映画「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」試写会:★★★★★
2ちゃんねる掲示板投稿がもとになった映画「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」の試写会に呼んでいただいたので、先月末に観てきた。
「平成の蟹工船」みたいな見方もあるようだが、同じように劣悪な労働環境を扱っていても、「蟹工船」とは大きな違いがあるように感じた。いわゆる「プロレタリア文学」的な「階級闘争」ではなく、「個々の成長」によって問題を解決するという非常に現代的な流れを描いている。それは、いわゆる労働運動家や活動家にとっては物足りない解決策だろうが、私にとっては非常に好感のもてるものだった。
娯楽的な映画としても楽しめるという意味で、これは観て損のない映画だと思う。以下、感想。できるだけネタバレしないようには努めたが、気になる人はご注意ください。
- 監督:佐藤祐市
- プロデューサー:井手陽子、稲田秀樹
- エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎
- 原作:黒井勇人
- 脚本:いずみ吉紘
- 撮影:川村明弘
- 美術:太田喜久男
- 編集:田口拓也
- 音楽:菅野祐悟
- 製作国:2009年日本映画
- 上映時間:1時間44分
- 配給:アスミック・エース
作品の経緯
もともとは2ちゃんねる投稿ならびにそのまとめサイトが原作となっている。
これは、中卒ニートから心機一転ブラック会社に勤めることになったプログラマーが、数々の苦難に翻弄されながらもそれを乗り越えていく一大叙事詩。
これから社会に出る人、いま社会に出ている人、そして社会から取り残されたニートたちに送る、今冬一押しの感動巨編です。
ニートだった投稿者が、プログラマとして就職したのは、ブラック会社だった。
ここでいう「ブラック会社」というのは「社員を奴隷のようにこき使う会社」である。「就業規則があるにもかかわらず、残業が当たり前」「何日も徹夜が続く」「社内に情緒不安定な社員がいる」「必要経費が一切認められない」「同僚のスキルが異常なほど低い」「従業員の出入りが激しい」といった条件に当てはまれば、ブラック会社。
そんな中で働いてきたプログラマが、ついに「もう俺は限界かもしれない」と、今までを振り返って2ちゃんねるに投稿した。それがこの原作だ。
そこに書かれた内容がどの程度フィクション/ノンフィクションだとか、そういうことははっきり言ってどうでもいいことだと思う。文章化する時点ですべての事実をありのままに書くなど不可能だし、また「事実なら感動するが、少しでも作り話が入っていれば騙された気がしてムカツク」などという考えもおかしいと思うからである。
また、「電車男」のときは掲示板への投稿に呼応して行動を決める(という設定)があったため、一応は掲示板ユーザーと投稿者のコラボレーションによってストーリーが生まれた(という設定になっていた)が、こちらの「ブラック会社」は、限界寸前の段階で過去を振り返る形で投稿者が書き込んでいるため、掲示板ユーザーはストーリーには特に関与しない。ただ感想や突っ込みを入れるだけである。この点もまとめwikiでは問題視されているようだが、それもどうでもいいことである。
というわけで、これは書籍化もされている(近々文庫判も出る模様)。
それが今回映画化されたわけだが、私は試写会に行くまで、この本もサイトもまったく目を通していなかった。そういうサイトがあるらしいという情報を軽く目にした程度で、内容についてもまっさらの状態で試写会に向かったのである。
映画「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」
8月28日。試写会のための資料類をもらって、最後列中央(映画を観るときはこういう席が好みだ)に座った。始まる前にざっと設定資料等を読む(後日送られてきた映画パンフに書かれた内容+αといった情報)。そして間もなく上映が始まった。
元ニートで、よくわからないまま状況に放り込まれ、その中で暗中模索していく主人公「マ男」を、小池徹平が演じる。決してヒーロータイプではない。ちょっと情けないところもあって、本当にどこにでもいそうな、それだけに感情移入しやすい等身大キャラクターとして描かれている。
暴君ともいえる「リーダー」は品川庄司の品川祐。現場における恐怖のデスマ(デスマーチ)を作り出す元凶として、その絶対者ぶりを発揮する。その太鼓持ち井出(池田鉄洋)は映画版ではガノタの設定。ファーストガンダムの台詞が次々飛び出すのに思わず吹き出す。
こんなブラック会社にいるのが不思議な人格者にして智慧者、平成の諸葛孔明こと「藤田さん」(田辺誠一)。彼の存在がなければ、「マ男」も、そしてこの映画自体も救いのないものになっていただろう。
恋愛一直線の派遣女性社員・中西さん(マイコ)、挙動不審な上原さん(中村靖日)も存在感が大きい。そして、野心を抱いて入社するエリート木村くん(田中圭)。本当にヒルズとか汐留にいそうな感じのプログラマっぽい雰囲気をよく出している。
原作には登場しないお局様・瀬古(千葉雅子)も、めちゃくちゃに思えそうなストーリーにリアルさを加えている。そして諸悪の根源である社長(森本レオ)の温厚さが恐ろしい。登場人物すべてのキャラの立ち方がすばらしい。
スクリーン上では、戦闘ゲーム画面のようなデスマーチシーンや、レッドクリフ風に「無駄にスペクタクル」な映像も登場し、娯楽映画としても遊び心満載である。ストーリーもテンポ良く展開していく。
ストーリーに関わるネタバレは避けるが、1時間44分の上映時間は長く感じられなかった。
平成の蟹工船はプロレタリア文学ではなかった
「現代の蟹工船」とも称されるこの作品だが、おそらく「プロレタリア文学」としての蟹工船とは対極に位置する。
つまり、この作品では、決して「ブラック会社」そのもの、あるいはブラック会社の黒幕である社長、あるいはブラック会社を生み出す二次・三次の下請け構造といった社会そのものに矛先が向けられることはない。雇用主に対して待遇改善を要求するわけでもなく、リーダーや社長と対決するわけでもなく、あるいはこのようなデスマを生み出す発注元会社との関係改善に向かうわけでもない。この会社がこれからも「ブラック会社」であり続けるだろうことは、スタッフロール後の(ある意味最も恐ろしい)エンディングシーンからも明らかである。
おそらく、プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争を原則として考える旧来の「労働組合」や「労働運動家」から見れば、このような作品は生ぬるく、場合によっては「搾取された労働者を諦めさせる」かのような許し難い作品と映るのではなかろうか。
しかし、わたしはそれがこの映画のよいところだと思う。平成の現代、もはや「搾取する雇用者 vs 搾取される労働者」の闘争だの「利潤追求の大企業は悪、か弱き消費者が正義」といった二項対立は、完全に時代遅れである。
この映画では、現代の一部企業の過酷な労働環境をリアルに描き出しつつ、その解決策は、登場人物たちの内心の変化に求められる。決して、リーダーや井出、お局といった「搾取側の立場で同じ労働者を虐待する上位労働者」たち、あるいは権力欲・出世欲のかたまりである木村くんを倒すのではない。本音のぶつかり合いによる連帯感を生み出すことで、彼らさえも戦友として巻き込んでいくのである。人間関係を変え、それぞれの自覚を促すことで、最悪の戦場を、人間的成長の場に変えてしまう。仕事の押しつけあいが当然で殺伐とした職場を、仕事のつらさそのものは変わらなくても、自分のやることをこなした上でお互いに協力し合える場所へと変えてしまう。労働環境やつらさは変わっていなくても、それは一つの大きな救いとして描かれている。
社会構造の変革や、搾取・被搾取の関係の改善ではなく、「成長」できるか否かがポイントとなっているのである。同じ環境を「限界」と感じる状態から、「まだ頑張れるかも」に変わること、すなわち主人公の成長こそがテーマとなっているのである。
ブラック会社の体質そのものは何も変わっていない。しかし、彼らは充実感、達成感、連帯感、そして成長したという実感を味わうのだ。
それは、旧態依然の労働運動家にはおそらく「現状肯定の精神主義」と映るかもしれない。そして、この映画を悪しきものとして非難するかもしれない。しかし、もしそのように非難されるとしたら、この映画は大成功だと思う。環境のせいにするのではなく、同じ環境でも、そこにいる人たちがみな成長する状況を生み出す。そういう新しい見方がしっかりと描かれているのである。それは、非常に時代にマッチした考え方であると思う。
あえて物足りないところを。
映画で物足りないと感じたところなどをあえて指摘してみる。
- NEET時代の自分を振り返る主人公が、「あの頃も本当はつらかったんだ」と語るところがある。デスマで死にそうなほど働いてつらい今の自分から見て、働いていなかったころの自分に戻りたくないということなのだが、そのあたりの、「NEETというのは楽なようだが、くたくたになるまで働くよりも、ずっとつらい要素だってある」という部分を、もう少しじっくりと描いてあればよかったと思う。
- 原作の視点が「マ男」の一人称だから仕方ないかもしれないが、藤田さんがマ男を支え、変えていったという部分だけではなく、藤田さん自身がマ男と出会うことで変わった部分がもう少し丁寧に描かれていれば、と思った。
- 「Bチャンネル」掲示板に投稿し、その読者たちからの反応やツッコミがあるという部分は、観客視点の代弁にもなっているのだが、大胆にカットしてしまってもよかったかもしれない。「ネットの住人からの励まし」がストーリーの大きな要素となっている電車男と違って、本作では掲示板への投稿自体はストーリーの決定的事項ではないと思う。
書籍版をあとから読む
試写会の帰り道、書籍版の『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』を購入した。昔の角川映画だと「読んでから観るか、観てから読むか」というようなことになるのだが、ざっと書籍版を読んでみた感想は、「映画版はかなりすっきりしているな」ということだった。
登場人物も、映画版では「竹中」は登場せず、代わりに「お局」が登場する。上原さんも中西さんも最後まで残る。ストーリーでも省かれたエピソードがある。ただ、それによって映画版はわかりやすく、スムーズなストーリーになっているように感じた。それでも、ディテールを含め、かなり原作に忠実に作られていたのだな、という印象を受けた。世の中には、原作がほとんど残っていない別作品(タイトルだけ一緒、みたいな)も少なくないが、これは原作にのっとって作られている。
原作派の人(がいるかどうかは知らないが)にとってはちょっと面白くない改変が含まれているかもしれないし、あるいは「あんなに変えたら、ブラック会社……じゃない」ということになるかもしれないが、映画作品としてはよい「脚色」の範囲だと思う。
もっとも、仮に元の投稿が完全に事実に基づいて書かれていたとしても、映画版ではこのとおり、かなり脚色・編集が加えられているのだから、この映画は「ノンフィクション」とはいえない。もちろん、すでに述べたとおり、事実かどうかは問題ではない。そういう意味では、映画の宣伝で「感動の実話」という言葉はない方がよいと思う。そして、どこからどこまでがどの程度実話なのか、といったくだらない詮索には関わるべきではないだろう。
この映画は「実話だから感動する」というような、つまらない作品ではない。フィクションの中に、現代の労働環境や、現代人のとらえ方の「リアル」がよく再現されていると思うのである。「虚構が真実味を生む。近松門左衛門の創作論「虚実皮膜」 [絵文録ことのは] 2004/06/27」でも書いたとおり、事実を事実そのまま描くよりも、フィクションの方がリアルを感じさせる場合がある。この映画はまさに「リアル」を伝えていると思うのである。
一般公開されたら、もう一度見に行こうと思う。
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私が行ったのはこの完成披露ではありません。
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私自身もITブラック企業に勤め、原作も見ているので映画は非常に楽しみにしています。
ただ原作でもまるで自分の会社を見ているようで泣きそうになった事もあるので映画では本当に泣いてしまうのではないかと心配です(笑)
現在は転職活動中でこの境遇を抜け出そうとしていますが現在の会社での経験で精神力だけは誰にも負けない自信はありますよ(笑)