文章の目的、約束、用意
- 幸田露伴『普通文章論』第5回
以上、概略を語ったとおり、文章はその目的が異なればその約束が異なる。その約束が異なれば、その用意が異なるというのは自然な道理で、曲げることのできないことである。文章と一口には言うけれども、二種類あることを忘れてはならない。目的の異なる文章は約束が異なり、約束が異なる文章はそれを作る用意が異なるものであるということを忘れてはいけない。名前だけが同じなのに惑わされて、実質が違うものを同じように見てはならない。
さて、この書で論じようというのは、二種の文章の中の一種、すなわち実用的文章についてだけである。詩や小説や劇や詩的散文や、すべてそれらの芸術的文章は除いてしまって、余ったもの、すなわち文章の中の一区画について議論しようとしているのである。決して大胆に文章全体を議論しようというのではない。詩や小説といった美術的文章に比べて、実用的文章ははるかに複雑でなく、また遥かに多岐にわたっておらず、神秘的ではなく、論ずることのできないものではない。むしろ、浅く近く、平凡で、ありふれていて、容易で、簡単で、そして明晰で、説くことができるものである。
しかし、実用的文章はまた美術的文章に比べて、はるかに広大な領域を文化の上に有しているものである。文字が始まって以来、世界の文章の7~8割までは実用的文章ではないだろうか。実用的文章は世界の実質である。美術的文章は世界の色であり、香であるのだ。文章としては美術的文章の方が価値が非常に高いのかもしれないが、必要性がこの世の中で切実にあるという点では、実用的文章こそ美術的文章に勝ること、はるかに遠いものである。
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