5年以上)で考えると、仕事ができない奴はいずれ淘汰されます。

も一つ社内英語可の長所を挙げるとすると、新卒採用にせよ中途採用にせよ、おバカな応募者が応募して来なくなるという事もメリットです。日本語しかできないバカな奴と、英語がぺらぺらなバカな奴、の数を比べると、日本国内で人材募集する限り後者の方が圧倒的に少ないでしょう(根拠となるデータはありませんけど)。これにより、日本国内の採用担当部門の人数を従来より少なくすることが出来ます。

ただ、楽天(三木谷氏)やユニクロ(柳井氏)が推し進めようとしている「社内公用語の英語化」は、英語が苦手もしくは今さら勉強などしたくないと思っているけど仕事の出来る社員、の流出を避けることが出来ないのは間違いありません。

三木谷氏や柳井氏は、これらのメリットデメリットくらいは承知の上で、「社内公用語の英語化」を言っているような気もします。過大評価かも知れませんが。

最後に、松永さんの言われる「英語公用語ではなく多言語化」は、どこまで喋れるように(読み書きできるように)なることを想定しているのでしょうか?

というのも、楽天タイプのビジネスを行うには、契約書を取り交わすことが必須になりますが、契約に使われる用語というのはどこの国でも難しいものです。私は仕事で13年ほど法務を担当していました。私のTOEICスコアは350。でも契約英語だけは妙に強かったりします。13年もやっていたんだから当たり前です。そんな私の職場にTOEICスコア900の若者が入ってきましたが、その若者も、契約英語に関しては私が細かに説明しないと理解できないのです(実際は契約英語を説明すると言うより、その英語が意味する契約内容の詳細を日本語で事細かに説明するだけでしたが。例:Cross-Cllateralization)。要するに、インドネシア語であろうと広東語であろうとドイツ語であろうとスペイン語であろうと、それらをネイティブと同じくらい喋れた&読み書きできたとしても、必ずしもビジネスが出来るとは限らないのです。

考えながら文章を書いたので、あまりまとまっていない意見になってしまいました。喧嘩を売っているわけではないので誤解されたくなく、今後とも宜しくどうぞ。

疑問に思った部分があります、逆に多言語であることの危険性はご存じ無いのでしょうか?
映画のバベルはそのことを如実に表している部分があるので、お暇な時にご覧下さい。

また、多言語な事によって金銭的部分で苦労する事もあります。
金儲けの道具として見られるという暗い部分もあるのです。
多言語を良しとして盲信するのは、危険な一面がある事を学んでいただければ幸いです。

僕もアメリカに住んでいて、ずーっとこの10年間、英語を主要言語として生活しております。サイエンスの世界にいるので、当然、すべての論文は英語で書かなければいけません。半ばそれも仕方ないと諦めております。

ただ、仰る通り、英語を共通語とすることで、異常なまでの不公平さは出ています。アメリカ人の研究者の多くは、自分が、英語を話すということだけで、自分が他の国の研究者より優れているという誤認をしていると僕は強く感じます。つまり、サイエンスの本質を見損ない、英語でうまく言えるから、良いサイエンティストであると判斷している感じがし、英語が不自由=だめサイエンティストという感じが成り立っています。同時に普段の生活でも、言葉に不自由のある外国人をあからさまに馬鹿扱いする人もいます。

英語圏に生まれた人は、そういった言語での優越感を持ち、そうでない人は劣等感を持つ。とういう、ひどい状況がサイエンスの中には存在します。ものすごく悲しいことです。ビジネスにしても、英語圏の人は、そういう人たちをターゲットとして、翻訳業などのビジネスにも発展できるわけですし、この英語共通語における不平等はとんでもないことだと僕は思います。しかも、英語がネイティブの人は、多々にして、他の言語を話せませんし、努力すらしません。そのくせ、非英語圏の人間の英語に関して寛容ではありません。まったくもって、ひどいことです。

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このページは、松永英明が2010年7月 5日 13:20に書いたブログ記事です。
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