ヨーロッパ最古の文明――欧州先史時代史を書き換える大発見(詳報)

 150以上の神殿跡、欧州最古の文明か…英紙報道(読売新聞2005年6月12日)という報道があった。英国インディペンデント紙の独占報道であるが、ヨーロッパ先史時代の歴史を大きく書き換えることになる発見のようである。

 というわけで、例によっていつものごとく、報道の原文を全訳してみた。Google Newsで検索した限りにおいては、世界各地の報道もすべてこのインディペンデント紙の報道の後追いのようである。関連記事は二つあるので、どちらも訳しておく。

2005年6月13日04:00| 記事内容分類:世界史| by 松永英明
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発見:ヨーロッパ最古の文明

 考古学者はヨーロッパ最古の文明を発見した。これはストーンヘンジやピラミッドよりも2000年古い多数の寺院のネットワークである。

 150以上の巨大建造物が、現代のドイツ・オーストリア・スロヴァキアの平原や都市の地下に眠っていた。これは今から7000年前、紀元前4800~4600年に作られたものである。本日弊紙「インディペンデント」によって明らかにされるこの発見は、ヨーロッパ先史時台の研究に革命を起こすことになるだろう。有史以前のヨーロッパにおいては、巨大建造物を造ろうという動きはメソポタミアやエジプトより遅れて始まったとされていたからだ。

 合計で150以上の寺院が見つかった。土と木から造られた寺院は、最高で半マイル(800m)広がる城壁と柵を備えていた。これを建てた人たちは、村本体のまわりに集まった長さ50メートルに及ぶ共同住宅に住んでいた宗教家たちである。その経済はウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタの畜産に基づいていたことが証拠からわかる。

 その文明はおよそ200年後には滅んだようである。この最新の考古学的発見は非常に新しいため、この寺院建築文化にはまだ名前がついていない。

 発掘は過去数年にわたって行なわれてきた。そして、中央ヨーロッパ全体には航空写真から発見された似たような複合建築があり、年代がほとんど特定されてこなかったのだが、それらの複合建築の再評価のきっかけとなったのである。

 これら数百の非常に古い巨大宗教センターは、それぞれ最高150メートルに及ぶが、これは今のオーストリア、チェコ共和国、スロヴァキア、東ドイツに及ぶ400マイルの帯沿いに建てられた、と考古学者たちは今考え始めている。

 これまで発掘されたなかで最も複雑なものは、ドレスデン市内のもので、2つの柵、3つの土の堤防、4つの溝で囲まれた神聖な内陣のようにみえる空間がある。

 これらの巨大建造物は、大陸中央部で農耕文化が最初に打ち立てられた後、併合と成長の時代に関連する現象であるようだ。

 この新しく発見された新石器時代初期の巨大建造物現象は、勃興してきた新石器時代の部族あるいは部族連合、おそらくはヨーロッパ最古の小国家同士の規模拡大――ならびに競争――の結果ではなかろうか。

 比較的短い期間――おそらく100~200年――の後、こういったものを造る必要性や、社会・政治的な能力が失われ、この規模の巨大建造物は3000年後の青銅器時代中期まで登場することがなかった。この巨大建造物文化がなぜ崩壊したかは謎である。

 これらの巨大な石器時代寺院の過去3年にわたる考古学調査によって、他にもいくつかの謎が明らかになった。第一に、それぞれの複合建築は数世代、おそらくは最大100年しか使われなかった。第二に、中央の神聖な区域はほとんど常に同じ大きさで、1ヘクタールの約3分の1(=1010坪)だった。第三に、それぞれの円形の囲い込みの溝は、その直径にかかわらず、同じ量の土を掘り込んであった。言い換えれば、それぞれの溝の深さや幅は、土の量(ならびに必要な時間)が一定になるように、直径から逆算されていたということになる。

 考古学者たちは、これはそれぞれの土木作業で、定められた人数の専門作業者が定められた日数で行われたためであったと考えている。それは、ある種の宗教的カレンダーの儀式的な必要性を満たすものであったかもしれない。内陣を「守」っている堤防、溝、柵の複合されたシステムは、防御目的のために造られたようには思われない。「内陣の聖域」で執り行われた神聖でおそらくは秘密の儀式をふつうの部族民から見られないようにするためのものであっただろう。

 これまでの調査によれば、それぞれの宗教的複合建築は役目を終えるときには儀式的に退役させられ、引き続いて掘られていたそれぞれの溝が意図的に埋められていた、ということがわかっている。

「わたしたちの発掘は、これらの初期農業共同体が、ヨーロッパで初めて、本当に大規模な土工複合建築を作り出すだけの巨大なビジョンと精巧さを備えていたことを明らかにしたのです」

 と語るのは、上級考古学者で考古学調査を指揮してきたザクセン州庁遺産課ハラルド・シュトイブル(Harald staeuble)である。最近発掘された遺物の科学調査はドレスデンで行なわれている。

 巨大な円形寺院を建てた人々は、現在の北セルビアとハンガリーのドナウ平原から何世紀も前に到着した入植者の子孫であった。寺院を建築した者たちは、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタの大群を率いる牧畜民だった。石、骨、木の道具を作り、人間や動物の小さな土器の像を作っていた。幾何学的装飾のほどこされた土器を相当な量生産している。そして、大規模な村の巨大な共同住居に住んでいた。

 ライプツィヒ近郊のAythraにあった一つの村複合建築と寺院は、25ヘクタールの広さがある。200の共同住居が発見された。人口は最大300人で、15から20の非常に巨大な共用建物から成る高度に組織化された居住地に住んでいたのである。

7000年前の寺院は、ヨーロッパの精巧な文化をどのように明らかにするか

 現在のドレスデンにあるNickernの寺院建設は、ヨーロッパの最初の文明社会が、古代人による自然征服の最前線にあったことを示している。

 エジプトの最初のピラミッドが建造されるより2000年ほど前、文字通りに、また比喩的にも、ドイツの森からパキスタンの平原にいた人類の最大の関心は、土地に根づくことであった。

 考古学的な証拠によれば、紀元前5千年紀まで、インド亜大陸北西部のバルチスタンにあるメールガル(Mehrgarh)遺跡や、メソポタミアのサマランス(Samarrans)といった地域にいた民族は、農耕と定住共同体を作り上げていたことがわかっている。

 エジプトでは、亜麻、綿、大豆といった穀物は紀元前5000年ごろの村でも栽培されており、その村ではヒツジやヤギの群れも飼われていた。ニューギニアでの初期の農耕の痕跡が見つかったことから、同じころから地球の反対側でも人類はその歴史を刻み始めていたことがわかる。

 ワシントン大学の人類学者ジョン・ロバートソン(John Robertson)博士はこう語る。

「この時期についてはまだわからないことがたくさんありますが、人類は狩りをしてその肉を食べるという段階を越えていました。

 世界中で、人類は自分の周囲の環境を組織化したり削ったりできるもの、つまり耕すことのできるものだと見なし始めていたのです。それは深遠な変化です。そして、それでも自然に対する敬意という生来の感覚は消えることはありませんでした。

 ですから、最古の文明社会は、多くの場合、大きな努力を払って巨大建造物などにそれを反映させていったのです」

 この時代のメソポタミア初期の神殿のように、神聖な場所を造ろうという動機は、中央ヨーロッパで発見された巨大建造物の背後にもあるようだ。

 残された証拠は不充分だったため、考古学者は最古の農業共同体の発達について、正確に示し、概説しようと努力してきた。しかし、ヨーロッパの状況について描かれてきた図といえば、だいたい現在のイラクにあたるメソポタミア地域に起源をもつ農耕文化が、中東地域を越えて、ヨーロッパに向かって広がり、それが次第に洗練されていった、というものであった。

 オークニー諸島のKnap of Howarのような複合石造建築群など、北西ヨーロッパで見つかる古代住居跡は、紀元前3500年ごろのものである。

 しかし、石は頑丈であり、同じ場所に留まりやすい。それとは対照的に、オークニー諸島の建築よりも1000年以上前のNickern寺院を建てた文明社会では木材と土を使っていたため、考古学者がその技術力の程度を見極めるのは難しかった。

 オックスフォード大学考古学教授Andrew Sherrattはこう語る。

「これらの建築物の遺跡というものは穴の跡ばかりだというのが問題でした。それを再建してみてはじめて、その文化が精巧な性質をもっていたということがわかってきたのです。

 ドイツで見つかったものは、この時代にちょうど農耕を始めたばかりのブリトン人なら、びっくりしてしまいそうなほどのものです。しかし、メソポタミア人にとっては、頑張れよと肩を叩いてやるようなものだったのでしょう」

 Nickern円形建築の正確な性質は謎のままだが、この証拠はその持ち主が精巧な技術を持っていたということを示している。

 古代エジプトのアル・ファイユームの村では、死んだ家畜は亜麻布にくるまれて共同体の近くに埋められていた。古代エジプトのそれ以降の証拠によれば、この行為に伴う信仰が複雑なものであったことがうかがえる。

 このような行為を促した信仰がどのようなものだったかという証拠はほとんどないが、Nickernで自分たちの信仰の場所を構築していた人たちは、人間や動物の土器の像を作っていた。それはバルチスタンのメールガルの住人と同じである。

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