実用的文章を作るのは容易である
- 幸田露伴『普通文章論』第9回
実用的文章が本来持っている約束はすでに述べたとおりであるが、さて、この実用的文章を性質上から分類してみると、何通りもないものである。
魏伯子((【魏伯子】魏際瑞(1620-1677)、字は善伯、原名は祥。17歳のときに際瑞と改名する。魏禧の兄で、伯子先生と呼ばれる。幼いときから学問を好み、記憶に優れ、兵・刑・礼制・律法の各部門で研究を深めた。20歳のとき、すでに三尺以上の詩文を書いていた。著書に『魏伯子文集』十巻、『雑俎』五巻、『四此堂稿』十巻がある。『与師弟論文書』は中国古代現実主義文学の中の傑作。))が「詩文は情(叙情詩)と事(叙事詩)と景(叙景詩)のどれかである」と言っているが、実用的文章であれば、
- 実用的文章は
- 事を記録する
- 事を説く
- 意を伝える
- 情に訴える
- 以上四種または三種または二種の混合
にすぎないのである。
報告だの記録だの契約だのは「事を記録する」のである。
論難だの解釈だの批評だのは「事を説く」のである。
命令したり主張したりするのは「意を伝える」のである。
勧誘したり陳謝したりするのは「情に訴える」のである。
言い換えれば、芸術的文章が情という経路を取って人の思いに訴えるのとは違って、実用的文章は直接に人の知に訴え、意に訴え、情に訴えるものである。そして、その分量を言えば、知に訴えることが最も多くて、情に訴えることが最も少ないものである。
しかし、人の何に訴えるにしろ、とにかく実用的文章は、記すべき事柄、説くべき理屈、伝えるべき意思、訴えるべき情といった内容がまず存在して、そして後に文章が作られるわけであるから、直接的には何もないところから作り出される芸術的文章とは大いにわけが違って、品物があればそれで場所がふさがるような道理によって、おのずから文章は容易に書かれるべきである。
そう、実用的文章はおのずから容易に書くべき道理があるのである。
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