グルジア/南オセチア問題についての歴史的経緯についてわかりやすくメモ
グルジア/南オセチア問題についての歴史的経緯について、自分にとってわかりやすいようにとりあえずメモしておく。
■グルジアの歴史
グルジアはカフカース山脈の南、黒海東岸にある。
4世紀にはキリスト教が伝わり、後にグルジア正教会が独立した。国名のグルジアは、キリスト教の聖者で龍退治で有名なゲオルギウスに由来する。グルジア人自身は国名をサカルトヴェロと呼ぶ。
12世紀、タマラ女王の支配するグルジア王国は、ザカフカース(カフカース山脈南麓)全域を領土とし、文化的にも最盛期を迎えた。
19世紀初頭、南下してきたロシア帝国によって東部が併合される。1878年にはグルジア全土がロシア帝国領となった。ロシアはカフカース諸民族に対して徹底的な植民地政策をとり、ロシア化を強要した。このため、グルジア人は歴史的に反ロシア感情が強い。
各地で農民や労働者による反ロシア運動が展開され、特にロシア革命前後は本格的な武装蜂起があった。1918年5月、グルジア共和国独立宣言を行なう。
1922年、グルジア共和国はスターリンによって打倒され、アルメニア/アゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国としてソ連に加入させられた。
1936年、ザカフカースはグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの3国に分割。連邦構成共和国として独立したが、その後、連邦中央と対立を繰り返し、完全独立を悲願としてきた。
1991年4月9日、一連のソ連邦崩壊の流れの中で、グルジア共和国独立。その後、大統領派と反大統領派が内戦を繰り広げる。また、旧ソ連加盟国との結びつきを政治的・経済的に断ったため生産力が低下した。このため、経済的に行き詰まったグルジアから独立しようとして、南オセチアやアブハジアの民族運動が激しくなった。さらに、この独立運動にロシアが介入してきたため、ロシアとの関係もさらに悪化した。
■オセチア
イラン系のオセット人は、カフカース山脈の北と南の北オセチアと南オセチアに居住していた。
オセット人はロシア帝国の南方進出に協力した。このため、グルジア人は、親ロシアのオセット人に反感を抱いている。
スターリンの分割統治政策により、ロシアに属する北オセチア自治共和国(1924)と、グルジアに属する南オセチア自治州(1922)に分割された。
■北オセチア
1991年、ソ連邦崩壊とともに、北オセチア自治共和国は北オセチア共和国に昇格。
1992年3月、北オセチア共和国はロシアの連邦構成主体となった。
チェチェン・イングーシ共和国との間に領土問題がある。
■南オセチア
1989年ごろから、グルジア共和国のグルジア民族主義に対して、オセット人の反発が高まる。南オセチア自治州を自治共和国に昇格させるよう求めるが、却下。
1990年、オセット人側は南オセチア共和国への昇格を宣言するが、グルジアでは南オセチア自治州の廃止が決定され、オセット人に対する武力弾圧が行なわれる。
1991年~92年、南オセチア紛争。
1992年、シェワルナゼがグルジアの国家評議会議長に就任。シェワルナゼは大統領派を攻撃するために、親露方針に変更し、エリツィンと南北オセチア指導者との会談で南オセチア停戦が合意に至った。
1993年11月2日、南オセチア共和国最高会議が憲法を採択し、独立記念日とされている。しかし、その独立は国際的には承認されていない。
2008年8月7日、グルジア軍が南オセチア「自治州」に侵攻。グルジアの主張によれば、これは内政問題ということになる。翌8日、ロシア軍が自国民の保護を主張して南オセチアに軍隊を派遣。ロシア軍とグルジア軍の戦いが始まる。13日、ロシアとグルジアが和平案に合意した。
■それぞれの視点
- 南オセチア:ロシア連邦に属する北オセチアとの統合を望んでいる。グルジア文化を押しつけられたくない。
- グルジア:南オセチアの独立は分離独立主義であって認められない。ロシアは内政干渉。
- ロシア:オセット人の自治を尊重し、親ロシアのオセチアをロシアに取り込めば、グルジアの中にくさびを打ち込むことができる。
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