ブログという「対等な立場のコミュニティ」に上下関係はそぐわない
Proving grounds of the mad Internetというブログのmakiさんからいくつかのトラックバックがあった。主に木村剛関連で書いた記事へのトラックバックである。ただ、makiさんの議論はプログラマー的で一見論理的に見えるものだが、整理の仕方に違和感を感じる部分があり、また、わたしが「木村剛が嫌い」だから叩いているかのような誤解があるようなので、反論をしておこう。「ゴーログがよくない」のではなく、「ゴーログの思想が変」と言ってるのである。
著作権については別記事を書いている途中なので、「Proving grounds of the mad Internet: セマンティック・ウェブの失敗とブログ司会者の必要性」の後半、ブログにおける「司会者」について、まずまとめておきたい。
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(旧: )
■ブログコミュニティのつながり方について
著作権ジャイアニストの理論武装に抵抗する [絵文録ことのは]05-01/24でわたしはこう書いた。
木村剛氏の「ブログコミュニティ」構想について大きな問題がある。それは、本来の文中リンク・参照・引用とコメントやトラックバックによって構築されるブログコミュニティには「司会者」の存在は想定されていないにもかかわらず、木村氏はそのコミュニティの「司会者」あるいは「主催者」になりたがろうとしている、ということだ。
本来のブログコミュニティは、記事と記事のつながりによって自然発生的に生まれた「網」であろう。いくつかの情報の集結ポイントはあっても、基本的に分散型のネットワークである。しかし、木村剛氏のブログコミュニティは、週刊・木村剛を頂点とした中央集権型ネットワークなのだ。
ここで「司会者」という言葉を使ったが、この言葉にあまり縛られないでほしいものだ。makiさんは司会者を
- (x)ミニマリスト
- (y) 調整者
- (z) ゴーマン
の3種類に分類して論を進めているが、わたしの想定していた「司会者」とズレが生じているので、以下、この分類をとらず、当初の論から進めていきたい。
まず、木村剛氏の目論見として、マスメディアに対抗するブログコミュニティを作っていこう、という発想がある。ここにまず違和感がある。ブログはマスメディアと対抗・対立するものか否かというのは別として、そういうコミュニティとしてのブログをだれかが音頭を取って作ろうということ自体に違和感があるのだ。たとえ木村剛氏でなくても話は同じである。
たとえば、マスメディアに対抗するブログコミュニティというものが注目されたのは9・11以降のウォーブログと言って差し支えないだろうが、このとき、「マスメディアの情報は恣意的だ。俺たちが見てきた事実をマスコミにぶつけてやれ」ということをプロパガンダした人間はいない。ただ、多くのアメリカ人ブロガーが自分の見たこと、聞いたこと、体験したこと、撮った写真をブログにアップし、公開した。そして、それがつながっていった。もちろん、その中にはまとめブログもあっただろうし、発言力の大きなブロガーもデビューすることにもなった。だが、そういうブロガーたちは決して「コミュニティ」を作ることを目的としていたのではなく、ただ情報を提供し、情報をまとめ、議論をするという情報の網の目を作り上げていく作業の中で、自然にマスコミにも対抗しうるだけのブログコミュニティが結果としてできあがったのだ。
つまり、わたしが言いたいのは、「コミュニティを作ることを先導するリーダーとなろうとすること」に違和感があるということだ。木村剛に仕切られるのが嫌とかそういう次元の話ではない。コミュニティを作ることを目的とし、そのコミュニティの情報の裁判官として君臨することを目的とする発想に対して違和感があるのだ。
■ブログの情報網の作られ方
ブログ界における情報の網はどのようにして構築されるか。
基本形は、ブログの記事間の参照である。つまり、「こんな記事があったよ」あるいは「この記事について自分はこう思う/こういう追加情報があるよ」という紹介(リンクと引用)だ。トラックバックや、他のブロガーによるコメントもこれに含まれる。すなわち、他のブログ記事への「言及」が、ブログ界における情報網の「糸」に当たる。
一つのブログの内部でさえも、カテゴリ分けや過去記事参照などによって網になっている。その網上にあるそれぞれの記事から、さらに他のブログの記事へと糸が伸び、全体として巨大な網ができている。
というと別にブログに限らず、WWW上のページすべてが多かれ少なかれそうなのだが、ブログの場合は基本的に他人に言及し、他人から言及されることが非常に多いのが特徴だから、ここではブログの網の目に限定して話を進めよう。
この網の目は、ごく自然に発生するものである。そして間違った情報が広まることもあれば、それに対して「真実はこうだ」という記事が書かれて、それもまた広まっていくこともある。
中には、多くの糸が集まってくるブログもある。発言力あるブロガー、影響力の大きなブロガーも存在しうるし、いわゆる「アルファブロガー」のように多くのブログが参照するブログの書き手も登場するだろう。そのことをわたしは否定しない。
だが、これらはあくまでも「情報」そのものにおける「影響力」や「発言力」である。ウェブログコミュニティそのものでの発言をどうこうしようというような「影響力」や「発言力」ではない。
木村剛氏がたとえば経済その他のことがらについて経験と知識に基づいて鋭い提言をして、その発言そのものによって「影響力あるブロガー」となるのであれば、それは大歓迎である。たとえ意見が違う人がいようが、それは問題ない。問題なのは、そういう次元とは別の次元で、つまり「ウェブログ界における情報覇権」を狙ってブログ企画を展開していることなのだ。
司会者的といえば、ブログ界には自然発生的に、ブログ情報をまとめるブロガーも登場するはずだ。わたしも「上位100ウェブログを片っ端から紹介するよ」ではまとめ情報を提供したし、いわゆる「まとめサイト」や、最近話題のネタを自動的にピックアップするblogdex / blogmap、あるいはウェブログ図書館といった試みがなされるのも当然のことだろう。しかし、これらは「情報」そのものをまとめるものである。決してウェブログ界そのものを「仕切る」ことが目的ではない。あくまでも道しるべなのである。
■ブログというもののメディア特性
もし木村剛氏があくまでも自分のブログのコンテンツを充実させるために投稿を募集しています、というスタイルを主張しているのであれば、それはご自由にどうぞとしか言いようがない。雑誌だってラジオだって読者/視聴者からの投稿で成り立っていたりするし、その著作権は出版社に帰属するものとされていて、それでいて投稿者は権利侵害だの何だのとわめいたりはせず、採用されることに快感を覚えている。それはそれでいい。
「週刊!木村剛」があくまでもネットの1サイトとして、熱心な読者からのメール投稿を転載しますというのであれば、だれも文句は言わない。だが、それをウェブログ界という開かれた場所にそのまま当てはめようとしたところに、ブログというもののメディア特性を理解していない不協和音が生じたのだ。
makiさんは「自分のエントリが主で、他人のエントリが従」というのが「ごく普通のブログ」と書いているが、それは当たり前の話である。いや、むしろこれは重要なのだが、ブログサイトそれぞれにおける独立志向は非常に強い。
そして、紙媒体、あるいは伝統的なテレビ・ラジオなどと大きく違う点がある。それは、リンクすれば参照先の内容がすぐに読めることだ。論文に「参考文献」と書いてあっても、その参考文献を読むにはかなりの苦労が必要だが、ネットではリンクをたどれば(リンク切れしていない限り)すぐに読める。ということは、文章を書く場合に必要最小限のポイントさえ引用すれば、あとは「原文はここで読めるよ」と示せばそれで済むわけである。
このリンクの特性は、ブログにおいて非常に重要だ。相手の独立性を保ちつつ――つまり相手ブログをあくまでも自分の中に取り込むことなく――それでいてしっかりとした連携が作り出されている。
つまり、ブログコミュニティとは、相手のブログの独立性を保ちつつ、自然発生的に結びついてできたもの、いや、今も作り続けられているものなのである。
したがって、相手のブログを転載という形で取り込むということがすでに「ブログでやることではない」。ブログと名乗らず「投稿サイト」というなら別に目くじらを立てないが、「俺こそが対マスコミ専用ブログコミュニティを作っていくパイロットだ」というような態度を示すものだから、「あんた、そんな発想じゃブログってものを生かせてないよ」という意見を述べさせてもらっているわけである。
■対等の関係のブログコミュニティに上下関係を持ち込む木村剛
と、ここまで読んでいただければ、makiさんの記事で「ブログに司会者は出てくる」とか「松永だって司会者じゃないか」と主張されている内容と、わたしが木村剛批判のスタイルを借りて主張したかったこと、つまり「ブログ界をだれか一個人が支配しようとしても、それは無理」ということは、話している対象がまったく違うということが理解されると思う。
ブログ界というのは、良くも悪くも「民主主義的」だ。それは烏合の衆だったり衆愚だったりもするだろうし、レミングのように有名人ブログに押し寄せたりするかもしれない。そして、その中で光る記事を書いて目立つようになるブログも現われるだろうし、面白いブログとつまらないブログ、影響力を持つブログと場末のブログといったブログ間格差も生まれてくるだろう。しかし、それらの「強いブログ」は、何も他のブログを下に置くとか、従えようとするわけではない。縦横に張り巡らされたブログ間連携の糸が集まっているというだけで、それ以外の点ではまったくもって独立独歩、他のブログと対等の関係である。
だが、他のブログを自分のブログへの記事提供情報源として従属させることを目指すブログが登場した。それが週刊!木村剛だ。「自分のブログが主、他のブログが従」というのは、自分のブログ内ではどこでも当たり前だが、週刊!木村剛は「週刊!木村剛が主、それ以外のブログは投稿ネタ元、意にかなった記事はほめてつかわす」というふうに、主従関係・中央集権的な構造をブログ界の中に持ち込もうとした。
だから、木村剛氏のやろうとしていることはブログ界に受け入れられないのである。
■補記。
このブログの記事の個々の見出しにはそれぞれアンカーが入れてあるので、特定の見出しにリンクしたい場合は直接リンクが可能です。
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(旧: )
木村氏が言う通りにブログがマスメディアカウンターになるのなら、コミュニティを作ってもコミュニティカウンターになるだけですわな。
まあ、ヲチする方としては「木村帝国(エリート多いが、無難過ぎ)」と「在野(玉石混交。でも、マイノリティ志向の観客のおかげで生き残る)」という風になって、
ひっきりなしにバトルやら論争やら起こるようになったらそれはそれで楽しいですが。
はじめまして、高尾と申します。歴史ブログを運営しています。
わたしのブログも木村剛さんのブログに紹介されたことがあります。
わたしはブログ同士の繋がり方は、いろいろではないかと思っています。小生、上下関係があることも、たいしてマイナスとは思っておりません。引用方法についても議論がありましたが、さいきんは引用の作法も木村さんのほうで整備なさったようです。
わたしはココログですが、もしniftyにわたしのブログが取り上げられて宣伝されても、正当な取り上げ方ならば、悪い気はしません。木村さんのブログもそれと同じ感じにみております(実際、木村さんのブログは、かなりniftyが肩入れしているようですね)。
どういうかたちであれ、おもしろいブログを紹介してくれる「権威」みたいなものは、あってもいいかなあと思います。「褒めてつかわす」でも一向にかまわない。そのかわり、「褒めてつかわす」ひとは、ブログを正当に評価する目が必要です。その目があるかどうか、かなりシビアにみんなから監視をうけているのではないでしょうか。
するどい論説、たのしみにしています。ブログ入門の本も、興味深く拝読させて頂きました。
はじめまして。
読んでいて感じたのですが、
・結果的にコミュニティとして捉えられる
・コミュニティとして構築する
の二つが違うということなのでしょうか。
最近の攻殻機動隊で言われてたSTAND ALONE COMPLEXを思い出しました。チームプレイは存在せず、個の能力を発揮することによって生まれる緩やかな連携。