震災一年目に読み直してみた鴨長明『方丈記』の地震記述
あの大地震から一年。復興はまだこれからの段階である一方、「一つになろうニッポン」のかけ声とは裏腹に新たな対立と罵り合いが繰り広げられた一年であったと思うが、少なくとも多くの人たちが「今まで考えていなかったこと」を考える契機になったとは思う。
わたし自身は昨年6月の文学フリマで『東日本大震災でわたしも考えた』を発表したが、基本的にはわたしのスタンスは「我が身を守ることに汲々とするより、今、ここでできる範囲の無理のない貢献」ということで、ささやかながらできることをやってきたつもりである。たとえば、震災後に買った米は今まで一年間ずっと福島県産である。もちろん昨年秋の収穫分についても、放射線量が厳重にチェックされた会津喜多方産を購入しているため、放射性物質に関してはまったく心配していない。
そんな中、ふと読み直してみたいと思ったのが鴨長明『方丈記』だった。ここには、大地震を含めていくつかの天変地異や遷都という大きな変化をきっかけに、鴨長明が強い無常感を抱くことが記されている。震災をきっかけにいろいろと考えることになったという点に限ってではあるが、現代のわたしたちとも共通しているところがあると思う。
今回は、方丈記の冒頭および元暦大地震関連の記載部分を改めて訳し直してみた。
方丈記(松永訳)
※原文は青空文庫の『鴨長明 方丈記』を参照した。
流れてゆく川の流れは絶えることがなく、しかも流れているのは同じ水ではない。よどみに浮かぶ泡は、消えては生まれ、久しくとどまることがない。世の中にある人も住みかもまた、このようなものだ。
玉を敷いたように美しい都の中に棟を並べて立ち並んでいる高貴な人の家も身分の低い人の住まいは、代を重ねてもつきないもののようにみえる。しかし、それは本当かと調べてみると、昔からあった家はほとんどない。去年壊れて今年建てた家もあるし、大きな家がなくなって小さな家となったものもある。住む人も同じである。場所も変わらず、人も相変わらず多いが、昔見た人は二、三十人の中にわずか一人、二人のものである。朝に人が死に、ゆうべに人が生まれるというさだめは、まさに水の泡に似ている。
生まれて死ぬ人がどこから来てどこへ行くのかは、わからない。また、仮の宿りでしかない家なのに、心を悩ませて家を作るのは誰のためなのか、見て楽しいものにしようとするのは何のためなのかもわからない。
住人も住みかも無常を争うかのように去っていく様子は、言ってみれば朝顔の露そのものである。露だけ落ちて花が残っていることもあるが、残るといっても次の朝日には枯れてしまう。また、花がしぼんで露が消えずに残っていることもあるが、消えないといっても夕方まで待っているものではない。
さて、ものの道理がわかるようになってから四十年あまりの歳月を過ごしてきたわけだが、世の不思議を見ることがたびたびあった。
(※以下、鴨長明は五つの災害や大事件のことを記している。
- 安元三年(1177)四月二十八日:安元の大火
- 治承四年(1180)四月二十九日:治承の辻風
- 治承四年(1180)六月:福原遷都(平清盛による)。同年冬に平安京に戻る。
- 養和元年(1181):養和の飢饉
- 元暦二年(1185)七月:元暦大地震。(同年三月に壇ノ浦の戦い、平家滅亡)
このうち、元暦大地震の節から訳す)
また、元暦二年のころ、大地が揺れる(おほなゐふる)ことがあった。その様子は世の中に普通にあるものではなかった。山が崩れて川を埋め、海は傾いて陸を浸した。土が裂けて水がわき上がり、大岩が割れて谷に転がり、なぎさを漕いでいた船は波のまにまに漂い、路行く馬はどこに脚を立たせればいいのかもわからなくなった。
都のあたりでは、あちらこちらの堂舎(大小の家/社寺の建物)・廟塔が一つとして無事ではなかった。崩れたり崩れたりするときに立ち上がる塵や灰は、もうもうと立ちこめる煙のようだ。地が震え、家が壊れる音はいかずちそのものである。家の中にいるとたちまち押しつぶされそうになる。走り出るとまた地割れが裂ける。羽がないので空に上がることもできない。龍ではないので雲に昇るのも無理だ。恐ろしいものの中でも特に恐るべきものは、まさに地震だと思ったのである。
その中で、ある武士の一人っ子で六つか七つくらいの子供が、築地(瓦屋根の泥塀)の下に小屋をつくり、とりとめもなく意味もないことをして遊んでいた。しかし、地震のときに築地が急に崩れて埋められて、跡形もなくぺしゃんこに押しつぶされた。二つの目もちょっと飛び出てしまっていた。それを父母が抱え、声も抑えずに悲しみあっているのを、本当に気の毒で悲しく思いながら眺めたものだった。子を失った悲しみには猛々しい者であっても恥も外聞も忘れてしまうものだとわかり、いたわしいがまたそれも当然のことだと思った。
このように激しく震えるのはしばらくのうちに止んだが、その名残の余震はたびたび絶えることがなかった。世の常としてはおどろくほどの地震が、二、三十度も震える日が続いた。十日、二十日すぎたあたりで、だんだん感覚が開いてきて、四、五回の日から、二、三回の日、それから一日おき、二、三日に一度となっていった。おおよそその名残の余震は三月ほどもあっただろうか。
四大種(※物質を構成する四元素。地・水・火・風)のうち、水・火・風はしょっちゅう害をなすが、大地についてはそれほど異変を起こすものではない。むかし斉衡のころ(854~857)だったか、大地震があって、東大寺の大仏の御首が落ちたりして大変なこともあったのだが、今回の地震には及ばなかったという。その直後には人はみなこの世は無常・不条理だということを述べて、多少は心の濁りも薄らいだように見えたものだったが、月日が重なり、年を経ていくうちに、やがてそんな言葉を言う人もいなくなった。
何事につけても世の中に存在すること自体が難しいこと、我が身と住みかとがはかなく、実体のないものであるようすは以上のとおりである。ましてや、場所に応じ、身の程に応じて心を悩ませることは、挙げれば数え切れない。……(後略)
(※……こうして世の無常を感じ、この世の中のもの、特に住みかと自分にこだわること自体に意味がないのだという思いを強くした鴨長明は、五十歳の春に出家して隠棲する。最初は大原山に、次いで音羽山に移り、一丈四方の小屋(方丈)に住んだのであった。なお、この方丈のあった場所には一度だけ行ったことがある。山科の山の中でまさに隠遁所と呼ぶにふさわしい雰囲気が今なお残っていた。)
(※仏教の無常観というのはよく誤解されているが、たとえば「桜の花はすぐに散ってしまう→短い命だから美しい」という「はかなさを愛でる」意識ではない。それは日本的情緒ではあっても仏教的な見方ではない。「世の中のすべてのものは移り変わるのだから、それにとらわれずに離れていくしかない」という見方が仏教の無常観である。鴨長明の無常観は仏教的無常観というにふさわしい。)
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