日本におけるエイプリルフール受容史(戦国から江戸時代)
エイプリルフールの起源には諸説あるものの、最有力とされる「暦の切り替えに伴い旧暦使用者をからかった」説ですら実は根拠がないことが明らかとなっている。4月1日にウソをついてからかう風習が行なわれたことが文献上で確認できるのは16世紀(1539年)、フランドルの作家エドゥアルド・ドゥ・デネが書いた詩で、結婚式の準備をすると偽って4月1日に使用人をあちこちに使いにやって右往左往させてからかう貴族が描かれている。
1698年の英国の新聞「ドークズ・ニューズレター」では、ありもしない「ライオン洗い」式典をやってるよと偽ってロンドン塔まで行かせるといういたずらが4月1日に行なわれるのが人気だったとされている。
しかし、起源が何であったかについては「何もわかっていない」というのが正しいところだ(詳しくはエイプリルフール - 閾ペディアことのは参照)。ちなみに「エイプリルフールにウソをついてよいのは午前中だけ」というのはアイルランドやキプロスなど一部の国のみの風習である。
今回は日本におけるエイプリルフールの受容史についてまとめてみた。
16世紀:戦国時代
日本でのエイプリルフールの受容は意外に早く、戦国時代に日本を訪れたイエズス会宣教師によってこの風習が日本に伝えられていた。真っ先に取り入れたのは堺の会合衆と伝えられる。武野紹鴎が最近の稼ぎ具合について聞かれた際、儲かっているにもかかわらず「ぼちぼちでんな」と答えたエピソードが有名である。
その後、日本では四月一日が綿抜きの儀式の日にあたるため、二か月遅れの六月一日に一言ウソをつくことに変更されたが、名称はポルトガル語の「Avril(アブリウ=四月)」と「tolo(トロ=馬鹿)」から「とろあぶり」の日として受け入れられた。なお、この日に食された脂身の多いマグロを炙った料理は現在も「トロ炙り」として親しまれている。
この時代、エイプリルフールの冗談が洒落で終わらなかった大事件が起こっている。天正十年(1582)六月一日の深夜、一万三千人の兵を率いて京に向かった明智光秀は「とろあぶり」のネタとして「敵は本能寺にあり」とつぶやいた。ところがすでに日付は変わって六月二日の未明になってしまっており、冗談だと思わなかった家臣たちが本能寺に火を付け、主君・織田信長を滅ぼすという一大事に至ったのである。
光秀を倒して天下人となった秀吉も「とろあぶり」を好んだが、自らが天下を取るに至ったきっかけがとろあぶりの冗談によるものだということは自覚しており、自らがウソを語ることはほとんどなかった。しかし、年を重ねるとともにその自重が緩み、天正年間のある六月一日に「明国(中国)を取ろうと思うので、まず手始めに朝鮮を落とそうぞ」と言ったところ、家臣たちはまさか太閤がこのようなとろあぶりの冗談を言うなどとは思わず、実行に移してしまった。これが文禄・慶長の役の発端である。
江戸時代
江戸時代においては、徳川家康の江戸入城が八月一日(八朔)であったために六月一日の風習はやや廃れることとなったが、特に京や江戸ではなおもとろあぶりの冗談が語られることがあった。しかし、ルイス・フロイスが「洒落のわからない日本人」と書いたとおり、大なり小なりの事件を引き起こすこととなった。
関ヶ原の戦いで敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛は、天草の宇土で浪人百姓となっていたが、その息子(当時十六歳)の四郎時貞(洗礼名フランシスコ)について「こいつは実は救世主なんですわ」というつまらぬ冗談を言ったところ、田舎者でとろあぶりの風習を知らなかった天草のキリシタンや農民が本気にして一揆を起こしてしまった。島原の乱である。
「とろあぶりの禁令」を発したのは、五代将軍綱吉である。その治世においては、吉良上野介義央のとろあぶり冗談を理解できなかった浅野内匠頭長矩が田舎侍と馬鹿にされ、それに怒って江戸城内松の廊下で斬りかかった「殿中刃傷」事件が勃発。浅野家はお取りつぶしとなったが、大石内蔵助をはじめとする赤穂四十七士(AKH47)が吉良屋敷へ討ち入った。とろあぶりの冗談がわからなかったことから敵討ちに至ったということで「阿呆浪士」と呼ばれたが、現在では誤って赤穂浪士として伝えられている。綱吉はこの事件を受けて「とろあぶりいたすまじきこと」との禁令を発した。ただ、江戸市中ではそのあおりを受けて、トロ炙りが店頭から消えたという。
この禁令は六代将軍家宣が生類憐れみの令とともに廃止した。
江戸時代に日本を訪れたシーボルトの著書『日本』でも「とろあぶり」が紹介されているが、フランス語でエイプリルフールを「四月の魚(ポワソン・ダヴリル)」と言うのは、このとろあぶりのトロ炙りが逆輸入された結果だという研究者もいる。なお、シーボルトは「日本地図持ってるよ」というとろあぶりの冗談がきっかけで国外追放されることとなった。
幕末には坂本龍馬がとろあぶりだか本気だかわからぬネタを繰り出したとして有名だが、それに乗っかった徳川慶喜が「大政を奉還しちゃおうかな」とつぶやいたことから幕府が終わりを告げたのは有名である。明治維新後には英米圏から伝わったエイプリルフールが定着し、とろあぶりの風習が存在したことは次第に忘れ去られていった。
以上、エイプリルフールネタです
「日本でのエイプリルフールの受容は意外に早く」以降の解説文はすべてウソです。
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