閾ペディアことのは:中立的な観点

提供: 閾ペディアことのは
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このページは閾ペディアことのはの公式な方針です。運営者が勝手に決め、その方針にのっとって運営されていますので、読者が批評する際にはこの点を知っておかないと話がずれる可能性があります。運営者は必要に応じて編集します。そこには何の合意も事前の打診も必要ありません。

この記事はWikipedia:中立的な観点をもとにして、この閾ペディアことのはに該当するように書き改めたものです。

中立的な観点 (NPOV, Neutral Point Of View) はウィキペディアの根本的な方針のひとつですが、閾ペディアことのはでは中立的な観点などこの世に存在し得ないという方針を採用します。これは、すべての記事を執筆する際に書き手の主観を免れることは不可能であるがゆえに、書こうと思ったテーマの選定から執筆内容、さらに分類方法に至るまですべて、決して中立ではありえず、偏っていることを自覚しつつも、その範囲の中で事実関係ならびに論理的な正確さを求めます。この方針は、記事以外のテンプレート、ポータルなどにも適用されます。閾ペディアことのはの創始者松永英明の言葉によれば、中立的な観点などこの世に存在しないということは「少なくとも私にとっては絶対的で交渉の余地のないもの」“absolute and non-negotiable, at least for me” です。

閾ペディアことのは:中立的な観点などこの世に存在し得ないは閾ペディアことのはの記事における方針の三つのうちのひとつです。ほかの二つは出典があるときには明示する (tracability) と独自の研究は大いに推奨する、です。閾ペディアことのはではこれらの方針を合わせて記事名前空間に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互補完的、議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。これらの方針はほかの二つと切り離して考えるべきではなく、このサイトを評価・批判する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。

中立的な観点などこの世に存在し得ないという声明(オリジナル)

一般利用のための百科事典は、中立的な観点から編纂、収集された知識を集めたものであると標榜していますが、そもそも人が書くものに中立的という立場がありえるのでしょうか。公的機関なら中立ですか? 正史は勝者の歴史と言われていませんか? 当事者ではない第三者なら中立なのでしょうか? そもそも、あらゆる言葉には何らかの評価や価値判断が含まれていませんか? つまり、百科事典に限らず、言葉を使って中立的な観点でものを述べることは、そもそも不可能なのです。

「客観的・中立的に書こうとした文章」自体が、常にある人たちからは偏っている(あるいは極めて好ましい)とされることもあります。また、世の中には、それらの情報が存在することを明記すること自体が中立的とは呼べない場合もあります。また、その項目を取り上げようという考えそのものが何らかの価値判断を伴うものである以上、常に主観を逃れることはできません。

「中立的な観点などこの世に存在し得ない」という観点から、意見や事実について、もちろん、ウィキペディアのような「両論併記」を否定するわけではありません。しかし、ある特定の問題について、この世に存在するあらゆる意見や事実を網羅することはできません。また、多くの人が信じている見解と、ごく一部の少数派の見解を同程度に並列させるならば、一般的な見解からは違和感が生じるでしょうが、その比率を記述上で反映することは不可能です。逆に、当事者・専門家の見解を強調した場合、それは多数の人々の考えを否定することにもなり、「みんなは間違っていて、ここの記述が正しい」と主張することは、もはや中立的な観点ではなくなってしまいます。このように、中立的な観点を保とうとすることがパラドックスを生んでしまうのです。

そして、中立的な観点に基づくウィキペディアでは、「おそらく、ある記述を百科事典向きにあつらえる簡単な方法は、ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書くことでしょう」というジンボ・ウェールズ氏の見解が採用されています。それはまさにウィキペディアをウィキペディアたらしめている考え方だと思われます。

しかし、これは、このように言い換えられます。つまり、百科事典というものは「世の中の見方・意見の集大成であって、真実を究明しようとするものではない」と。少なくともウェールズ氏と、その意見に賛同するウィキペディアンにとって、それに基づいた編集方針が採用されています。

なるほど、百科事典というものは世論調査結果報告、あるいは現代の人々の考えの集積であって、それ以上のものではない、というのであれば、それはそれでいいでしょう。そして事実に関する研究はウィキペディアを基礎資料としつつ各自勝手にやってください、というのであれば、その意義は大きいといえます(し、事実そういうことだと思われます)。ただし、その世論結果調査をまとめるにしても、たとえば設問、たとえば結果の表現方法などにおいて、完全な中立というものは存在し得ないことは指摘しておくべきでしょう。

しかし、「極私的百科事典」と銘打ったこの閾ペディアことのはでは、いかに私が「中立的」で客観的で両論併記的な記述を行なったとしても、私の視点・私の編集・私の見解から逃れることはできません。たとえ読者の意見によって修正・訂正・変更あるいは転向が行なわれたとしても、それはすべて私の主観の中に取り込まれた結果の出力なのです。

したがって、私は私の見解や判断基準について「ここは私的な意見」と明確に主張します。あるいは「ここは私の体験」と主張します。それは、賛同するにしろ反対するにしろ、報道された内容や他の人の発言とは厳密に区別して表現するということでもあります。

もし上の声明を読んで私の考えが価値相対主義か不可知論か選民思想だと思うとしたら、たぶんそれは誤解だと思います。私に尋ねてみて下さい。自分自身が信じていることがら(や、よくわかっていないことがら)を自覚するならば、他の人たちもまたその人たち自身の主観があり、その主観が集積されて「多くの人が信じていること」という雲が生まれているのです。――松永英明 (Matsunaga Hideaki)

注:松永英明は閾ペディアことのはの創設者で、閾ペディアことのはを運営していることのは編集室の個人事業主の筆名である。

中立的な観点などこの世に存在し得ないことについての方針声明(新版 拡張版)

閾ペディアことのはには大切な方針があります:大まかにいえば、全ての観点からの意見を公正に考慮して、偏った観点を排した記事を書くことなど不可能であるから(なぜなら「公正に考慮」にも主観が存在する)、できるだけ事実に即した内容とすることを心がけつつも、その内容が自分の主観に基づくものであって唯一絶対の真実などではないことを自覚し、偏ったものであることを忘れないようにしよう、というものです。これは、記事を偏った「主観的な」観点に基づいてのみ書こうという宣言だと誤解されることもありますが、そうではありません。

閾ペディアことのはの中立性についての方針は、論争についての自分の意見を明確にし、自分の意見には自分自身で責任をとることを述べたのであり、客観性や社会常識といった言い逃れによって自分の判断の責任を逃れようとすべきではない、というものなのです。それは、逆に言えば、他者の意見や見解の存在を自分自身の意見と同程度に認めることにもなります。中立的な観点至上主義者は、個々の意見を軽視します。

中立的な観点からの編集などなしえないのですが、偏った主観を主張しながらも、それを読者に理解してもらい、あるいは賛同・反対その他の反響を得るためには、説得力ある記述が必要となります。それは、実例、実証、適切かつ無理のない論理、事実関係との照合などによって得られます。

中立的な観点などこのように存在し得ないという観点からの記事の執筆は、鍛錬を必要とし、ひとつのアートともいえるものです。

以下のエッセイでは、このポリシーについて踏み込んで説明しますが、このエッセイ自体、多くの経験にもとづく主観の賜物です。あなたがこのエッセイを読み、読んだときに起こったあなた自身の思考を精査し、ご自分の考えをまとめて表現されるなら、非常にうれしく思います。

以下の文章の内容:

  • はじめに:中立性などこの世に存在し得ないという基本的な概念と、何故閾ペディアことのはが非中立的であるべきかについて。中立的な見方などこの世に存在し得ないとは何なのか? 「偏りがある」「非中立的な」というとき、私は何が言いたいのか?
  • 中立性などこの世に存在し得ないというポリシーの言い換え:事実を記述し、様々な意見についての事実も記述せよ、そしてできあがったものが一つの意見であるということもまた忘れるな。
  • 事実関係についての正確さと、他者への敬意を示すこと
  • 芸術作品など、様々な作品の特徴についての意見表明
  • 帰結:自分の考えを自分の考えたとおりに理解してもらうための記述

はじめに:中立性などこの世に存在し得ないという基本的な概念と、何故閾ペディアことのはが非中立的であるべきかについて

閾ペディアことのはの土台となる方針は、あらゆる記事は「偏らざるを得ない」あるいは「中立的な観点から書くことができない」のだから、その偏りを「常に自覚」すべきだ、というものです。これらの考え方は、右派・左派双方の新聞各社がいずれも自ら「公正中立」を主張している世の中では、非常に受け入れがたいものかもしれません。そこで、私がどのように「中立など不可能」という事実を捉えているのかを知ることは、とても重要なことです。このページを丁寧に読めば理解する助けとなるでしょう。

ウィキペディアの単純な定義では、「基本的には、偏りのない(中立的な観点から)記事を執筆するということは、特定の観点からの意見を主張するかわりに、論争における様々な立場を公正に説明することです」と書かれています。つまり、「偏りのない記事を書くことは論争に参加することではなく論争を説明することだ」と主張しています。

その主張を私なりにまとめると、「百科事典は知識の集大成である」「意見・見解には食い違いがある」「人類の知識には、すべてのことなる観点を含めることにする」したがって「両論併記」といわれる方法が推奨されるわけです。つまり、ウィキペディアでは「知識とは、人類の意見をとにかく集めたものである」ということになります。

しかし、果たして「知られている」ことをとことん「偏りのない」「中立的な」態度で書くことができるのでしょうか。あるいは、「網羅」しようとすること自体が中立的ではないと考えられる事態はないでしょうか。

たとえば、オカルト雑誌『ムー』に載った「意見」をすべて「科学的な事象」の場に持ち出すべきでしょうか。「相対論は間違っている」という書籍の内容をすべて「両論併記」すべきでしょうか。逆に、それを「疑似科学」の枠に入れることは「中立的」でしょうか。そうだと考える人もいるでしょうし、そうではないと考える人もいるでしょう。あるいは、疑似科学的な考え方を否定せずに載せることが「疑似科学擁護」だと言う人もいるでしょうし、そうではなく、学会で認められたことだけを載せていることが「NASAの陰謀」だと言う人もいるでしょう。両論併記を始めると、こういうふうに際限なくなってきます。ウィキペディアでは、この場合「中立的な視点」ではなく「科学的な視点」を持ち出すことを認めており、また「疑似科学を否定する科学者の視点」を併記することは問題ないとしています。それは現実的な対応としてはそうなのですが、そもそも「疑似科学」と表現することも、「疑似科学」と表現されることを拒否することも、どちらも「意見」のはずです。そうなると、項目名そのものが問題ともなってくるでしょう。

あるいは「疑うだけなら誰でもできる」のですが、もし疑った人が多ければ、それは記載すべきことなのでしょうか。その疑いそのものが誤った印象を植え付けようとしたプロパガンダであった場合には、たとえそれが「事実ではなかった」と書かれたとしても、はたして「中立的」なのでしょうか。あるいはそれが事実でないと否定されることを目的してあえて流された嘘だったらどうでしょうか。そういうものも「両論併記」すべきなのでしょうか。では、どこからどこまでを妥当な疑いとするのでしょうか。いや、疑われたという事実は厳然として存在するのだから、それによって被害を受ける人がいても表現すべきだというのでしょうか。何もかも「○○と疑う人もいる」「その疑いは事実ではないと述べる人もいる」「それに対して当初の疑いをコピペし続ける人もいる」……それをすべて網羅すべきなのでしょうか。

ここで私はどうすべきだという結論を出すつもりはありません。そうではなく、「偏りのない」「中立的」であろうとすることがいかに困難であるかを述べています。そして、「公共」の「知の集大成」を標榜するウィキペディアでは、困難であってもその方針を貫くことが必要とされることも理解しています。

しかし、私はそれでは物足りないのです。ここに「極私的百科」を打ち立てようとしたのは、自分の主観・自分の判断基準に基づいて編集してしまえ、という発想に基づいています。しかし、それは私的なマスターベーションと言われるかもしれませんが、表現しようというからには、理解される必要が出てきます。そのためには、論拠となる資料を(賛同できるものもそうでないものも含めて)調査し、できるだけ原典にさかのぼり、あるいは当事者に尋ね、その上で判断する必要が出てきます。

このポリシーの基本的な根拠を今一度まとめると:閾ペディアことのはは極私的百科事典であり、自分の知識を整理して表現するものです。しかし、いかに公正・中立・客観の立場をとろうとしても、項目の選定や記載する事実の選定、あるいは編集においては、何らかの判断基準が必要となります。その判断基準はどうしても私的なものとならざるを得ません。そこで、あくまでもその判断基準は個人的なものでしかないことを常に自覚することを最大の条件として、自分の判断基準とその判断結果を示すように、努力します。

中立性など存在し得ないという方針を掲げることにはもうひとつの理由があります。それは、私の示しているものがあくまでも独自の観点であるということが明らかなら、読者もまた独自に自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な多様性を支持することになります。もし私が中立性をかなぐり捨てつつ、何らかの「読むに値する価値」を提供することに成功したら、何らかの前提にたった社会的価値観を強制する人たちは、閾ペディアことのはに反対することになるでしょう。たとえば、ある思想を全面否定しないがゆえに「擁護」している、と主張されることが容易に考えられます。

広範な問題について、自分自身の編集によって、様々な理論を提示し、そして個人の意見を示します。そうすることによって、まず「前提となる判断基準」や「先験的に正しいと考えていること」「先入観」そのものが食い違っている可能性がある、ということを多くの人たちに自覚してもらいながら、読んでもらうことができます。そして、何がどう違うから結論も違ってくる、といった解釈があれば、それは本当の意味で「異なる見解」を理解する役に立つことでしょう。

中立的な見方などこの世に存在し得ないとは何なのか? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?

これらの用語が意味している点は一般的に見て明白ではないし、誤解されやすいものだと思われます。

「偏りのない」「中立的な」という言葉についてはいろいろな妥当な解釈がありえます。ウィキペディアでは「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」すなわち、多数の立場に対して「評価をしない」ということである、と私は理解しました。そして、それはウィキペディアにおいては必要な判断でしょう。

しかし、この極私的百科では、評価を行ないます。「私はこれが正しいと思う」「私はこれが間違っていると思う」「私はこれについてはよくわからない」「私はこれが好きだ」「私はこれが嫌いだ」「私はこうしようと思う」「私はこうしようとは思わない」「これが妥当なときもあれば妥当でないときもある」といった評価を下します。

それは個人的な見解としては当たり前だと思われることもあるでしょう。しかし、私はさらに進んで、その表現が「一般的なもの」としてそうあるべきだという主張はしません。したくありません。つまり、主語の「私は」を安易に「社会は」「世間は」「世の中は」等の、内在しない他者にすりかえるつもりはありませんし、また、「社会」や「世間」や「他者」が「……すべきである」「……と考えるべきである」と主張することもしません。

ただ、私はどう考える、私はどうしようとする、という主張をするのみです。

私には、「自分が」何をどう判断し、どう行動すべきかという内的な規範があります。それを正義と呼ぶ人もいるでしょう。しかし、その「内的な正義」をあたかも「社会的な正義」や「世間の正しさ」であるかのようにすり替え、置き換えて、そして他者に押しつけることはしません。そういう発言はしたくありません。

そのように考えるとき、私がいかに公正中立的に情報を集め、記載しようとしたとしても、両論併記を淡々とウィキペディア的に行なったとしても、最終的にはすべて自分自身に内在する判断基準・価値基準に基づいていることは明らかですし、その基準についての責任を何か他のものに転嫁しないという意思表明として、「中立的ではありえない」「当然、偏ってしまう」と宣言するのです。

ウィキペディアでは、「論争について冷静で、公正で、分析的な描写」をするように主張しています。確かに、それは私も採用したい態度です。しかし、その「冷静で公正で分析的」な態度もまた一つの「偏った私的な視点」であることを主張します。世の中には、「熱心に否定」しなければ偏っていると思われることもあるわけで、そういう場合にどちらの見解が「中立」かという論争をすること自体ばかげています。

偏っているという自覚は、また、誤りに対する指摘を受け入れやすくなります。

この方針の言い換え:事実を記述し、様々な意見についての事実も記述せよ――だが、できあがったものが一つの意見であるということもまた忘れるな。

この方針はしばしば別の言い方で表現されます:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――できあがったものが一つの意見であるということもまた忘れるな。

まず「事実」についての認定は、極めて厳格に行なうべきだと考えています。たとえば、「○○で事故が起こった」ということを新聞で見たとき、事実は「事故の報道についての新聞記事があって、それを私は読んだ」ということです。私は「事故」が本当に報道されたような形で存在したか否かについて、その時点で判断する基準はありません。ただ、その内容が「報道」されたことは事実だと認識します(その新聞さえも幻影だったというような可能性を排除するものではありませんが、それはこの閾ペディアことのはの編集時の思考からは排除します)。

ここで「事故」を事実と言わず、「事故についての報道」を事実とする態度を厳密に貫きます。その事故が「なかった」と言っているのではありません。私が事実として認定するには「まだ証拠が少ない」ということです。その上で「その事故はあったと思う」と発言するのは、私の「意見」です。この時点で、ウィキペディアとの用語の意味のずれが生じていることに注意してください。そして、その事故について多数の発言があるでしょうが、それらの発言が「あったこと」は事実と認められます。そこで発言された内容の是非や真偽については、知ったことではありません。

こういった「事実」と「意見」の切り分けをした上で、ある出来事について「こういうことがあった」というストーリーができあがります。その「ストーリー」は、一般には「事実」と受け止められるでしょうが、私にとっては「事実を推測する意見」です。たとえそれがほぼ間違いないと思われたとしても、思っているのは私です。そこに主体が存在します。ですから、このように保留しつつ、「私にとってのこの出来事のストーリー」に基づいて論述します。それはまさしく、私的な「意見」となるでしょう。

RSSを利用して人気検索キーワードを抽出し、そのキーワードを含むブログやニュースやサイトを列挙するというのであれば、それはウェブ上におけるその時点での「ウィキペディア的な事実の中立的な表記」となるでしょう。しかし、それをわかりやすくまとめるだけでも、どこからどこまで同じ範疇と見なすかにおいて、判断が加わるわけですから、やはり私にとっては「意見」の範疇になります。

ここまで厳密に「事実」と「意見」を切り分けた上で、これらの方針を述べていることをご理解ください。

事実関係についての正確さと、他者への敬意を示すこと

私は少なくとも意図的に「事実」を改変することはしません。たとえば、「死ぬ死ぬ詐欺」と言っている人がいたとして、それを「オレオレ」の響きに引きずられて「死ね死ね詐欺」と書き間違えたとしたら、それは単なる誤記です。たとえそう間違うのが意図的な情報操作だと言われようと、私にはその意図はありませんでしたから、訂正するにとどまります。

あるいは、私の事実関係の認識(上記の言い方に従えば、私の認識=意見となります)に間違いがあるという指摘があれば、それを再検討して、「現実」に即した形に修正します。

ですから、引用は正確に行ない、またそれが「私の意見ではなかった」ことを明確に示すために出典を明記します。このあたりは、普通の論文と同様です。それは、他者の意見を勝手に自分のものとして剽窃しないという意味で、他者への敬意を示すことにもなります。もっとも、場合によっては、あんなのと一緒にしないでくれ、ということもありますが。

そして、引用は、他者の意見をねじ曲げるような使い方をしないように心がける必要があります。もちろん、文脈の違うところで使いたいこともありますが、その場合は文脈が違うと明記すべきでしょう。そして、その他者の意見は、他の文脈あるいは総体的な流れの中で見る必要があるかもしれません。そのため、出典をたどれるようにするのは必要不可欠なことであると考えます。

芸術作品などの特徴に関する意見

これは、もともとが意見・見解なのですから、閾ペディアことのはでは特に問題ありません。そして、取り上げるか取り上げないかという問題自体がすでに意見の一部を構成しています。

ひとつの帰結:書かないのも意見の表明

たとえば、いくら事実であっても、書くことが迷惑をかける事柄というものは存在します。そういう場合は、書きません。そのことによって、すべてを語っていないということが批判されることもあるでしょう。しかし、どこからどこまでを書き、どこからどこまでを書かないというのも、自分の判断基準に基づいた自己責任による表現であると考えます。書かないことの責任も、書くことの責任も、同じく自分にかかってきます。

すべては「文責:自分」なのです。自分で書いたことについて何の責任も取らない掲示板とは違います。(ここは実名・匿名議論とは関係ありません。責任の所在の問題です)

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