ハロウィーン

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ハロウィーン(Halloween)は10月31日に行なわれるお祭り。その起源は古代ケルトのサーウィン祭にさかのぼる。収穫が終わり、死者がこの世に戻ってくる日とされていた。後にカトリック教会はこの祝祭の風習を弱めるため、翌11月1日を諸聖人の日(万聖節、All-hallowmass)と定めた。その前日であることから、All-hallowmass eveということでハロウィーンという名称になったものである。

この祝祭はアメリカで独自の発展を遂げた。日本では1990年ごろから非宗教的なお祭りとして一般化しつつある。

ちなみに、メタルバンド「ハロウィン」の綴りはHelloweenである。

ハロウィーンの起源

ハロウィーンの起源は古代ケルト人の祝祭サーウィン(Samhain)にさかのぼる。

2000年間にアイルランド・イングランド・北フランスに住んでいたケルト族は、11月1日に新年を祝っていた。この日は夏と収穫の終わりであって、暗闇、寒い冬、人の死と結びつけられることの多い季節の始まりということになる。ケルト族は新年の前夜、生者の世界と使者の世界の境界が曖昧になると信じていた。10月31日の夜にはサーウィン祭が執り行われた。この日、死者の霊が地上に戻ってくると信じられたのである。異世界の霊の存在によって、災いが引き起こされ、農作物に損害が与えられるだけでなく、ケルトの聖職者であるドルイドたちが未来予測しやすくなるとケルト人は考えていた。厳しい自然界にまったく依存している民族にとって、このドルイドの予言は、長く暗い冬の間の安らぎと指針となる重要なものであった。

このお祭りのために、ドルイドたちは巨大な聖火を焚いた。そして、人々が集まって、農作物と動物をケルトの神々へのいけにえとして燃やした。

祝祭の間、ケルト人たちは動物の頭と皮でできた衣装を着て、お互いに相手の未来を告げようとした。この祝祭の夕方には炉の火を消すのだが、祝祭が終わると、聖火からもらって再び火をともす。これは、来るべき冬の間に守られるためである。

西暦43年までに、ローマ人がケルト人の領土の大半を征服した。ローマ帝国がケルト人の土地を支配した400年の間に、ローマ起源の二つの祝祭が、ケルトの伝統であるサーウィン祭と混じり合っていった。その一つは、10月末のフェラリア祭(Feralia)で、ローマ人が伝統的に死者が通り過ぎることを記念したものであった。二つめは、ポーモーナ女神祭(Pomona)で、ポーモーナはローマの果実と樹木の女神である。ポーモーナのシンボルはリンゴである。そして、この祝祭がサーウィンに混入したために、現代のハロウィーンでリンゴが「吊される」習慣が生まれたものと考えられる。

800年ごろまでに、キリスト教の影響はケルト地域に広がっていた。7世紀、教皇ボニファティウス4世は、11月1日を万聖節(諸聖人の祝日)とした。この日は、聖人や殉教者を讃える日とされた。今日では、教皇はケルトの死者のための祭りに取って代わるものを作ろうとして、死者と関連しているけれども教会が認める祝日を制定したというのが定説である。この万聖節は、All-hallows(オールハロウズ)やAll-hallowmas(オールハロウマス)とも呼ばれた。これは中英語のAlholowmesseすなわち諸聖人に由来する。その前夜、すなわちサーウィンの夜は、All-hallows Eve(オールハロウズ・イブ)となり、それがハロウィーン(Halloween)となったのである。その後、西暦1000年ごろにも、教会は11月2日を諸魂日(諸死者の記念日)とし、すべての死者を讃える日とした。それはサーウィンと同様に、大たき火、パレード、聖者・天使・悪魔の扮装で祝われた。そして、三つの祝典、万聖節前夜・万聖節・諸魂日がハロウマス(Hallowmas)と呼ばれるようになったのである。

サーウィン祭

サーウィン祭は、ケルト人とブリトン人の、収穫の季節の終わりに開かれた祝祭である。主に収穫の祭りであるが、それは死者の祭りという側面も有している。これは古代ケルト人の宗教に起源を持ち、中世を通して祝われ、現代のハロウィーン祭に伝わっているとみられる。多くの学者が、これはケルトの年始であったと考えている。

「サーウィン」という言葉は古代ケルト暦の一つの月の名前で、特にこの月の最初の三夜は、夏季の終わりにして収穫の終わりを祝う祝祭であった。サーウィン祭は「Féile Moingfhinne(モンフィンド祭)」とも呼ばれた。モンフィンド(Mongfhionn)は、サーウィン祭で非キリスト教徒のアイルランド人が崇拝した女神である。このケルトの祭りはカトリックの諸魂日と結びつけられるようになり、現代ではハロウィーンと結びついた非宗教的な慣習に影響を与えているようである。サーウィン祭は、ケルトの風習に基礎を置いたりインスパイアされたりしている新異教主義の様々な流派における近代的な祝祭の名称としても使われている。

ガリア暦は一年を二つに分けていたように思われる。「暗い」半年はSamonios月(10月から11月)に始まり、「明るい」半年はGiamonios月(4月から5月)に始まる。一年は、「暗い」半年から始まると考えられていたかもしれない。そうなれば、Samoniosの始まりはケルトの元日ということになる。新年の祝賀そのものは「Samoniosの3夜」(ガリア語でtrinux[tion] samo[nii])と呼ばれ、秋分と冬至の中間に最も近い月の初めに行なわれた可能性がある。

中世アイルランドで、サーウィンは主要な祝祭となり、タラ宮廷では大会衆とともに三日間祝われた。儀式はTlachtgaの丘で始められ、タラの丘でたき火がともされた。それは、アイルランド中の丘に集まった人たちに対して、儀式の火をともすように知らせる信号灯の役目を果たした。この風習はある程度の期間存続していたが、近年、この祝祭は別の形で復活しつつある。

サーウィンはケルト文学ではケルトの一年の始まりとされ、「ケルトの新年」としての記述が18世紀文学で普及した。このロマン主義ケルト復興運動での用法から、サーウィンは、6つのケルト国家(アイルランド、ウェールズ、ブルターニュ、マン島、スコットランド、コーンウォール)と離散ケルト人を含む現代のケルト文化において「ケルトの新年」とふつうに見なされるようになっている。たとえば、ケルト連盟が発行しているカレンダーは、サーウィンに始まりサーウィンに終わっている。

サーウィン祭は、収穫と死者を扱う祝祭として、いろいろな形で生き残っている。アイルランドとスコットランドでは、「Féile na Marbh」(諸死者の記念日)がサーウィンに取って代わった。

サーウィンの夜、すなわちアイルランド語で「Oíche Shamhna」、スコットランドゲール語で「Oidhche Shamhna」はケルト暦の主要な祝祭の一つであり、10月31日に当たる。それは最後の収穫である。現代のアイルランドとスコットランドでは、ハロウィーンをゲール語で呼ぶ場合にはやはり「Oíche/Oidhche Shamhna」を使う。サーウィン祭に死者のための場所を用意して、その夜に先祖の話をするというのは、一部の地域でなおも習慣となっている。

伝統的に、サーウィンは家畜と穀物の供給を貯める時期であり、どの動物を食べるために殺し、冬の蓄えのために殺さずにおくかを決める時期でもあった。この習慣は、家畜を養う多くの人たちによって今も守られている。厳寒期が訪れて夏草がなくなり、食糧獲得が無理になるため、この時期に肉を確保するのである。

かがり火は過去数世紀を通して祝祭での重要な要素となっており、現在に至ってもケルト国家と離散ケルトの一部地方では行なわれている。村人たちは、殺された牛の骨を炎に投げ入れたという。キリスト教以前のケルト世界では、牛は通貨単位であり、農業と田園生活の中心であった。来るべき冬のあいだ持ちこたえるだけの肉と穀物の蓄えを準備するために、サーウィンは伝統的に大屠殺の時期であった。かがり火とは、ゲール語の「tine cnámh」の直訳である。かがり火が燃え上がるとき、村人たちはその他の火をすべて消した。それぞれの家族は厳粛に共通の火からそれぞれの炉床に火を付けた。こうして村々の家族は結びつけられた。二つのかがり火が並んで焚かれることも多かった。浄化の儀式として、その二つの火の間を歩くのである。牛とその他の家畜が二つの火の間を進まされることもあった。

予言もまた田舎に生き残ったよくあるフォークロアの内容である。最も一般的な方法は、ある人の未来の配偶者の身元、ある人の未来の家の場所、何人の子供を持てるかといったことを告げるものであった。リンゴやナッツなどの季節の食べ物がこの儀式で使われることが多かった。リンゴは皮をむかれ、その皮は肩の上に投げ上げられる。その形から、未来の配偶者の名前の頭文字を読み取るのである。ナッツは炉床の上で焼かれ、その動きを解釈する。もしナッツが一緒にとどまったら、二人もそうなるだろう。卵白が一杯の水の中に落とされる。その形は未来の子供の数を表わしている。子供たちはカラスを追う。何羽の鳥があらわれたか、あるいはその鳥はどちらの方角へ向かっていったかによっても、直感が得られるのである。

フェラリア祭

フェラリア祭(Feralia)は、古代ローマの祝祭であり、マネス(manes、ローマ人の信仰における死者の霊魂)を祝うものである。オウィディウスの詩「暦(Fasti)」第二巻には、2月21日に開かれたと記されている。この日は、九日間(2月13日~21日)に及ぶパレンターリア祭(Parentalia)の最終日で、死んだ祖先のための火である。ローマ市民は死んだ先祖の墓にお供えをした。そのお供えは「花輪のセット、穀物と塩少し、ワインが染みこんだパン、まき散らされたスミレ」などであった。それ以外のお供えも認められていたが、死者をなだめるのは上記のものだけであった。死者へのこれらの質素なお供えは、おそらくアイネイアースによってラティウムに伝えられたものであろう。アイネイアースはアンキーセースの墓にワインを注ぎ、スミレの花をまき散らした。オウィディウスによれば、戦時中にローマ人がフェラリア祭を怠ったとき、死んだ霊たちが怒って墓から立ち上がり、わめき声を上げて通りをさまよったという。この事件後、墓への捧げものが行なわれると、恐ろしい霊の出没は止まったという。公共での哀悼を示すために、どんな種類の結婚もフェラリア祭の日には禁止された。オウィディウスは、この日、母親たち、花嫁たち、未亡人たちがウェディングトーチに火を付けないよう呼びかけている。行政長官はバッジを外し、いかなる神々への礼拝も禁止された。「それは神殿の閉じられた扉の向こうに隠されるべきである。祭壇にはお香はなく、炉床には火がともされない。

アメリカでのハロウィーンの変化

ヨーロッパからの移民がアメリカにやってきたとき、移民たちは様々なハロウィーンの習慣ももたらした。初期のニューイングランドで主流であった確固たるプロテスタント信仰システムのために、植民地におけるハロウィーンの祝祭は極めて限定されたものだった。

これが普及していたのは、メリーランドと南部植民地であった。様々なヨーロッパの民族集団やアメリカ・インディアンの信仰や習慣がかみ合って、ハロウィーンのアメリカバージョンが生まれ始めた。最初の祝祭では、「演劇パーティー」が含まれた。収穫を祝う公的イベントで、そこでは隣人たちが死者の物語を語り合い、お互いの未来を告げ、踊り、歌った。植民地のハロウィーン祭も、怪談を話したり、あらゆる種類のいたずらが特徴的だった。19世紀半ばまでに、毎年の秋祭りが普通に開かれていたが、ハロウィーンはまだアメリカじゅうで祝われていたわけではなかった。

19世紀後半、アメリカには新しい移民が押し寄せた。これらの新移民、特に1846年のジャガイモ飢饉から逃れてきた数百万人にのぼるアイルランド人のために、アメリカ中にハロウィーン祭が広まっていった。アイルランドとイングランドの伝統を受け継ぎ、アメリカ人も仮装するようになり、家々をまわって食べ物かお金を求めるようになった。これが今の「お菓子をくれないといたずらするぞ(トリック・オア・トリート、trick-or-treat)」の風習となった。若い女性たちは、ハロウィーンに、編み糸・リンゴの皮・鏡でいたずらをすれば、未来の夫の名前か姿が感知できると信じるようになった。

1800年代末、アメリカにおけるハロウィーンは、幽霊やいたずらや魔女術よりも、コミュニティや近所づきあいに関わる祝日として作られていく傾向にあった。

20世紀が到来したとき、子供と大人の双方のためのハロウィーン・パーティーが、この日を祝う最も普通の方法となった。パーティーはゲーム、季節の食べ物、祝祭の仮装が中心となった。新聞やコミュニティのリーダーたちは、ハロウィーン祭から「おどろおどろしいもの」や「グロテスクなもの」を取りのぞくよう、親たちに奨励した。その努力によって、ハロウィーンは20世紀初めまでに迷信や宗教の含みをほとんど失ってしまった。

1920年代から1930年代までに、ハロウィーンは非宗教的だがコミュニティの中心に置かれる休日となり、パレードや街規模のパーティーを呼び物にする娯楽となった。多くの学校やコミュニティの努力にもかかわらず、この時期、多くのコミュニティーで破壊行為がハロウィーン祭に蔓延していった。1950年代までに、街の指導者たちは破壊行為を防ぐことに成功し、ハロウィーンは主に若者向けの休日となっていった。1950年代のベビーブームによる幼児数の増加により、パーティーは街の官庁街から、教室や家庭に移行していった。それは容易に順応していった。1920年から1950年の間に、「お菓子をくれないといたずらするぞ」という前世紀の風習が復活した。「お菓子をくれないといたずらするぞ」は、コミュニティ全体がハロウィーン祭を共有するための比較的安価な方法だった。理論上、近所の子供たちにちょっとしたお菓子をあげることで、家庭はいたずらを防ぐことができた。新しいアメリカの伝統が生まれ、それは成長し続けた。今日、アメリカ人はハロウィーンに毎年約69億ドルを使っており、それは二番目に大きな商業的な休日となっているのである。

ハロウィーンの風習の起源

ジャック・オ・ランタン

パンプキンを刻むのは、現代アメリカのハロウィーン祭で人気のある要素である。10月になると、カボチャが国中、戸口から食卓までカボチャだらけになる。毎年秋にアメリカ中で広範囲に行なわれる彫刻であるが、多くの人はいつ、どうしてこのジャック・オ・ランタン(jack o'lantern)の伝統が始まったのかを知らない。それどころか、カボチャが果物なのか野菜なのかも知らない始末である。

ジャック・オ・ランタンはハロウィーンに数世紀にわたって作られてきた。この行為の起源は、「けちんぼジャック(Stingy Jack)」というあだ名のアイルランド神話に由来する。この物語によれば、けちんぼジャックは悪魔を飲みに誘った。名前どおりに、けちんぼジャックは飲んだ分の支払いをしたくないと考えた。そこで悪魔が自分の姿をコインに換えて、ジャックが飲み物を買えるように説得したのである。悪魔がコインに化けた途端、ジャックはジャックはお金をそのままにすることにし、ポケットの中で銀の十字架の横に入れた。そうすれば悪魔は元の姿に戻れなくなるのだ。ジャックは最後には悪魔を解放し、ジャックを一年間悩ませないという約束をした。そして、ジャックが死んだら、その魂を要求しないことも約束したのだった。翌年、ジャックは再び悪魔を誘って、木に登って果物を取らせた。悪魔が木に登ったとき、ジャックは木の皮に十字架を刻んだ。そのために悪魔は下りてこられなくなった。ついに、悪魔はジャックに、10年間悩ませないことを誓った。

そのすぐ後、ジャックは死んだ。伝説に依れば、神はそのようなずるい人物を天国に入れたりしなかった。悪魔は、ジャックがたくらんだいたずらに負かされたため、その言葉を守って、ジャックの魂を要求せず、ジャックを地獄に入れなかった。悪魔は、道を照らすための燃えさしだけを渡して、ジャックを暗い夜の中に放り出した。ジャックは刻みを入れたカブに燃えさしを入れて、それ以来ずっと大地を歩き回り続けているという。アイルランド人はこの幽霊のような人物を「ランタンのジャック」と呼ぶようになった。それは縮まって「Jack O'Lantern(ジャック・オ・ランタン)」となったのである。

アイルランドとスコットランドでは、ジャックのランタンを自分たちでも作り始めるようになった。それは、カブまたはジャガイモに恐ろしい顔を刻み、窓や戸の近くにおいて、けちんぼジャックその他のさまよえる悪霊を脅して追い払おうとしたのだった。イングランドでは、大きな砂糖大根が使われた。

これらの国々からの移民ががアメリカにきたとき、ジャック・オ・ランタンの伝統ももたらされた。移民たちは間もなくアメリカ原産の果物であるカボチャを見つけ、それで完璧なジャック・オ・ランタンが作れることに気づいたのである。

トリック・オア・トリート

アメリカの「お菓子をくれないといたずらするぞ(トリック・オア・トリート、trick-or-treat)」の風習は、おそらく、イングランドにおける初期の万霊節(諸死者の記念日、諸魂日)のパレードにさかのぼることができそうである。祝祭の間、貧しい市民たちは食物を乞うた。それに対して、一家の死んだ親類のために祈ってほしいと言い、その約束のお返しに家族は「ソウルケーク(万聖節のケーキ)」という練り粉菓子を与えたのである。ソウルケークを与えることは、さまよえる霊のために食物とワインを捧げるという古代の習慣に代わる方法として、教会によって推奨された。

この行為は「going a-souling」と呼ばれたが、やがて、子供たちが近所の家々を訪ねて、エールや食べ物やお金を与えられるという風習になった。

ハロウィーンの仮装

ハロウィーンの仮装の伝統は、ヨーロッパとケルトの双方の起源を有している。数百年前、冬は不安定で恐ろしい期間だった。食糧供給は低くなることが多く、多くの人々は暗闇を恐れ、冬の短い日中は絶えず不安に満ちていた。ハロウィーンは霊たちがこの世に戻ってくる期間であると信じられていた。人々は家を離れたら霊に会うと思っていた。この霊たちに覚えられることを避けるため、人々は暗くなってから家を離れるときにはマスクをするようになった。そうすれば霊たちは仲間の霊と勘違いしてくれるだろう。ハロウィーンには、霊たちを家から離しておくため、人々は家の外に食べ物の鉢を置いた。それは、霊たちをなだめ、霊たちが入ってこようとするのを防いだのである。