2010年電子書籍「元年」を振り返って考える「これからの電子書籍に必要なこと」
思い返せば私がKindle 2を初めて手にしたのがおよそ1年前、昨年のクリスマスであった。それから約一年、自分でも電子書籍を作ってみたり、売ってみたり、さらにKindle 3の衝撃を受けたりする中で感じたことがいくつかある。
本格的な電子書籍の大きなうねりが起こった今年を振り返って、これからの電子書籍に必要だと私が考えることを書いてみたい。
論旨のポイントは「電子書籍でレイアウトを無視してはいけない」「電子書籍はデバイスの特性を考える必要がある」「Kindleのように電子書籍デバイス単体で本が買えることが必要不可欠」である。
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「読みやすさ」には「レイアウト」が不可欠である
文字列データが表示されて読めるだけというレベルのものは、確かに広義の「電子書籍」ではあっても、とても書籍とは呼べない。電子書籍をめぐる議論の中で、「読者が文字の大きさを自由に変えられること」を優先するあまり、リフロー型(つまり固定したレイアウトが存在せず、ただ文字列が流し込まれているもの)であれば解決される、それ以外は認めないというような意見も散見されるが、現時点でそのレベルのものを電子書籍と呼ぶのは無理である。
これらの議論は、重要なポイントを見失っている。というのも、「本」というのは文字列だけを提供しているアイテムではなく、それ以外の要素によっても「情報」を伝えているからだ。
たとえば、レイアウトや組版、デザインがある。語学書において「左ページに例文、右ページに対応する訳文と新出語」といったレイアウトがなされているものが多いが、これはその見開きの中で、一つの視野に同時にそれらの情報が整理されて入ってくることに大きな意味がある。これを電子書籍の中で再現しようと思えば、レイアウトを固定するしかない。例文と訳文と新出語のデータをずらずらと並べれば確かに文字の情報量は変わらないのだが、いちいち次ページ・前ページに戻ったりする時点で大きな「情報の欠落」が生じる。あるいは、ポップアップで単語を表示させるのも、「すべてが同時に見える」わけではなく、やはり情報の欠落を生じる。
IT系の技術書(たとえばプログラミング言語やソフトウェアの解説書、「できる」シリーズのような本)でも、やはり「図解」と「解説」が一対一対応している必要があるし、また流れを把握するためにいくつかの図と解説が一覧される必要がある。これをリフロー型「電子書籍」にしても、ガイドブックとしての用を為さないだろう。
あるいは教科書や「脚注つきの本」(工作舎などに多い)だ。本文と対応する注釈が同じページ(あるいは本文の注記と近い場所)に表示されていることに意味がある。これをポップアップにしたり、あるいはリンクで飛ばしたりするのは完全に情報を損なってしまう。同じページの中に対応する注がどれくらいの分量でついているのか、このあたりまで読み進めば注が待っているぞというような「情報」が、同時に視野に入ることで伝わってきている。この「文字以外の情報」を「必要ない」と切り捨てるような人は、電子書籍以前に本というものの本質を把握できていないと断言できる。
自分自身の体験から
私は自作電子書籍『アジアの光』を制作するにあたって、「本文と対応する注を、電子書籍の同じ画面内に収める」ことを必要条件とした。ところが、現在のePubの仕様では、それは不可能だという。本文が終わった後に注を入れてリンクさせることは確かに可能だが、読んでいるときにあっちに行ったりこっちに戻ったりするのは鬱陶しい(岩波文庫などで、本文と注にそれぞれ指を挟んで本文と注をいちいち行きつ戻りつして読むのが鬱陶しいと感じる人は多いだろう)。同じページ内に注を入れることが、特にこういう「注がないと意味不明の文字列が出てくる」本をすらすら読んでもらうためには必要不可欠なのだが、それがePubでは不可能だという。
そこで、私は何種類もの文字サイズを用意し、Kindle(当時はまだ2)で表示させてみて読みやすいかどうかを確認した。Kindleの表示画面は文庫本の版面よりやや小さめである。そこで、結局39字14行を基準とし、注釈はやや小さめとした。また、空白があるとKindleは勝手にセンタリングしたりするので、全ページに枠をつけるデザインとした。フォントは小塚明朝など通常の明朝だと横線が消えたりするので、IPAフォントをもとに太めにデザインされた「青キン明朝」を利用させていただいた。
ここまでやって初めて「書籍」と呼んでよいレベルのものになったと考えている。電子書籍は断じてRSSリーダーと同レベルであってはならない。
電子書籍でもデバイス特性を考える必要がある
電子書籍の点数を増やすためには、紙の本をとにかく電子化すべきだ、という乱暴な議論がツイッターなどで散見される。私はこのような乱暴な意見には与しない。
もちろん、電子書籍の点数が増えなければ電子書籍市場が伸びないことは確かだ。量は確かに必要である。しかし、量だけで質が伴わなければどうなるのか。ここでいう「質」とは、本文自体の価値のことではなく、電子書籍として読むだけのものが作られているかどうかということだ。
単に表示できるだけでは電子書籍とは言い難い。そのことは「「電子書籍を体験しよう!」モニターレポート(マガジン航[kɔː] 2010年12月17日)」も参照していただきたいが、ただ単に青空文庫の内容をブラウザで表示させただけ、的なモノは「書籍」のレベルに達していない(たとえそれが文豪の作品であるとしても)。
紙の本の「デバイス特性」
たとえば、紙の本の場合は「版面サイズ」という「デバイス特性」がある。文庫本、新書版、単行本(四六判/菊判など)、大小の雑誌など、版面のサイズが内容やイメージを規定してしまう。同じ文章を単行本から「文庫落ち」させた場合、内容は確かに同じであっても読者が受ける印象にはズレが生じるものである。これを理解しない書き手は文筆家と呼ぶに値しない。
新潮文庫があるのになぜわざわざ新潮新書を発行しなければならないのか。新書というサイズに「新書とはこういう内容だ」というイメージがひっついているからである。そして、小説などの読み物では、論説文よりも一行字数が少なめの方がふさわしいという経験則的判断があるからにほかならない。90年代の新書版「ノベルズ」全盛期を思い出してほしい。ノベルズは1段組か2段組であった。確か講談社ノベルス版の銀英伝は二段組であった。一方、小説以外の(特に実用書系の)新書で二段組ということはほぼありえなかった。
同じ文章の一行字数を変えるだけで印象は大きく変わる。単行本で一行が37~45字くらい、行数が14~17字くらいというレイアウトのものが多い。一方、これをダ・カーポ誌や別冊宝島のように1行15字程度の3段~4段組に変えるだけで、非常に軽いイメージに変わってしまう。
私が寄稿した別冊宝島1257『「パクリ・盗作」スキャンダル読本』はA5判のムック本であった。これが宝島SUGOI文庫にて『パクリ・盗作 スキャンダル事件史』として文庫化されるにあたって書き下ろし原稿を加えたが、書き手として文章のリズムが大きく変わった。
私はかつて『週刊光源氏』という本を企画・制作したことがある。源氏物語を女性週刊誌風に読む本である。もともと源氏物語が女性週刊誌的な「貴族(セレブ)・アイドル・ゴシップ」ネタに満ちているという身も蓋もない共通項からの企画であったが、文体を女性週刊誌的にするだけでなく、レイアウトにもこだわった。棚に置きづらいという営業担当者を説得して本の縦横比率を女性週刊誌と同じにしてもらい、DTPにも手間暇かけて女性週刊誌のレイアウトを完全に再現するように試みた。文章だけでもおもしろいはずだが、逆にレイアウトを見るだけで意図が伝わる部分もある。
新聞小説が単行本化されると印象ががらりと変わる。レイアウトや版面サイズは「本」にとっての重要な要素なのである。これ以外に「ソフトカバーとハードカバー」だとか、「紙質」だとか、いろいろな要素が「本」の与える情報である。
漫画でも「見開きを前提とし、ページめくりで場面転換などを行なう」というテクニックがある。
電子書籍デバイスの「デバイス特性」
同様の課題が電子書籍にもあるはずだ。KindleとKindle DX、iPadとiPod/iPhoneは版面サイズが違う。紙と同じ反射光のKindleと、液晶やモニタと同じ透過光のiPadは、目に入る光と脳内での処理が違う。そして重要な電子書籍デバイスとして、PCのモニターというものもある。
これらを同じ「電子書籍」デバイスと一括りにしてよいものか。決してそうではない。似たものは一括りにできるとしても、それぞれのデバイスの特性を見抜き、それに合った表現方法を考える努力が必要不可欠だ。さもなくば電子書籍は生き残れない。
すでに私たちはデバイスの変化によって新たな文学ジャンルが登場したことを経験している。それは「ケータイ小説」である。ケータイ小説はケータイ(いわゆるガラケー)のあの狭い画面の中で表現され、改行とページ遷移を多用することで独特の文章のリズム感を生み出してきた。携帯で読むケータイ小説と、紙の本になったケータイ小説はまるで別物であると断言してもよい――映画館で見る映画とDVDで見る映画の与える印象が違う以上に。
ところが今の議論は「一つのデータをどのデバイスでも同じように読める」ことが求められているように思われる。これは筋が違う。「一つのデータを、それぞれのデバイスに合った形に出力する」ことが必要なのである。もちろんそこに省力化の努力があってもよいが、同じ一つのデータをそのまま使ってあれもこれもまかなおうというのは間違いだ。
Kindleは「読む」ことに特化されたデバイスである。ひたすら読みやすさが必要である。一方、iPadは多機能デバイスであるから、他の本との連携や、文字・画像にとどまらないマルチメディアとしての展開が望ましい。iPhone/iPodはiPadに比べて小さな画面であるから、iPadの一覧性よりも、抽出されたデータを扱うことに優れている。Sony ReaderはKindleとiPadの中間的なデバイスであるから、中間的な位置づけとなる。
こういったデバイス特性を理解した上で、それぞれに合った作品を提供するという発想が根底になければ、ただ単に点数を増やしても「別に電子としては読みたくもない本」が大量に提供されるだけのことである。
私が企画するなら、地図・GPSと完全連動するiPhone版『日本百名山』、スクロールを前提とした『源氏物語絵巻』などが想定できる。
そして、電子書籍にはデバイス特性を生かした新たな表現も生まれるはずである。否、それを生み出さなければ電子書籍の意味はない。
電子書籍デバイスで完結すること
Kindleは何がよいのか。Kindleの本体を一つ持っていれば、その機械から3G回線で接続して「いつでもどこでも本が買える」ことである。電車に乗っているとき、最初の駅の停車中にサンプルをダウンロードし、気に入ったら3つめの駅で正式に購入することも可能だ。
ところがそれを日本産電子書籍リーダーの多くが理解していない。多くは「母艦」すなわちPCと接続しなければ本が買えない、増えないのである。これは致命的な欠陥である。もちろん、KindleはPCと接続することも可能だが、接続しなくても完全に使える。ここに大きな違いがある。
というのも、日本でPCはかなり普通に存在しているが、それを使いこなしている人というのは実はまだまだ少数派である。PCは家電にはなっていない。一方、携帯電話(ガラケー)は家電化している。ほとんど誰でも使える。スマートフォンがいいと思っているのはPCの利便さを理解できる少数派の人間であって、世の中の大半の人はガラケーとしての機能向上は必要としていても、スマートフォンの高機能は別に求めていない。
そういう実態を前提にするならば、「母艦」が必要な電子書籍リーダーは家電にはなり得ない。ところが、Kindleのように「完結したデバイス」(母艦が必要ではない)ならば、家電になりえる潜在性を持っている。
ちなみに、「何にでも使える」デバイスは家電としては弱いことも言い添えておこう。何にでも使える、は、何にも使えない人が多いのである。それがわからない人は、PCが必要とされないデジカメ専用プリンターが商品として成立する理由もわからないだろう。「専用デバイス」は今後確実に伸びる。少なくとも愛用者が熱心なファンになる。Webにさえ接続しない「書く」ためのPomera、「読む」ためのKindle。それらの専用性を念頭に置いた「機能へのこだわり」が差別化となる。それがファンを生み出す秘訣である。
ちなみに、電書部のシステムを利用させていただくことで、私は昨年末の文学フリマにてKindle3で電書(電子書籍)を「売る」ということを実現した。「本を買う・読む・売る」がこの薄くて軽い機械で実現できたのである。
2011年以降の電子書籍
以上、もう一度まとめると、
- 電子書籍においてレイアウトは重要な要素
- 電子書籍デバイスそれぞれのデバイス特性を理解する
- 電子書籍リーダー本体だけで本が買える「完結性」が必要
という三点がポイントとなる。これらの要素はこれからの電子書籍において必ず求められる要素である。このうち一点でも無視/否定するならば、電子書籍は存在意義を失っていくだろう。逆に、これらを突き詰めていくことで、電子書籍は電子書籍としての新たな表現方法を獲得していくはずである。
単なる紙からの移行ではない、電子書籍としての電子書籍。その登場がこれから期待されている。
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