尖閣諸島問題:中国紙「沖縄は日本が不法占領」論文を全訳・徹底解読
「中国紙、「沖縄は日本が不法占領」との論文掲載 - MSN産経ニュース」というニュースが流れた。「19日付の中国紙、環球時報は琉球(沖縄県)は明治政府が19世紀末に清国から奪い取ったもので、日本政府は今も沖縄住民の独立要求を抑え込んでいるとの趣旨の署名入り論文を掲載した」という。
原文が判明したので、これを全訳し、さらにその内容について詳細に検証する。
結論から言えば、唐淳風氏によるこの論文には、歴史的事実に関する誤りが多く、歴史の改竄と呼んでいいと思われる。ただし、日本が琉球王国を滅ぼして吸収・同化した歴史を忘れてはならない。
唐淳風:日本は釣魚島について中国と話す資格はない(全訳)
以下、環球時報より「唐淳风:日本没有资格与中国谈钓鱼岛」の全文の翻訳である。
1879年に日本が琉球に出兵して占領する前の中国地図に注目していただきたい。中華琉球王国はずっと中国朝廷に直属してきた独立王国であり、東シナ海の外の日本とは隔離されていた。釣魚群島ともなればさらに日本から1000キロ以上隔たっている。中国大陸棚の周辺にあって、琉球との間には深さ3000メートルの琉球海溝がある。地質構造的にも、歴史的な帰属においても、さらに国際海洋法の規定においても、すべて琉球と関係がない。日本列島は琉球については通っても、釣魚群島付近については受け入れられない。問題の鍵となるのは「琉球は日本の領土ではない」ということである。日本は釣魚群島と東シナ海の問題について我々と対話する資格がない!
琉球王国と大陸朝廷の関係がその他の従属国と違うところは、その国民の大部分が福建・浙江・台湾沿海の住民で、祖国大陸と血がつながっているだけでなく、言葉・文字もすべて中国語で、法律・制度も大陸朝廷と完全一致している。さらに自分たちが大陸朝廷の一部であることを忘れることなく、ずっと政治上も完全に朝廷に依拠してきた。一地方で強大となって勢力を占めるようになってからも、やはり朝廷に対して封じられて立国することを望んだ。歴史の記録によると、王国の住民の大部分は歴史上途切れることなく琉球諸島に渡海した大陸同胞以外に、さらに隋唐時代の朝廷の役人が派遣されたこともある。隋唐時代に琉球は大陸の海外貿易の重要な窓口となっており、その建設と発展を支援するため、隋朝の政府は琉球当局の求めに応じて、現在の我々が経済開発区を建設するような漢字で琉球を建て、国家建設の重点として組み入れた。政策と資金における大きな支援以外に、特に閩南(福建省南部)で専門技術職人を招集し、琉球に派遣して建設に関わらせた。最大の場合は一回に2000人余りを派遣し、閩南三十六姓が次々と向かった。後から琉球に来た住民は閩南の三十六姓を誇りとした。役人としての能力を有していたからだ。
日本は長い間琉球を垂涎し、ずっと琉球を版図にくわえようとしてきた。もちろん薩摩藩の進攻があり、倭寇の襲撃があったが、琉球王国はみじんも揺らぐことがなかった。明治維新後、日本は国力強大であることにたのみ、琉球国王を脅迫して東京に連れて行き、日本に帰順するよう強いたが、それでも服従させることができなかった。手の施しようがなくなり、1879年3月日本は琉球に派兵して占領した。その後、大清朝廷と交渉し、清政府に琉球王権を譲らせた。しかし光緒帝と李鴻章の態度は強硬で、各種手段を用いて日本に厳重批判をした。日本に琉球から出て行くように強いて、琉球の主権の移転に関する協議にどのような形でも署名することを拒絶した。日本は何人かの軟弱者を買収して話したが、李鴻章は「琉球はすなわち我が東シナ海の障壁であり、もし日本人が居座るなら必ずや我が戦略安全の危険となる」としてすべての非難をはねつけた。
1945年に日本は敗戦し、その「無条件降伏」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」によって不法に占拠したすべての領土から退き、琉球も日本から離れて自主に回帰した。1971年に中米国交が樹立しようとしたとき、琉球の主権回復後に米軍基地がなくなることをアメリカは心配し、日本は琉球における米軍統治に代わって米軍のプレゼンスを確保することとした。当時アメリカはいまだ台湾と断交しておらず、再三にわたって中華民国政府に「(主権がアメリカには属さないため)日本に主権が移行されるのではなく、ただ行政管理権を日本に渡すだけだ」と説明していた。
米国の決定を覆す力はなかったが、琉球では数万人が中央広場に集まって号泣し、日本侵略者を追い払う誓いを立てた。それから30年以上、日本からの独立闘争は消えていない。2006年3月4日、琉球の全住民投票で75%が独立と中国との自主的な往来を回復することに投票した。残る25%は日本の血筋に属するため独立は求めないが、自治には賛成している。
ここからわかるのは、日本は琉球についてこれっぽっちも言う合法性がないということだ。唯一合法的な地位を得るプロセスとしては、中国政府と交渉することで、琉球問題に関する協議に中国と署名し、中国に対して琉球支配権をだまし取ったことを認めることである。東シナ海の油田問題については、釣魚群島の帰属問題について絶えずもめ事を起こしている目的は、中国政府を交渉のテーブルに着かせ、琉球の民意を無視して主権協会協議に署名させるためである。東シナ海油田と釣魚群島の主権がたとえすべて中国に属することを承認するとしても、中日両国の政府だけが条約にサインするのは、国境の外の琉球の主権が日本に属することを認めるに等しい。日本は琉球の占領について合法的な根拠があり、琉球民衆の独立要求は鎮圧できる。
日本政府は何を根拠にして、我々と琉球の境界を議論し、東シナ海・釣魚群島の帰属を論ずるのか?何を根拠に我らの漁船を捕らえ、我らの漁民を拘束するのか!唯一の歴史は、日本が琉球を侵略し、琉球を占領したということである。日本は侵略時代に実現できなかった妄想を現実のものとしようとし、我らの太平洋に出る海路を永遠に断ち切ろうとし、我らが遠洋に出る大門を永遠にせき止めようとしているのである!▲(著者は商務部研究院日本問題専門家)
唐淳風論文に関する徹底検証
それでは、以下、この論文の内容を検証する。琉球・沖縄の歴史については、手元にある最も詳しい資料として新城俊昭『新訂・増補版 高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画(2007年第4刷)を参照する。
高等学校琉球・沖縄史 | |
新城 俊昭 おすすめ平均 本当に良く書かれています。 「沖縄」をもっと知ることができる良書 沖縄本のマスト・アイテム Amazonで詳しく見る by G-Tools |
主張の前提
1879年に日本が琉球に出兵して占領する前の中国地図に注目していただきたい。中華琉球王国はずっと中国朝廷に直属してきた独立王国であり、東シナ海の外の日本とは隔離されていた。釣魚群島ともなればさらに日本から1000キロ以上隔たっている。中国大陸棚の周辺にあって、琉球との間には深さ3000メートルの琉球海溝がある。地質構造的にも、歴史的な帰属においても、さらに国際海洋法の規定においても、すべて琉球と関係がない。日本列島は琉球については通っても、釣魚群島付近については受け入れられない。問題の鍵となるのは「琉球は日本の領土ではない」ということである。日本は釣魚群島と東シナ海の問題について我々と対話する資格がない!
まず、この論文の前提としては、「日本と琉球は本来別の国である」「釣魚群島(=尖閣諸島)問題は日中間の問題ではなく、中琉問題である」「釣魚群島は琉球のものではない」という三つの主張を元に、「釣魚群島の帰属について日本政府は中国政府と交渉する資格を持たない」と述べている。まずは相手の主張の筋を理解しておこう。
もちろん、この主張が妥当かどうかについてはまた別の問題である。
冒頭部分で「中華琉球王国はずっと中国朝廷に直属してきた独立王国」とある。ここは歴史上誤りである。『琉球・沖縄史』によれば、14世紀、「察度王のとき、琉球ははじめて明に朝貢し、琉球王国形成への道を歩み始めることになる」とある。逆に言えばそれ以前の琉球(沖縄)は中国に朝貢していなかった。また、日本とは別の独立国であったことは事実だが、朝貢=「直属」とも言い切れない。冊封体制の「属国」ではなく、あくまでも「独立国」ととらえるべきである。
それから原文で尖閣諸島と「琉球との間には深さ3000メートルの琉球海溝がある」と書かれているが、琉球海溝は沖縄の南東沿いであり、最深部は7507メートル。ここで言われているのは深さ2200メートルの沖縄トラフ(中国語で「沖繩海槽」)のことだろう。ウィキペディアによると「琉球列島と尖閣諸島は、沖縄トラフを隔てた両側に位置しており、年々その距離は遠ざかっている」と書かれている。
琉球史の改竄
琉球王国と大陸朝廷の関係がその他の従属国と違うところは、その国民の大部分が福建・浙江・台湾沿海の住民で、祖国大陸と血がつながっているだけでなく、言葉・文字もすべて中国語で、法律・制度も大陸朝廷と完全一致している。さらに自分たちが大陸朝廷の一部であることを忘れることなく、ずっと政治上も完全に朝廷に依拠してきた。一地方で強大となって勢力を占めるようになってからも、やはり朝廷に対して封じられて立国することを望んだ。歴史の記録によると、王国の住民の大部分は歴史上途切れることなく琉球諸島に渡海した大陸同胞だが、それ以外に、さらに隋唐時代の朝廷の役人が派遣されたこともある。隋唐時代に琉球は大陸の海外貿易の重要な窓口となっており、その建設と発展を支援するため、隋朝の政府は琉球当局の求めに応じて、現在の我々が経済開発区を建設するような漢字で琉球を建て、国家建設の重点として組み入れた。政策と資金における大きな支援以外に、特に閩南(福建省南部)で専門技術職人を招集し、琉球に派遣して建設に関わらせた。最大の場合は一回に2000人余りを派遣し、閩南三十六姓が次々と向かった。後から琉球に来た住民は閩南の三十六姓を誇りとした。役人としての能力を有していたからだ。
第二段落冒頭部分は完全にデタラメである。琉球人(沖縄人)はDNA的にも非常に日本人(ヤマトンチュー)との共通性が大きい。「沖縄の先史文化は、本土の縄文文化の影響を受けて始まったと思われ、地理的・地域的特性を強めながら独自の文化を形成していった」が、その後弥生文化は伝わらず、別の文化圏として発展していったのである(なお、縄文時代に「日本列島」に住んでいた人たちを一般に「縄文人」と呼ぶが、DNA的にも地域差が激しく、文化的共通性はあっても彼らを一括りに同じ民族と見ることはできない。「アイヌと沖縄はどちらも縄文人の末裔」と考えるのは誤りである)。
もっとも、宮古・八重山は台湾(原住民)やフィリピンとのつながりが大きい。それでも中国大陸との血縁関係ということはできない。
隋・唐時代に朝廷の役人が派遣されたとか、隋唐時代に沖縄が中国中央政府によって成長したというような話は、史実とは言えまい。むしろ遣唐使の時代には、中国から奈良にやってきた鑑真が「阿児奈波(あこなわ)」島に漂着したというような話があるように、日中間の南島路の一つであったとはいえる。
しかし、「国民の大部分が福建・浙江・台湾沿海の住民」というのは、かなり台湾と混同しているのではないか。そういう人たちもいたことは確かだが、「国民の大部分が」というような事実は存在しない。これは歴史の改竄に当たる。ましてや「言葉・文字もすべて中国語」ということだが、琉球語はきわめて日本語に近い。文字は日本だって漢字を元にしているが、言葉において日本と沖縄は明白に同系といえる(『おもろさうし』もひらがなが使われている)。
「閩南三十六姓」について、『琉球・沖縄史』ではこう書かれている。14世紀(明の時代)、琉球には山南・中山・山北の三つの勢力圏が存在しており、三山とも中国の冊封体制のもとに入った、という部分の解説である。先述の察度王は中山の王である。
「朝貢とは、貢物を中国皇帝におさめて服従を誓うことで、冊封とは、皇帝からその国の王であることを承認してもらうことをいう。朝貢し冊封を受けると、明との貿易がゆるされるだけでなく、多くの返礼品があたえられたので、三山とも競って進貢し、大陸のゆたかな文物を取り入れていった。琉球はその後、中山の最後の国王・尚泰の時代まで約500年間、中国に進貢することになる。」
「三山のうち中山は、数多く進貢するとともに留学生を送って直接、中国の学問や政治・社会制度を学ばせた。また、中国からは閩人三十六姓とよばれる人々を聴かさせ、大陸の文化を積極的に取り入れていった。」
「閩人三十六姓とは、沖縄に移住した中国人の総称で実数ではない。その渡来については、明帝から賜わったとする説や中国商人が交易にやってきて住みついたとする説などがある。かれらは那覇の久米村に居住し、自らはその地を唐栄と称した。」
隋は6世紀末から7世紀はじめ、唐は7世紀~10世紀はじめまでである。一方、これは14世紀の話。意図的に歴史が混乱させられている。あるいは、沖縄で明のことを「唐」と表記し続けたことから混乱が生じたのだろうか。いずれにせよ、唐淳風氏の記載は誤りである。
その後、15世紀に入って尚氏が三山を統一し、琉球王国が成立する。1500年のオヤケアカハチの乱の後は宮古・八重山も琉球国の版図となる。石垣島が琉球国の勢力下に入ったのはこの時期のことだ。
島津と台湾出兵と琉球処分
日本は長い間琉球を垂涎し、ずっと琉球を版図にくわえようとしてきた。もちろん薩摩藩の進攻があり、倭寇の襲撃があったが、琉球王国はみじんも揺らぐことがなかった。明治維新後、日本は国力強大であることにたのみ、琉球国王を脅迫して東京に連れて行き、日本に帰順するよう強いたが、それでも服従させることができなかった。手の施しようがなくなり、1879年3月日本は琉球に派兵して占領した。その後、大清朝廷と交渉し、清政府に琉球王権を譲らせた。しかし光緒帝と李鴻章の態度は強硬で、各種手段を用いて日本に厳重批判をした。日本に琉球から出て行くように強いて、琉球の主権の移転に関する協議にどのような形でも署名することを拒絶した。日本は何人かの軟弱者を買収して話したが、李鴻章は「琉球はすなわち我が東シナ海の障壁であり、もし日本人が居座るなら必ずや我が戦略安全の危険となる」としてすべての非難をはねつけた。
「薩摩藩の進攻があり、倭寇の襲撃があったが、琉球王国はみじんも揺らぐことがなかった」という記述は、きわめて恣意的な記述である。島津との関係で琉球国は不幸な歴史をたどることになる。
応仁の乱後、日本と琉球の貿易を島津が独占しようとし、それを琉球側が拒んだ(多くの日本商船との貿易を望んだ)。秀吉が朝鮮侵攻を企てたとき、島津は琉球にも軍役を求めてきた。このとき、兵糧米などを半分しか調達できなかったことが島津による侵略の口実とされてしまう。
江戸時代に入った1609年、島津家久は琉球侵攻を行なう。首里も開城し、島津は幕府から琉球の支配権を与えられた。それでも琉球は日本には組み入れられなかった。「17世紀末になると島津氏は、琉球を日本に同化させる政策から、中国と日本を結ぶ接点として、琉球を「異国」として存続させる方針に転換した。」(『琉球・沖縄史』)
実質的に島津氏の占領地だが、明との関係上一応独立国の体を保たせられた――これが江戸時代の琉球の立場であった。
その後、明は滅び、清となる。したがって、清代の琉球国は、決して清国の直属の独立国という存在ではなかった。むしろ「日清両属」というべきである。
そして明治維新後には「琉球処分」が行なわれ、沖縄は完全に日本国として組み込まれていく。
- 明治4年、琉球人の台湾遭難事件が発生。宮古の船が台湾に漂着したところ、現地人に殺害された。これに対して明治政府は出兵を計画する。清国側は「台湾は未開の蕃地で、中国の政令・教化のおよばない化外の遠地である」として対応せず。
- 明治5年、琉球国王・尚泰を藩王となし、華族に列することになった。つまり、このとき「琉球藩」が設置された。
- 明治7年、西郷従道陸軍中将率いる3600兵を台湾へ出兵。この和議において「台湾の生蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪を咎めてかれらを征伐したが、これは人民を守るための正当な行動であった」という条文を交わす。つまり、沖縄人は日本人だと認めさせたことになるが、清国はこの時点で沖縄が日本領だとまでは認めていなかった。
- 明治8年、琉球の王国制度を解体し、沖縄県を設置する意向を伝えるが反対意見も多かった。
- 明治12年、沖縄県とする廃藩置県。琉球王国の滅亡。
唐氏論文に「手の施しようがなくなり、1879年3月日本は琉球に派兵して占領した」とあるのはこの廃藩置県のことだが、『琉球・沖縄史』によれば「1879年3月、政府の強硬な処分案を受けた松田は、軍隊と警官を率いて三たび来島し、首里城内で尚泰王代理の今帰仁王子に、琉球藩を廃し沖縄県を設置する廃藩置県を通達した。」とある。確かに「反対派の嘆願にはいっさい耳をかたむけず、処分を断行した」とはあるが、派兵による軍事占領と書くのは歴史の改竄といえよう。
その後、日清戦争勃発時には、親清派(頑固党)と親日派(開化党)の抗争が一時期激しくなるが、日本の戦勝により沖縄は日本の一県としての歴史を歩むようになった。
日本軍もひどかったがアメリカ軍もひどかった
1945年に日本は敗戦し、その「無条件降伏」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」によって不法に占拠したすべての領土から退き、琉球も日本から離れて自主に回帰した。1971年に中米国交が樹立しようとしたとき、琉球の主権回復後に米軍基地がなくなることをアメリカは心配し、日本は琉球における米軍統治に代わって米軍のプレゼンスを確保することとした。当時アメリカはいまだ台湾と断交しておらず、再三にわたって中華民国政府に「(主権がアメリカには属さないため)日本に主権が移行されるのではなく、ただ行政管理権を日本に渡すだけだ」と説明していた。
『琉球・沖縄史』によれば「沖縄戦の体験は日本人と日本への不信感を顕在化させ、戦後はアメリカを後ろ盾とした沖縄独立論を唱えるものもでてきた。しかし、米占領軍の圧政は沖縄住民を失望させ、大勢は「平和憲法」をもった日本への復帰を望むようになった」とある。昭和27年、日本は沖縄と小笠原を切り離して独立した。「沖縄守備軍の降伏によって、ようやく"鉄の暴風"の恐怖から解放された沖縄住民であったが、ほっとしたのも束の間、そのあとにまっていたのは、昔ながらの"平和な島沖縄"ではなかった。米軍統治という屈辱的な異民族支配であった」。
この中で日本復帰が進められるが、「1969(昭和44)年11月に発表された日米共同宣言は「核抜き、本土並み、72年返還」の基本方針を確定していたものの、日本政府が決定した「復帰対策要綱」は基地の存続を前提にしており、その多くは沖縄住民の要求からはかけはなれたものであった」という状況であった。
沖縄の独立運動
米国の決定を覆す力はなかったが、琉球では数万人が中央広場に集まって号泣し、日本侵略者を追い払う誓いを立てた。それから30年以上、日本からの独立闘争は消えていない。2006年3月4日、琉球の全住民投票で75%が独立と中国との自主的な往来を回復することに投票した。残る25%は日本の血筋に属するため独立は求めないが、自治には賛成している。
沖縄の独立運動は細々と続いているのは確かである。返還前には2・4ゼネスト、コザ反米騒動、5・19ゼネスト、11・10ゼネストなども起こった。しかし、それは(残念ながら)主流とはなりえていない。
2006年のアンケートについては私は現時点で資料を発見できていない。ただし、同じ2006年11月28日の沖縄タイムスでは完全に逆の結果が出ている。
「独立の是非についての全体の回答は、「独立すべき」24%、「すべきでない」65%。独立賛成の最大の理由は「沖縄の政治的、経済的、社会的状況や歴史的経験が日本本土と同じではないから」、反対は「沖縄住民は自立する能力を持っていないから」だった。」
しかも「沖縄人の25%が日本の血筋」というのはどこからどう出た話なのか。完全に偽情報が紛れ込んでいる。
以下の部分は歴史的事実ではなく著者の意見なので、検証はこのあたりでよいだろう。はっきりと言えることは、前提となる歴史的事実が改竄されているということだ。
領土問題の面倒くささ
そもそも私は、「固有の領土」などといううさんくさいものを信用していない。国境線が明確にひかれ、ちょうどジグソーパズルのように地球の表面の領土・領海・領空が「国」単位できっちりと分割されるようになったのは、ここ百数十年くらいのこと、近代ナショナリズムが生まれてからのことであって、決して歴史的に裏付けのある話ではない。ましてや、これまで人の住めなかった「沖合の岩」について、ある時期まで明確に「国家による領有が宣言」されてこなかったとしても、当たり前のことである。現代の方が特殊なのである。
言い換えれば「尖閣諸島はどこの固有の領土でもない」。台湾という大きな島でさえ、清・中華民国・中華人民共和国と受け継がれた「中国」の固有の領土なのか、それとも「台湾は台湾」なのかが決しないくらいなのだから、尖閣諸島をどこかの領土と決めるのは乱暴だ。あえて言えば歴史的に一番近いのは、石垣島を含む「八重山」の住民である。その八重山を琉球王国が征服し、その琉球王国が清と島津の双方に服属し、島津が琉球王国を実質属国とし、日本がついに琉球王国を吸収した。それを台湾と中国が領有権を主張している。どこに正義があるのか。むしろ、どこにもないと言ってしまった方が正確だと思える。
私は琉球国は独立してもよいと思っている。ただ、そういうと一部ネトウヨ系の人たちが「それは中国に領土をやるということだ」と結びつけるので困るのだが、以上書いたように、琉球国は琉球国であって日本でも台湾でも中国でもないと考えている。そもそも、今の沖縄の人たちがこぞって中国人として生きていくことなど選ぶはずがない。
中国人は歴史をねじ曲げるべきではない。しかし、日本人も琉球を征服して同化を強要したという歴史を知らねばならない。
- 【広告】★文中キーワードによる自動生成アフィリエイトリンク