選択式夫婦別姓議論と「日本人の姓/名字」の歴史

夫婦別姓をめぐる違憲訴訟がついに東京地裁に提訴された。

私自身は「選択式夫婦別姓」に賛成である(詳細は別稿にて述べたいが、私はさらに改姓・改名の自由を求める意見を持っており、その過程として選択式夫婦別姓に強く賛成する)。一方で「選択式」であるにも関わらず、同姓でない夫婦が生まれることを「家制度の破壊」であるととらえて反対する人たちも少なくない。

しかし、その家制度は本当に日本の「伝統」なのだろうか。私が調べた限り、そうではない。現在の戸籍制度は明治時代に民法によって作られた新しい制度だ。名前こそ「戸籍」という律令制由来の名称ではあるが、明治以前の「戸籍」の伝統を受け継ぐのではなく、むしろ明治維新後にヨーロッパ大陸法に基づいて徴税や徴兵を目的として作られた、たかだか150年の短い歴史しか持たない新しい制度であって、日本古来の伝統などとは到底呼べない。

ただ、一方でネット上では「明治以前は夫婦別姓だった」という記載も見られるが、こちらも正確ではない。

結論から言うなら、明治以前の日本の制度は「姓氏は出身氏族のものなので一生変わらないが、一家は同名字(兄弟でも分家すれば別名字)」だったのである。氏・姓・名字/苗字はすべて別のものであったが今はそれらがごっちゃになっている、という最低限の知識がそこには必要である。

2011年2月15日20:33| 記事内容分類:日本史, 日本時事ネタ, 民俗学・都市伝説| by 松永英明
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日本人の「ファミリーネーム」の歴史:氏と姓と名字と苗字

「姓」と「氏」はもともと別のもの

ややこしいことに、今「名字/苗字」と「氏」と「姓」という言葉はほぼ同じ意味で使われているが、もともとはまったく別のものだった。「中国では夫婦別姓だ」というのだが、中国には姓はあっても名字はないから、日本の「夫婦別姓」とは事情が異なる。

もともと、古代から日本人は「氏(うじ)」と「姓(かばね)」を持っていた。氏名(うじめい)というのが本来の氏族名である。たとえば蘇我氏というのは蘇我という氏名(うじめい)を持つ一族だった。同様に物部とか大伴とか中臣とか、時代が下って藤原とか源とか平とか橘というのが氏名にあたる。

一方、姓(かばね)というのは本来はファミリーネームのことではなく、その氏の代表者への尊称から転じて家格あるいは序列のようなものとなった。蘇我氏の場合は「大臣(おおおみ)」が姓名(かばねめい)ということになる。大連、国造、村主などが姓名にあたる。

つまり、蘇我大臣馬子というのは「氏+姓+名」という構造になっていたわけである。

しかし、その後、姓(かばね)は廃れていく。天武天皇の「八種の姓(ヤクサのカバネ)」は姓を八種類にまとめようとした改革であった。その後、律令制が定まったころから姓(かばね)にはほとんど意味がなくなり、姓と氏の境界がなくなって、やがてそれまで「氏名(うじめい)」と言っていたものを「姓名(せいめい)」とも言うようになってしまったのである。少なくとも鎌倉初期には、源平藤橘の四つの「氏」を「四姓」と呼ぶ例がみられる(一方、仏教語としての四姓もあるが、こちらは四つのカーストであって、本来の意味の姓=カバネの意味に近い)。

氏・姓というのは出身氏族のものであるから、夫婦であっても氏・姓が変わることがないのは当たり前といえば当たり前の話である。

「称号」から「名字」の誕生

平安時代、姓氏とは別の名前が貴族の間に生まれた。何しろ、都の貴族と言えばかなりの率で藤原氏である。区別するために、邸宅の地名で呼び合うようになった。これが「称号」であり、建物を表わす「殿」を地名に付けて呼んだ。一条殿、三条殿、堀川殿、山科殿といった具合である。住む場所が変われば称号も変わるのである。

一方、鎌倉時代に入るころに状況が変わる。それまで母系制だったのが父系制となって一箇所に定住することになり、称号も世襲されるようになった。摂関家の場合、近衛殿、鷹司殿、九条殿、二条殿、一条殿という五つの屋敷の相続者たちが五摂家となった。こうして称号が世襲されたものが「名字」である。

武家の「名字」

公家の名字は「殿」の所在地であったが、武家の名字は所領・領地の地名であることが多かった。平将門の別名・相馬次郎は下総国相馬郡に由来する。所領の場所が変わると名字も変わるというのは、公家の称号と同じ事情である。北条氏は平氏の一族だが、伊豆国北条郷に住んだ伊豆介時方以来「北条」の名字を名乗ることとなった。この名字の由来になった場所を「名字の地」という。

また、工藤というのは地名ではなく「木工助(もくのすけ)という職についた藤原氏」に由来する。だから工藤という名字の人は藤原氏ということになる。

また、分家をすると当然、親とは別の所領を治めることになるから、名字も変わる。源義家の子、源義国が下野国足利庄に住んだ。この地を相続したのが次男・義康で、これが(源姓)足利氏のはじまりである。一方、長男・義重は父とともに新たに上野国新田郡を開いて新田庄の司(新田庄司)となる。これが新田氏の始まりである。つまり、足利尊氏と新田義貞はどちらも源義国の子孫で「源氏」であることには違いないのだが、名字は異なる。同姓異名字とでもいうべき関係だ。

姓氏というのは生まれた出身氏族を示すものなので、生まれてから死ぬまで変わることはない。一方、名字というのは区別できればよいので、分家すれば別の名字を名乗ってよい(というより、分家したら名字は別のものになる)。姓氏と名字は根本的に違うパーツだということだ。

今回は「名」の方には詳細に触れないことにするが、「織田三郎上総介平朝臣信長」という名前では織田(名字)三郎(仮名)上総介(職名)平(氏)朝臣(姓)信長(実名)というパーツがある。「姓」「名」の二つだけの現在とは、風習そのものがまったく異なるわけである。

北条政子と日野富子

「日本は古来、夫婦別姓だった。その証拠に、源頼朝の妻は北条政子、足利義政の御台所は日野富子だ」という議論がある。私は選択式夫婦別姓賛成派であるが、この発言は史実には合わないのでよろしくないと考える。その理由を述べる。

  1. この名前の表記を行なっているのは、水戸徳川家によって編纂された『大日本史』などであって、後世のものである。当時そのように呼ばれていたというわけではない。
  2. 源は姓氏、北条は名字である。北条政子の姓は平であって、平政子とする文献はあるようだ。「姓氏は生まれを表わすので、平政子が源政子にはならない」というのならまだよいが、姓氏と名字は異なる。しかも、頼朝が将軍になったのは名字というものが武家の所領名を使うようになり始めた時期であるから、北条というのはまだ家名ともいえない。後世になって、北条家の出身だから北条政子と書いた、という以上のものではない。
  3. 足利と日野はどちらも名字であるが、こちらも同様、当時「わたしは日野富子です」とか「足利富子です」とか名乗っていたわけではなく、後世の記載である。日野氏は藤原家なので、もし朝廷から官位を受けるような(女性としてはほぼあり得ない)事態があれば藤原富子と書いていた可能性はありえる。
  4. この例をもって「日本は古来、夫婦別姓だった」と発言する場合、氏・姓・名字の違いを踏まえていないと思われるので、例としては適切ではないと考える。

ただ、これらは例としてはふさわしくないというだけで、古来、同じ氏姓の出身者が結婚するのでない限り「夫婦別姓」であったという事実には変わらない。ただし、それは「名字/苗字」のことは何も言っていないことに注意。「夫婦同名字」の例は室町以降に多く見られる(別名字の例もある)。厳密に言えば「夫婦別姓同名字」がここ五百年くらいの日本の伝統であるといえよう。ただ、姓と名字をごっちゃにした「夫婦同姓」が強制されたのはここ100年である。

豊臣は名字ではなく姓

徳川家康はもともと松平元康と名乗っていたが、松平という名字の一族はもともと賀茂とか源という姓氏だと主張していたようである。家康は今川氏から独立後、新田氏の系譜にある得川義季の子孫だと主張して、得川の名字を復活させるとともに、字を改めて徳川とした。家名ロンダリングを行なって、新たな名字を作り上げたわけである。したがって、徳川家康の名前の要素を全部集めると「徳川次郎三郎源朝臣家康」ということになる。

一方、豊臣秀吉は事情が異なる。もともと藤吉郎という名前自体が(形骸化しているとしても)藤原系という名乗りである。かつて木下藤吉郎と言っていた時代には藤原姓を名乗っていた。やがて「羽柴」という「名字」を名乗るようになる。羽柴という地名はないので、丹羽と柴田という二人の名字から一字ずつとったという説が有力だ(私は井沢元彦氏の「端柴売り」説には賛同しない)。

そして、意外なことに「豊臣」は名字ではなく新しい「姓」であった。源・平・藤原・橘と並ぶ新しい豊臣という姓だったのである。だから、信長・秀吉・家康の姓は平・豊臣・源、名字でいえば織田・羽柴・徳川ということになる。

ちなみに、「姓氏には"~の"をつけ、名字にはつけない」という説がある(岡野友彦)。みなもと-の-よりとも、たいら-の-まさかど、ふじわら-の-みちなが、とくれば、「とよとみ-の-ひでよし」と読むべきだというのである。一方「藤原紀香」が「ふじわら-の-のりか」でないのは、それが姓としてではなく明治以降の苗字として扱われているからだという。

「明治以前の一般庶民は姓/苗字を持っていなかった」はウソ

さて、江戸時代に入ると「名字」は「苗字」と呼ばれるようになる。この苗字についての誤った「常識」が根強く広まっている。

「江戸時代の庶民は苗字を持っていなかった(だから明治維新の時にみんな新しく苗字を作った)」と学校などで教わって、そのように思い込んでいる人も少なくないようだ。しかし、これは最近の研究でそうではないことが明らかになってきている。

奥富敬之『日本人の名前の歴史』のまとめ(167-168ページ)によれば、事実は以下のとおりである。

  1. 江戸時代の一般庶民は、水呑百姓など最下層にいたるまで、全員が苗字を持っていた。
  2. しかし一般庶民は、私的な場合にのみ苗字を名乗ったが(私称)、公的な場合には名乗らなかった(非公称)。
  3. 知行所を持つ石取りの武士だけが、一般庶民の苗字公称を免許する権限を持っていた。
  4. 苗字公称という特権を持つ者は、極力、この特権が他人にも与えられることを阻止しようとしたので、一般農民の間で苗字呼称の自粛ということが徹底し、結果的に幕藩体制下での身分秩序の維持に貢献することになった。
  5. 町人の世界では、「伊勢屋」とか「駿河屋」などの屋号が、結局は苗字の代用の役を果たしていた。

庶民は苗字(名字)を持っていた(さらに姓も持っていた)。しかし、それを公には名乗らなかっただけなのだ。つまり、苗字を名乗ることを「自粛」してきたのである。一方、金に困った武士が金を借りた商人に対して苗字帯刀の権利を許すことで借金の肩代わりにするような例もあった。もちろん、長くこの自粛が続く中で代々の苗字を忘れた例もなかったわけではないようだ。

いずれにせよ、庶民は苗字を「持っていなかった」のではなく「名乗らないよう自粛していた」わけである。

明治の大改革による姓と苗字の混乱

明治維新というのは、それまでの伝統とは異なることを始めており、明治以前と以後では大きな伝統の「断層」がある(断絶まではいかないが、大きなズレが生じる)。明治以後の「新伝統」は一般に「日本古来の伝統」と錯覚されがちだが、150年~100年程度の歴史しか持たない「浅い伝統」を日本古来のものとするのは一種の「伝統偽装」にほかならない。初詣、神前結婚式、年賀状……いずれも明治以後の風習である。

そして、現在の日本人の名前の制度も明治以後の新伝統である。また、その背景にある「戸籍」も、言葉自体は中国由来の律令制以来のものであるが、中身の実態はそれまでの戸籍とはまったく異なる。むしろ、ナポレオン民法典やプロイセンの法にならった西洋起源のものであり、その目的は徴税や徴兵の準備として全国民の名簿を作ることにあった。

  • 明治三年(1870)9月4日:太政官布達「今より平民の苗字、差し許さること」(※まだ強制ではない)
  • 明治四年(1871)4月4日:戸籍法制定
  • 明治五年(1872)1月29日:戸口調査開始、同年「壬申戸籍」作成。苗字・屋号・名前の改称が禁じられ、同一家族の苗字を同一とさせたが、妻が夫の苗字ではなく実家の苗字で届けている例も多数。苗字なしの登録者もある。
  • 明治六年(1873)1月10日:徴兵令。
  • 明治八年(1875)2月:太政官布達「自今、必ず苗字を相唱うべし。もっとも祖先の苗字、不分明のむきは、あらたに苗字を設くべし」
    • 同年12月:太政官布達(婚姻、養子縁組、離婚、離縁などを届け出る際に苗字を新設してもよい)
  • 明治九年(1876)3月:太政官指令「婦女、人に嫁するも、なほ所生の氏を用ゆべき事、但し夫の家を相続したる上は、夫家の氏を称すべき事」(つまり「強制的夫婦別姓」)
    • 同年8月3日:父と子は同じ苗字でなければならない
    • 同年5月9日/翌年2月9日:家族の苗字は戸主の苗字と同じでなければならない
  • 明治三十一年(1898)6月21日:民法と改正戸籍法公布。女性は結婚すると夫の苗字を名乗らねばならなくなった(「強制的夫婦同姓」)。

要するに、今のように姓と苗字/名字の区別をなくした上での「強制的夫婦同苗字」制は、旧民法が公布された明治後期の1898年からわずか110年ほどの極めて短い歴史しか持っていないのだ。

ただ、一部の夫婦別姓議論において、それ以前は強制的夫婦別姓だった、そちらが日本の伝統だった、と書いているサイトなどがあるが、それも正確ではない。それだって明治九年に姓と苗字をごっちゃにしてファミリーネームは一つにしようという明治新政府が混乱の中で「妻は婚家ではなく実家の姓にしろ」と布告しただけのことである。それ以前は「夫婦別姓・同苗字」という習慣が400年くらい続いてきたというのが正確な言い方だ。

こうして見てくると、「伝統」を根拠にした議論は夫婦別姓・同姓について論じるときに根拠としがたいことがわかる。「夫婦同姓が(明治以来の)伝統」というのもたかだか100年程度の伝統偽装に基づく発言であるし、逆に真の日本の伝統にのっとって今更「姓と名字を制定して夫婦別姓同名字にしましょう」というのもばかげた話だ。そこで夫婦別姓については伝統かどうかという見解を除いた上での議論が必要ということになる。そこで私がどう考えるかについては別稿として、今回はここまで。

参考文献

他にもいろいろ参照しているが、主にこの二冊がよくまとまっていると思う。なお、この二冊の間で意見が違うところもあるし、私の今回のまとめはこの二冊を踏まえた上で私の見解も含まれている。

日本人の名前の歴史
「日本人の名前の歴史」
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 著者:奥富 敬之
 出版:新人物往来社
 発売日:1999-08
 by ええもん屋.com
苗字と名前の歴史 (歴史文化ライブラリー)
「苗字と名前の歴史 (歴史文化ライブラリー)」
 [単行本]
 著者:坂田 聡
 出版:吉川弘文館
 発売日:2006-03

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