木嶋被告「物証なき死刑判決」への不信感
首都圏の連続不審死事件で男性三人についての殺人罪に問われた木嶋被告が、裁判員裁判の結果、死刑となった。
しかし、報道などによると、裁判では直接証拠がなく、状況証拠のみによって「死刑」判決が下されたという。これをわたしは恐ろしいことだと思う――被告が実際に犯行を行なっていようといまいと。
わたしは殺人という行為を擁護するつもりはさらさらない。ただ、「状況証拠のみによる死刑判決」が下るという状況に、日本の裁判制度への不信を抱かずにはいられない。
報道によれば
中日新聞:木嶋被告に死刑判決 3男性殺害認定:社会(CHUNICHI Web)(2012年4月13日)より一部引用。
首都圏の連続不審死事件で、男性3人に対する殺人罪などに問われ、死刑を求刑された木嶋佳苗被告(37)の裁判員裁判の判決で、さいたま地裁は13日、3件の殺人罪すべてで検察側の主張を認め、求刑通り死刑を言い渡した。
殺人に関しては被告の犯行を裏付ける直接証拠がなく、被告は3人の殺害を一貫して否認し無罪を主張。男女各3人の裁判員は在任期間が過去最長の100日間に及び、検察側が積み重ねた状況証拠のみでの難しい判断を迫られた。
直接の物証も何もなく、ただ「状況証拠」のみで「極刑」が決まっている。物証なくして「有罪」というだけでも恐ろしいのに、執行したら取り返しのつかない「死刑」である。わたしがこの事件の裁判員だったら、少なくともこの事件での死刑判決には最後まで反対し続けただろう。
「状況証拠」のみで「証明責任を押しつける」という暴力
証明責任(立証責任)は疑惑をかけた側にある。しかし、疑惑をかけられた側に反証を求める例が多い。
「たぶんお前がやったんじゃないか?違うんなら証明しろ!できないなら、やったに決まっている!」という発言はネットでもよく見られるものだが、これは明らかに暴力である。疑惑は無尽蔵に生み出すことができるが、「やっていない」ことを証明するには多大な労力を必要とする。その結果、「疑惑をかけられた」ということがあたかも「そういう疑惑を持ち出されるような怪しい奴」という悪評として世間に受け入れられていく一方、いくら否定しても「しらばっくれている」としか解釈されない。わたしも実際に、ありもしない疑惑を言い立てられた上で「そうじゃないと言うなら立証責任はあなたにあります」と無茶な非難をされたことがある。もはやこれは言葉による暴力である。
この事件に戻ろう。いくら連続不審死で「非常に怪しい」としても、決定的な直接証拠のない状態で被疑者を「有罪」とするのは誤りだとわたしは信じる。それは検察側や裁判員が「証拠はないが、状況的にお前が犯人としか思えない。違うというならそれを覆すだけの証拠を持ってきてみろよ」と言っているのとまったく同じだからである。
また、「証拠すら捏造される」ような現在の司法・検察に対する不信感が高まっている中で、ましてや「捏造された証拠さえ存在しない」状況で有罪、しかも極刑の死刑という取り返しのつかない判決を下すのは、もはや暴挙としか思えない。たとえ仮に状況証拠が盤石であって有罪以外に可能性がないとしても、直接証拠がない以上は無期懲役にすべきだと思う。
ドラマ「相棒」の杉下右京さんのぶっ飛んだ推理だって、聞き込みで気づいた矛盾の追及に加えて物証が絶対に不可欠であって、だからこそ鑑識の米沢守がストーリーで常に重要な役割を演じているわけである。
物証を出せないこと自体が敗北なのだ。
わたしは「冤罪」だと訴えるつもりはない。「無実だ」という証拠だってわたしは持っていない。心証的にはやった可能性が高いだろうとも思っているし、(「もし○○が本当だったら許せない」メソッドになってしまうからあまり言いたくはないが)「もし仮にそういう犯罪が行なわれていたとしたら」擁護のしようはないとも思うが、「もし仮に」の部分を裏付ける「直接証拠」がない以上、有罪判決どころか死刑判決というのはあまりにも先走りすぎだと信じる。
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賢い犯罪者は、直接証拠は残さない。状況証拠>直接証拠の場合も有るのではないか?