権利は愛することができる。義務はいとわしい。
- 幸田露伴『普通文章論』第13回
楽しんでことをなすのは、権利を行使するわけである。いやいやながらことに従うのは、義務でやるわけである。一方は自分の花畑を耕すのであり、もう一方は負債を帰そうとするのである。
権利でやることは苦も快であって、義務でやることはどれも苦である。義務ならとうてい耐えることができないことでも、自分の権利でやるとなれば、人はずいぶんこれに耐えるものである。
霜・雪の早朝、寒さが厳しいときであっても、狩猟家などはそれを恐れることがない。ふだんは少しの労働にも耐えられぬ御曹司であったとしても、氷を踏み、風をついてかけずり回るのが珍しくも何ともない。
この道理が表裏をなして、人間の真の勇気の有無を生じ、そしてその勇気の有無の結果が、人々の履歴を光明と暗黒に分けるのが世の常である。
どの道でも、どの技芸でも、卓越した人は、多くは自分のなすべきことを権利として楽しんでやっている人で、地平線以下の人は、多くは自己のなすことを義務としていやいややっている人である。目を上げて世間を見、歴史をひもといて過去を見たならば、この事実が火の如く明らかであると感じない人はいないだろう。いやしくも世の文明に利益を与えた人は、たいてい、権利として楽しんで、自己のことにあたった人ばかりである。
富士山や立山や御嶽山に登る者は、みな息も絶え絶えに苦しみながら登るわけだが、夏休みの娯楽として自分の権利として登るがゆえに、ふつうの人も楽しんで登山する。「お前、富士に登れ」「立山に登れ」「御嶽山に登れ」などという命令を受けて、そして義務として登るものとすれば、どれだけの人が登ることができようか! 途中から下山してしまうのはもちろんのこと、第一歩が縮み、筋骨が萎えて、何合目にもいたらぬうちに止まるであろう。
文明史を飾っている発明家や学者や事務家は、だれもみな厳しい峰を踏破し、艱難を冒した人であって、涙と汗をもって自己の一代記を書きあげたものである。しかし、それはちょうど、富士に登り、御嶽山に登り、立山に登る人が必ず汗をふるい、息を切らせるのと同じである。また、登山者が苦しみながらも自分を奮い立たせるものが心の中にあるように、自ら喜びの思いを抱き、自分の権利として自分のなすべきことをやったのだということは、まったく疑いのないことだ。
碁を囲む者は手近な例だ。ただ単に勝つことをよろこぶだけの者は、まだ本質をつかんでいない人なので論ずるに足りない。しかし、碁が上手な人は、必ず様々な工夫をするのに苦労するものである。そして、そこで苦しむ人こそ、本当に碁を楽しむ人なのである。
いわゆる「笊碁党」というような素人は、苦しむことをしないからいつまでたっても笊碁党なのだが、プロが一着を考え、一子を下すには、30分とか1時間とか半日とか一日とか、苦心惨憺して費やすというのがあたりまえのことである。碁を理解しない者、あるいは理解が深くない者からいえば、その苦しみなどバカバカしいこときわまりないものであるが、優れた碁客はその苦慮(他人から見て、だが)において、技術について言葉にならない妙趣を楽しんでいる。つまり、楽しみつつ苦しんでいるのである。そして、またこうして楽しみながら工夫したところから、さらに強い手を見つけているのだ。
卓越した文章家は簡単に文章を作るのだろうな、と一般人は想像するかもしれないが、その推測は間違いに近い。卓越した碁客は、常に一子を下すにも長々しい苦しみをあえておこなう。それと同じく、卓越した文章家もまた、思いを深め、心を苦しめて、そして一字一句を置くものである。それは、古今の実例が証明しているとおりだ。
つまり、碁客でも文章家でも、技量の優れた人は、労苦の分量が卓越している人にほかならない。言い換えれば、天才というものは、勤勉労苦という犠牲をよろこんで捧げたむくいによって、神から賜わった恩恵であるといっても差し支えないのである。
ただ、そこにおける重要条件は、楽しんでことに当たるか、楽しまずにことに従うか、という一点であって、その一点こそ実に優秀と凡庸との境界線なのである。
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