実用的文章は手段であって目的ではない
- 幸田露伴『普通文章論』第8回
であるから、実用的文章においては文章は手段である。目的ではない。文章はある意義を表わすまでの手段として用いられるのであって、文章そのものは目的でも何でもない、借り物なのである。
芸術的文章はこれに比べて大いにおもむきが違っていて、その文章を作ることそのものがすなわち目的なのである。
実用的文章はたとえば弾丸のようである。弾丸というものは、その弾丸の使われる理由があって、それから用いられるものである。それと同じように、何かその文章の使われる理由があって、それから書かれるものである。
芸術的文章は、石膏の像や木彫りの置物などのように、そのもの自体が制作される目的として作られるのと同じように、その文章そのものが直接の目的として書かれるのである。
弾丸を飛ばすのは、鳥を捕ろうとか獣を撃とうというためであるし、実用的文章が書かれるのは、後払いの料金の請求であるとか、商品の注文であるとか、何かしらの役目を果たすためなのである。
ここで商売上の後払い料金回収の督促の文章を書くものとしよう。そのお金を手に入れるということが目的であって、文章はただその目的を達するまでの手段とか道具とかいうものにすぎない。すなわち、文章は鳥獣を捕るために用いられる弾丸にすぎないのである。で、弾丸に望むのは、ただその鳥獣を捕るという目的にかなう弾丸であってほしいというだけである。それと同じく、文章に望むこととは、ただその文章を用いる理由となった本来の目的にかなう文章であってほしいというだけである。
この道理をいい加減に見過ごしてしまうと、非常に愚かな結果を生ずるのであるから、十二分にこの点は注意しておかねばならない。
弾丸はただ弾丸であればよいのである。文章はただ文章であればよいのである。しかし、不規則な多角形なのも弾丸ならば、まん丸型なのも弾丸であるが、散弾の理想としては真円形の弾丸がいいというのと同じように、アラの多い文章も文章ならば、よく整った文章も文章であるが、理想の文章としてはよく整った文章がいい。
それだけではなく、同じ散弾でも普通の散弾以上にロンチルド弾((ロンチルド弾……詳細不明))のような精良のものもある。ロンチルド弾は普通の散弾に比べて、体積が同じときには重量が多く、重量が同じときには体積が減る、つまりある方法を加えて圧縮してできているために、届く距離も長く、貫く力も勝るという優等弾である。ちょうどそれと同じように、実用的文章も、実用に使う上で、普通の価値の文章もあれば、卓越して優れた文章もある。そこで、理想としてはそういう文章を書きたい。しかし、忘れてはならないことは、それはただ実用ということにおいて卓越して優れた文章を書こうというのであって、決して芸術的文章を書こうというのではないのである。
- まとまって読みたい方はこちら→普通文章論 - 閾ペディアことのは
- 【広告】★文中キーワードによる自動生成アフィリエイトリンク
トラックバック(1)
午後から頭痛がひどくて寝ていたのだけれど、連れ合いがデジカメのデータを吸い出してほしいというので、コンンピュータを起動。ついでにウェブサイトをチェック。 [http://kotonoha.main.j... 続きを読む
>ロンチルド弾
現代の「タングステン弾頭」、「劣化ウラン弾頭」のように弾の質量が大きな物だったのではないでしょうか。