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==プロヴディフ== | ==プロヴディフ== | ||
− | + | ブルガリア第2の都市プロヴディフ({{Unicode|Пловдив}})は、もともとトラキア人の集落であった。紀元前4世紀、マケドニアのピリッポス2世に征服され、ピリッポポリスと改名される。それをトラキア人が取り戻してプルプデウァ(Pulpudeva)と呼ぶが、これはピリッポポリスのトラキア語表記である。 | |
72年にローマ帝国に征服され、トリモンティウム(Trimontium)すなわち「3つの丘の都市」と改名されてトラキアの主要都市となった。 | 72年にローマ帝国に征服され、トリモンティウム(Trimontium)すなわち「3つの丘の都市」と改名されてトラキアの主要都市となった。 | ||
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681年にブルガリアが建国されると、ピリッポポリスはビザンティン帝国の重要な国境の要塞となる。この後、ブルガリア帝国領、ビザンティン帝国領の時代を経て、オスマン帝国に組み込まれた。露土戦争によって一時、大ブルガリア公国が建国されるが、すぐに分割され、プロヴディフはオスマントルコ領東ルメリ自治州の首都となった。東ルメリ自治州はブルガリア自治公国に併合された。その後、ブルガリアはオスマンから独立した。 | 681年にブルガリアが建国されると、ピリッポポリスはビザンティン帝国の重要な国境の要塞となる。この後、ブルガリア帝国領、ビザンティン帝国領の時代を経て、オスマン帝国に組み込まれた。露土戦争によって一時、大ブルガリア公国が建国されるが、すぐに分割され、プロヴディフはオスマントルコ領東ルメリ自治州の首都となった。東ルメリ自治州はブルガリア自治公国に併合された。その後、ブルガリアはオスマンから独立した。 | ||
− | + | プロヴディフは、7つの閃長岩の丘の上に建てられたとされている。そのいくつかは250メートル以上の高さにある。この7つの丘のために、プロヴディフはブルガリアでは{{Unicode|Градът на седемте тепета}}(「七つの丘の都市」)と呼ばれる。 | |
* Dzhendem tepe | * Dzhendem tepe | ||
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* Nebet tepe | * Nebet tepe | ||
* Dzhambaz tepe | * Dzhambaz tepe | ||
− | * Taksim tepe | + | * Taksim tepe 以上3つの丘は三丘地区({{Unicode|Трихълмие}})と呼ばれる。 |
* Markovo tepe(この丘は現在、完全に埋められてしまった) | * Markovo tepe(この丘は現在、完全に埋められてしまった) | ||
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==モスクワ== | ==モスクワ== | ||
− | + | ロシア連邦の首都モスクワ({{Unicode|Москва}})は、1156年に砦が築かれ、モスクワ大公国の首都となった。1712年から1918年にはサンクトペテルブルクに首都の座を譲ったが、ソビエト連邦、ロシア共和国の首都となった。 | |
モスクワがローマと同様七つの丘に建設されたという伝説は誇張であるが、市の中心部には小さな丘がいくつかある。ヴォロビヨーヴイ(Vorobyëvy)丘は「燕が丘」「レーニン丘」としても有名である。これはチュープルイスタンスカヤ高地の一部である。 | モスクワがローマと同様七つの丘に建設されたという伝説は誇張であるが、市の中心部には小さな丘がいくつかある。ヴォロビヨーヴイ(Vorobyëvy)丘は「燕が丘」「レーニン丘」としても有名である。これはチュープルイスタンスカヤ高地の一部である。 | ||
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==江戸/東京== | ==江戸/東京== | ||
+ | [[毛綱毅曠]]説によると、以下のとおり。 | ||
* 上野台地 | * 上野台地 | ||
* 本郷台地 | * 本郷台地 | ||
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* 四谷・麹町台地 | * 四谷・麹町台地 | ||
− | {{Quotation|太田道灌が見立てた江戸は七つの丘と八つの州(八重洲という地名はここから起こる)でできていた。江戸における七つの丘とは上野、本郷、小石川および目白、牛込、赤坂および麻布、芝および白金の六つの台地に、中央の四谷・麹町の台地である。そして真ん中の四谷・麹町台地には、風水でいうところの太極暈(たいきょくうん)、すなわち渦巻き状の中心、これが龍の穴に見立てられ、渦巻き状の江戸城を築くことになる。|毛綱毅曠|『[http://amazon.co.jp/o/ASIN/4788796384/kotonoha0b-22/ref=nosim 風水伝奇 ガイアインターネット] | + | {{Quotation|太田道灌が見立てた江戸は七つの丘と八つの州(八重洲という地名はここから起こる)でできていた。江戸における七つの丘とは上野、本郷、小石川および目白、牛込、赤坂および麻布、芝および白金の六つの台地に、中央の四谷・麹町の台地である。そして真ん中の四谷・麹町台地には、風水でいうところの太極暈(たいきょくうん)、すなわち渦巻き状の中心、これが龍の穴に見立てられ、渦巻き状の江戸城を築くことになる。|毛綱毅曠|『風水伝奇 ガイアインターネット』時事通信社}} |
+ | 『[http://amazon.co.jp/o/ASIN/4788796384/kotonoha0b-22/ref=nosim 風水伝奇 ガイアインターネット]』。八重洲の語源は、徳川家康に仕えたヤン・ヨーステンの邸宅があったことにちなむものであるため、ここでの記載は誤りである。 | ||
− | + | 武光誠・宮元健次説によると、以下のとおり。 | |
* 上野台地 | * 上野台地 | ||
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* (本丸台地は別に数える) | * (本丸台地は別に数える) | ||
− | {{Quotation| そして、いよいよ家康は、江戸の中核となるみずからの城の建設にのり出した。家康の命令で、天海らブレーンが次に行ったのは、城をどのあたりに建てればよいのかということをくわしく調べることであった。<br /> そして調査の結果、上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込大地、麹町台地、麻布台地、白金台地の合計七つの台地に囲まれる土地を発見した。この土地こそが、かつては太田道灌の居城が建ち、のちに江戸城が建てられた本丸台地であったのである。本丸台地は、ちょうどそれを囲む七つの台地それぞれの延長戦の交わる位置にあたり、陰陽道ではこのような地形を「交差明堂形」と呼び、その中心は地の気がきわめて高く、文明が栄えるといわれている。|宮元健次| | + | {{Quotation| そして、いよいよ家康は、江戸の中核となるみずからの城の建設にのり出した。家康の命令で、天海らブレーンが次に行ったのは、城をどのあたりに建てればよいのかということをくわしく調べることであった。<br /> そして調査の結果、上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込大地、麹町台地、麻布台地、白金台地の合計七つの台地に囲まれる土地を発見した。この土地こそが、かつては太田道灌の居城が建ち、のちに江戸城が建てられた本丸台地であったのである。本丸台地は、ちょうどそれを囲む七つの台地それぞれの延長戦の交わる位置にあたり、陰陽道ではこのような地形を「交差明堂形」と呼び、その中心は地の気がきわめて高く、文明が栄えるといわれている。|宮元健次|『江戸の都市計画』講談社選書メチエ}} |
− | {{Quotation| 秀吉から関東の地に移封させられた家康は、まっさきに江戸城を築いた。それは秀吉が江戸を関東の拠点とせよと命じたことによるものだ。このとき家康は天海とともに白をおくべき土地をていねいに選定している。<br /> 江戸城、つまり、今の皇居は、上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込台地、麹町台地、麻布台地、白金台地の七つの台地にきれいにかこまれている。江戸城は、それらの台地の高地の延長線が交わる位置にある。<br /> 中国の風水術は、そのような地形を、「交差明堂形」という。七つの台地は「龍の穴」とよばれ、その中心は地の気がきわめて強く、文明がさかえる場所になる。古代ローマも、中国の古都長安(今の西安)も、江戸とおなじように、七つの丘にかこまれている。|武光誠| | + | {{Quotation| 秀吉から関東の地に移封させられた家康は、まっさきに江戸城を築いた。それは秀吉が江戸を関東の拠点とせよと命じたことによるものだ。このとき家康は天海とともに白をおくべき土地をていねいに選定している。<br /> 江戸城、つまり、今の皇居は、上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込台地、麹町台地、麻布台地、白金台地の七つの台地にきれいにかこまれている。江戸城は、それらの台地の高地の延長線が交わる位置にある。<br /> 中国の風水術は、そのような地形を、「交差明堂形」という。七つの台地は「龍の穴」とよばれ、その中心は地の気がきわめて強く、文明がさかえる場所になる。古代ローマも、中国の古都長安(今の西安)も、江戸とおなじように、七つの丘にかこまれている。|武光誠|『呪術が動かした日本史』青春出版社}} |
+ | 宮元健次『[http://amazon.co.jp/o/ASIN/4062580667/kotonoha0b-22/ref=nosim 江戸の都市計画]』の出典が武光誠『[http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/441309090X/kotonoha0b-22/ref=nosim 呪術が動かした日本史]』。[[天海]]らのブレーンがこのような調査を行なったという事実は存在しない。この解説は総じて誤りである。 | ||
− | + | 毛綱説では六つの台地+中央の四谷・麹町の台地とされているのに対し、宮元説では七つの台地+中央の本丸台地とされている。このことから、江戸が七つの丘に囲まれるというのはそれぞれの説の提案者による思いつきであると考えられる。 | |
− | + | なお、長安と七つの丘の関係については、他の資料では見受けられない。 | |
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==その他七つの丘に建設されたという伝説のある都市== | ==その他七つの丘に建設されたという伝説のある都市== |
2010年9月29日 (水) 21:58時点における最新版
世界の数々の都市が、7つの丘の上に築かれたという伝説を有している。最も有名なのはローマである。「ローマの七丘」として知られ、ローマは「七つの丘の都市」と呼ばれることもある。これにならって作られたのがコンスタンティノポリス(イスタンブル)で、これもまた七つの丘の上に築かれたとされている。
ローマとコンスタンティノポリスの二つの「七つの丘の都市」伝説にならって、多くの都市が七つの丘の上に築かれたと主張されている。これは史実として七つの丘の上に建設されたというより、その都市の中の七つの丘陵をピックアップしているだけのことが多い。
目次
- 1 ローマ
- 2 ビザンティウム/コンスタンティノープル/イスタンブル
- 3 リスボン
- 4 バルセロナ
- 5 プーラ
- 6 プロヴディフ
- 7 アンマン
- 8 イェルサレム
- 9 プラハ
- 10 モスクワ
- 11 エディンバラ
- 12 マカオ(澳門)
- 13 ヤシ
- 14 タラハシー
- 15 リッチモンド
- 16 サマヴィル
- 17 プロビデンス
- 18 ウースター
- 19 サンフランシスコ
- 20 シンシナティ
- 21 ジョージア州ローマ
- 22 ネヴァダ市
- 23 シアトル
- 24 カンパラ
- 25 ツェーヴェンベルゲン
- 26 ティルマラ
- 27 江戸/東京
- 28 その他七つの丘に建設されたという伝説のある都市
- 29 Seven Hills
- 30 参照
ローマ
ローマ(Roma)は7つの丘の都市として最も有名である。ローマの七丘は、テヴェル川の東、古代ローマの中心部、セルウィウスの城塞の内側にある。
初期のローマの七丘は次の7つであった。いずれもローマの神話・宗教・政治において重要だった。
- ケルマルス
- キスピウス
- ファグタル
- オッピウス
- パラティウム
- スクサ
- ウェリア
その後、ローマ市が成立すると、以下の7つの丘がローマの七丘となる。これは現在にも受け継がれている。「ラテン語(現代イタリア語)」での呼び名である。
- アウェンティヌス(アヴェンティーノ)
- この丘にはレムスが住むことを決めた。歴史時代には一般大衆の家があり、紀元前5世紀にはケレス女神の神殿が建てられた。
- カエリウス(カンピドリオ)
- 紀元前7世紀のローマ第3代の王トゥルス・ホスティリウスは、近隣のアルバ・ロンガを破壊し、強制的にカエリウスの丘に移住させた。ティトゥス・リウィウスの語る伝説によれば、この丘の名はカエリウス・ウィベンナにちなむという。それは、彼がこの定住地を建設したからだとも、友人であるローマ第6代の王セルウィウス・トゥリウスが彼の死を悼んだからだともいう。
- 共和制ローマ時代、カエリウスの丘は高級住宅地であり、裕福な人たちの居住区であった。カラカラの大浴場の発掘により、壁画やモザイクで仕上げられたぜいたくな建物が見つかった。カエリウスには、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会と、サント・ステファノ・ロトンド聖堂もある。
- カピトリヌス(チェリオ)
- この丘は、ローマの最初期の要塞の多くがある場所である。ここは政治の丘でもあった。ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユノー・モネタ、コンコルドの神殿があった。
- エスクィリヌス(エスクイリーノ)
- この丘は少なくとも紀元前700年ごろから壁に囲まれた都市だった。
- パラティヌス(パラティーノ)
- この丘はロムルスの丘である。歴史時代には、ローマの富裕層や有力者たちがここに住んだ。壁に囲まれた村々と墓がここにみられ、その村々に住む人々は紀元前700年ごろから大きな勢力を有していた。マグナ・マテルの神殿がパラティヌスにあった。
- クィリナリス(クイリナーレ)
- この丘にはかつてサビニ人が住んでいて、この街を作った。考古学的証拠では、この丘には少なくとも紀元前8世紀から人が住んでおり、墓や壁のある村が発掘されている。
- ウィミナリス(ヴィミナーレ)
- これは七丘で最小の丘であり、ローマの城壁に最後に含まれるようになった。
伝説によると、ローマ市は最初、ロムルスによってパラティヌスの丘に作られたという。
初期のうちから7つの丘はそれぞれ小さな定住地によって占められ、ローマと呼ばれる1つの市としては認識されていなかった。やがて、7つの丘の居住者は宗教的な競技会に参加するようになり、それにつれて集団は結びつき始めた。ローマ市はこのように、別々の定住地が一つのグループとして機能するようになってから生まれたものである。丘の間の湿地の多い谷を排水して、そこを市やフォルム(公共広場)に変えていった。
現在のローマの七丘のうち、5つ(アヴェンティーノ、カンピドリオ、エスクイリーノ、クイリナーレ、ヴィミナーレの丘)は、記念碑、建物、公園があって人口が多い。チェリオは現在ローマ市の中心となっており、パラティーノ丘は遺跡地帯となっている。
今有名なバチカンの丘(ラテン語でコルリス・ウァティカヌス)は、テヴェレ川の北西にあって、ローマの七丘には含まれない。同じく、北のピンチオの丘(ラテン語でモンス・ピンキウス)、西のジャニコロの丘(ラテン語でヤニクルム)も伝統的な七丘には数えられない。
ビザンティウム/コンスタンティノープル/イスタンブル
現在トルコの主要都市であるイスタンブル(İstanbul)は、紀元前7世紀、古代ギリシア時代にメガラからの植民者たちによって建設され、ビュザンティオンと名付けられた。その後、ローマ帝国の版図となって、ラテン語でビザンティウムと呼ばれるようになる。196年、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスのときに街は破壊されたが、すぐに再建された。
330年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマ市から遷都し、大都市建設に着手した。コンスタンティヌス帝はノウァ・ローマと改称したが普及せず、コンスタンティノポリスと呼ばれるようになる。395年の東西ローマ分裂後は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となった。
この都市が造られた7つの丘は、いずれも城壁の内側にある(イスタンブル旧市街の範囲)。ビザンツ帝国時代にも、オスマントルコ帝国時代にも、それぞれの丘の上には壮大な宗教建築が建てられた。
- 古代ビザンティウム市が建てられた第1の丘は、セラグリオ岬(サライブルヌ)から始まって、ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア・モスク)、スルタンアフメト・モスク、トプカピ宮殿を含む地域に広がる。
- 第2の丘には、ヌルオスマニエ・モスク、グランド・バザール、コンスタンティヌスの柱(Cemberlitas)がある。第2の丘は、東エミノヌ波止場のバビアリから走る深い谷によって第1の丘と隔てられている。
- 第3の丘は、現在、イスタンブル大学の主要建物から、南はベヤジットのモスク、北はスレイマニエ・モスク群に湿られている。丘の南の坂はクムカプ地区・ランガ地区へと下っている。
- 第4の丘は、聖使徒教会から、征服者メフメットのモスクがあり、やや険しい坂が金角湾北部へ、ゆるやかな坂がアクサライ地区へと下っている。
- 第5の丘にはスルタン・セリムのモスクがある。第5と第6の丘は、金角湾海岸のバラトの西へ走る谷で隔てられている。
- 第6の丘は、エディルネカプ地区とアイヴァンサライ地区にある。なだらかな坂は、防壁を越えて伸びている。
- 第7の丘は、アクサライ地区から防壁とマルマラ海へ広がっている。丘は広く、3つの頂上があって、トプカプ、アクサライ、イェディクレを頂点とする三角形を作っている。
1453年、コンスタンティノポリスは陥落し、オスマン帝国の首都となる。その後、オスマン語で「コスタンティニエ」と呼ばれた。
1923年、トルコ共和国が成立し、首都はアンカラに移された。およそ1600年にわたって続いた首都としての地位を失うが、トルコ最大の都市として繁栄を続けている。1930年にイスタンブルと改称された。
リスボン
ポルトガルの首都リスボン(Lisboa、リジュボア)は、テージョ川に続く七つの丘に作られたといわれ、「七つの丘の街」として知られる。このため、リスボンには坂が非常に多い。ツアーのうたい文句として「七つの丘のリスボン」等と記されることが多いが、具体的に七つの丘とは何を指すかは不明。
リスボンにおける居住の歴史は古く、新石器時代にさかのぼる。その後ケルト系民族が居住し、紀元前13世紀の初めごろにはフェニキア人が港として利用していた。フェニキア人は「安全な港」Allis Ubbo(アッリス・ウッボ)と名付け、これがリスボンの由来という説もある。ギリシア人はOlissipo(オリッシポ)と名付け、これがラテン語でOlissipona(オリッシポナ)となった。その後、ローマ領、イスラム領を経てポルトガルの首都となるのである。
バルセロナ
スペインのカタルーニャ州バルセロナ市(Barcelona)は、七つの丘の都市といわれる。
- Mont Tàber
- La Rovira
- El Coll
- El Carmel
- La Peira
- El Putxet
- Montjuïc
バルセロナはカルタゴ人によって建設されたバルチーノがその起源である。後にローマ人がタベル山を中心とした宿営地に作り替えた。5世紀には西ゴート王国、8世紀初頭にウマイヤ朝の支配下に置かれた。801年、フランク王国スペイン辺境領に組み込まれ、9世紀にはバルセロナ伯国を成立させた。その後、アラゴン連合王国の一部として勢力を拡大するが、15世紀にスペインの一部となるとバルセロナは衰退していった。17世紀のカタルーニャ共和国以後は荒廃した。
プーラ
クロアチアのイストラ郡プーラ市(Pula)は、新石器時代からの歴史を有する。紀元前10世紀のイリュリア人の都市があり、その後、ギリシア文明も伝わっていた。紀元前177年にローマに征服され、その後はローマ化していった。ローマ帝国の滅亡後は東ゴート王国、さらに東ローマ帝国の支配を受けた。プーラは繁栄し、東ローマ艦隊の主要港となった。8世紀にはフランク王国、12世紀にはヴェネツィア共和国の支配下となった。その後、周囲からの侵略と病疫の大流行でプーラは壊滅的打撃を受ける。18世紀にハプスブルク家の支配を受け、1912年にはイタリア領となった。1947年にユーゴスラヴィア連邦のクロアチア共和国に統合された。
プーラ市は7つの丘の上と麓にある。
- Monte Zaro
- Monte Serpente
- Monte Ghiro
- Monte Magno
- Monte Paradiso
- Monte Rizzi
- Monte Vidal
プロヴディフ
ブルガリア第2の都市プロヴディフ(Пловдив)は、もともとトラキア人の集落であった。紀元前4世紀、マケドニアのピリッポス2世に征服され、ピリッポポリスと改名される。それをトラキア人が取り戻してプルプデウァ(Pulpudeva)と呼ぶが、これはピリッポポリスのトラキア語表記である。
72年にローマ帝国に征服され、トリモンティウム(Trimontium)すなわち「3つの丘の都市」と改名されてトラキアの主要都市となった。
681年にブルガリアが建国されると、ピリッポポリスはビザンティン帝国の重要な国境の要塞となる。この後、ブルガリア帝国領、ビザンティン帝国領の時代を経て、オスマン帝国に組み込まれた。露土戦争によって一時、大ブルガリア公国が建国されるが、すぐに分割され、プロヴディフはオスマントルコ領東ルメリ自治州の首都となった。東ルメリ自治州はブルガリア自治公国に併合された。その後、ブルガリアはオスマンから独立した。
プロヴディフは、7つの閃長岩の丘の上に建てられたとされている。そのいくつかは250メートル以上の高さにある。この7つの丘のために、プロヴディフはブルガリアではГрадът на седемте тепета(「七つの丘の都市」)と呼ばれる。
- Dzhendem tepe
- Bunardzhik tepe
- Sahat tepe
- Nebet tepe
- Dzhambaz tepe
- Taksim tepe 以上3つの丘は三丘地区(Трихълмие)と呼ばれる。
- Markovo tepe(この丘は現在、完全に埋められてしまった)
アンマン
現在はヨルダンの首都。アンマン(‘Ammān)はもともと7つの丘の上に作られたが、現在は19の丘の範囲に広がっている(丘はjabal=「山」)と呼ばれている。アンマンは7つの丘の上にあるという点がローマに似ており、ローマ人軍人や役人に好まれた。
- ジャバル・アンマン(Jabal Amman)に人が住み始めたのは新石器時代にさかのぼる。しかし、この丘は、アンマンの他の丘と違って要塞化されなかった。20世紀までは未開発の地であったが、1946年にトランスヨルダン王国がアンマンを首都と定めたときに、王族・富裕層・企業・軍オフィス・政治家がジャバル・アンマンに移り住み始め、やがてエリート地域となっていった。
- ジャバル・アルカラア(ジャバル・エルカラア、Jabal al-Qala'a、Jabal el-Qala)は要塞の丘(シタデル・ヒル)と呼ばれている。旧石器時代から現代まで人類が住み続けてきた。ローマ、ビザンチン、イスラムの遺跡が残る。
残り5つは未詳。
イェルサレム
イスラエルの首都イェルサレム(Jerusalem)について、8世紀のミドラシュ物語『プリケ・デ=ラビ・エリエゼル(Pirke de-Rabbi Eliezer)』では、特に注記なく「イェルサレムは7つの丘の上にある」と書かれている。
イェルサレム市中心部の東にあるオリーブ山から始めれば、オリーブ山の山頂は3つある。北の峰(丘)は「スコプス山」である。中央の峰(丘)は「ノブ」と呼ばれ、最も高い。南の峰(丘)は聖書で「滅びの山」(列王記下23:13)と呼ばれている。ケドロン谷とチロペオン谷のあいだの峰には、もともと南の「シオン山」があった。それから「オフェル山」、その北に「アントニア要塞」の周囲の岩場が作られた。最後に、南西の丘があり、これがハスモン朝のシモンの時代には新しい「シオン山」として知られるようになった。これが全部で「七つの丘」となる。
プラハ
チェコ共和国の首都プラハ(Praha)は、6世紀後半に集落が作られ始めていた。9世紀後半にはプラハ城が建設された。1348年、ボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝になると、プラハは神聖ローマ帝国の首都となった。しかし、首都がウィーンへ移されると、プラハは衰えた。1918年にチェコスロヴァキア共和国が独立すると、その首都となる。1993年にチェコとスロヴァキアが分離すると、チェコ共和国の首都となった。
プラハもまた7つの丘に建てられたという伝説がある。プシェミスル王朝の開祖とされるリブシェ王妃は、ヴィシェフラドの丘の上に立ち、「プラハの7つの丘に素晴らしい都市ができ、その名声は天にも達するであろう」と予言したという。なお、チェコ観光局によると、プラハには9つの丘があるという。
- Hradčany
- Vítkov
- (Opyš)
- Větrov
- Skalka
- (Emauzy)
- Vyšehrad(ヴィシェフラド)
- Karlov
- Petřín(ペトシーン)
モスクワ
ロシア連邦の首都モスクワ(Москва)は、1156年に砦が築かれ、モスクワ大公国の首都となった。1712年から1918年にはサンクトペテルブルクに首都の座を譲ったが、ソビエト連邦、ロシア共和国の首都となった。
モスクワがローマと同様七つの丘に建設されたという伝説は誇張であるが、市の中心部には小さな丘がいくつかある。ヴォロビヨーヴイ(Vorobyëvy)丘は「燕が丘」「レーニン丘」としても有名である。これはチュープルイスタンスカヤ高地の一部である。
以下の7つがモスクワの七丘であるという説がある。
- クレムリン。「城塞」を意味する。クレムリン宮殿が有名。
- スレテンスキー
- トヴェルスコイ
- 三山
- タガンスキー
- レフォルトフスキー
- ヴォロビヨーヴイ(Vorobyëvy)
エディンバラ
スコットランドの首都エディンバラ(Edinburgh)は、七つの丘に作られた都市であると言われている。
- Arthur's Seat(アーサーズ・シート)。ホリルード公園を占めている。7つの丘で最も高く、ソールズベリー岩山といくつかの小さな丘が組み合わさった古代の火山である。
- Castle Rock(キャッスル・ロック)。エディンバラ城が建つ岩山。
- Calton Hill(カールトン・ヒル)。エジンバラ市の中心部にある小高い丘。
- Corstorphine Hill(コーストーフィン・ヒル)
- Braid Hills(ブライド・ヒルズ)
- Blackford Hill(ブラックフォード・ヒル)
- Craiglockhart Hill(クレイグロックハート・ヒル)。西と東の峰がある。
エディンバラは6世紀のケルト人の砦が起源である。11世紀にスコットランド王マルコムが城を建て、1492年にスコットランドの首都がここに移された。
もともとエディンバラ城はキャッスル・ロックという「1つの丘」に建てられていたが、ニュータウン(新市街)の拡大にともなって、その範囲にある丘の中からピックアップされて「七つの丘」とされるようになったものである。
毎年、6月第3日曜日に、数百人の健康な人たちがエディンバラの「セブンヒルズ」イベントに参加する。これは道路を走り、クロスカントリーをし、丘を走り、街ではオリエンテーリングを行なうものである。総距離は14マイル(22.5km)、高低差は2200フィート(670m)である。1970年代、David SalmondとAlan Lawsonという若い男が二人でエディンバラに走りに行った。ある日、デヴィッドは「七つの丘」という言葉をエディンバラのガイドブックで見つけた。そこで、二人は7つの丘すべてを含んだルートを作れないかと調査した。それによって現在のルートが決定された。イベントは1980年に最初に計画された。それはスコットランドの自治運動に賛同するカールトン・ヒル祭りの一部であった。75人が最初の年に参加した。その後、1980年代にはセブンヒルズは単独のイベントとなった。セブンヒルズでは、真剣な「レース」と、参加することに意義のある「チャレンジ」の二部に分かれている。
「セブンヒルズ」のコースは、カールトン・ヒルから出発して、エジンバラ城遊歩道、コーストーフィン・ヒル、クレイグロックハート・ヒル東峰、ブライド・ヒル、ブラックフォード・ヒル、アーサーズ・シートを経て、最後に再びカールトン・ヒルに戻ってくる。
マカオ(澳門)
マカオは5世紀以降に港町として栄えていたが、1513年にポルトガル人が到着した。ポルトガル人にとって、故郷リスボンと同じく「七つの丘」のあるマカオは非常に好ましい土地であり、1553年からポルトガル人の移住が始まる。1557年にポルトガル人は明朝から永久居留権を手に入れた。その後、キリスト教布教の中心地となり、日本との交流も活発になる。しかし、1639年、江戸幕府は鎖国令を発し、ポルトガル船の来航を禁じたため、日本とマカオの交流は断たれた。
1735年の清朝鎖国により、ヨーロッパ商人は冬以外の季節を広州ではなくマカオで過ごすようになる。1887年、ポルトガルはマカオの永久統治権を手に入れ、正式にポルトガルの植民地となった。1999年12月、マカオは中国に返還され、中華人民共和国の「一国二制度」のもとで統治されることとなった。
- 西望洋山(ペンニャ、Colina da Penha)
- 東望洋山(ギア、Colina da Guia)。別名、松山。古称は琴山であった。
- 媽閣山(バラの丘、Colina da Barra)。ふもとに媽閣廟がある。マカオの語源とされる。
- 大炮台山/聖保禄山/柿山(モンテの丘、Colina do Monte)。モンテの砦(Fortaleza do Monte、大炮台)がある。
- 望廈山/蓮峰山/蓮花山/黑鬼山(モンハの丘、Colina de Mong-Ha)モンハの砦(望廈炮台)がある。
- 青洲山(Colina da Ilha Verde)
- 馬交石山(Colina de Dona Maria II)
ヤシ
ルーマニアのヤシ市(Iaşi)は、七つの丘に作られた都市であると信じられている。また、ローマ市との類推で「七つの丘の都市」(la città dei sette colli)とも言われる。
- Cetăţuia(ツェタツイヤ)
- Galata(ガラタ)
- Copou-Aurora
- Bucium-Păun
- Şorogari
- Repedea
- Breazu
この都市が文献に現われるのは14~15世紀のことで、1565年にはモルドバ公国の首都が置かれた。しかし、1538年、オスマン帝国の攻撃を受ける。その後も数々の侵入を受けるが、ヤシはモルドバ文化の中心地として重要な位置を占めた。
タラハシー
アメリカ合衆国フロリダ州の州都タラハシー (Tallahassee) は、アメリカ先住民のマスコギ語で「旧友」という意味だという。16世紀からスペイン人による探検が行なわれていた。
タラハシー市は「7つの丘の都市」といわれることがある。タラハシー市は、フロリダの大半と同様、丘がちではなく平坦である。では、この愛称がどうしてつけられたのか。それは、1885年のタラハシー地図に手がかりがありそうだ。この地図では、タラハシー下町を一つの丘の上にあるように描いている。タラハシーに至る7本の幹線道路があり、そのために、この街にどの方向からでも来るためには丘を登らねばならなかった。それで「7つの丘の都市」と呼ばれるようになったのである。
リッチモンド
アメリカ合衆国バージニア州リッチモンド市(Richmond)は、バージニア州の州都である。1607年に入植が始まった。
リッチモンドは以下の7つの丘・傾斜地の上に建てられたという。
- Union Hill(ユニオン・ヒル、連合が丘)
- Church Hill(チャーチ・ヒル、教会が丘)
- Council Hill(カウンシル・ヒル、会議が丘)
- Shockoe Hill(ショッコー・ヒル)
- Gambles Hill(ギャンブルズ・ヒル、バクチが丘)
- Navy Hill(ネイビー・ヒル、海軍が丘)
- Oregon Hill(オレゴン・ヒル)
サマヴィル
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ミドルセックス郡サマヴィル市(Somerville)は、1630年にチャールズタウンの一部として入植が始まった。この街も7つの丘があるとされる。
- Central Hill(セントラル・ヒル、中央が丘)オックスフォード通り近く
- Cobble Hill(コブル・ヒル、丸石が丘)ワシントン通りとマクグラス大通りの近く
- Ploughed Hill(プラウド・ヒル、耕された丘)別名Mount Benedict(ベネディクト山)
- Prospect Hill(プロスペクト・ヒル、見晴らしが丘)
- Spring Hill(スプリング・ヒル、春が丘)
- Winter Hill(ウィンター・ヒル、冬が丘)
- Clarendon Hill(クラレンドン・ヒル)、Walnut Hill(ウォルナット・ヒル、クルミが丘)、Strawberry Hill(ストロベリー・ヒル、苺が丘)のうちどれか一つ
また、サマヴィルにはSeven Hills Park(七丘公園)がある。
プロビデンス
アメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンス市(Providence)は、ロードアイランド州の州都である。1636年、ロジャー・ウィリアムスが「神の摂理(Providence)により」この土地を発見したために名付けられた。
- Christian Hill(クリスチャン・ヒル)
- College Hill(カレッジ・ヒル、大学が丘)別名Prospect Hill(プロスペクト・ヒル、見晴らしが丘)。プロビデンス川の東。
- Constitution Hill(コンスティトゥーション・ヒル、憲法が丘)下町の近く。
- Federal Hill(フェデラル・ヒル、連邦が丘)下町の西。
- Smith Hill(スミス・ヒル)
- Tockwotten Hill(トックウォッテン・ヒル)
- Weybosset Hill(ウェイボッセット・ヒル)
ウースター
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ウースター市(Worcester)は、1673年に入植が始まった。
ウースター市には非常に険しい丘が7つある。
- Airport Hill(エアポート・ヒル、空港が丘)
- Bancroft Hill(バンクロフト・ヒル)
- Belmont Hill(ベルモント・ヒル)別名Bell Hill(ベル・ヒル、鐘が丘)
- Grafton Hill(グラフトン・ヒル)
- Green Hill(グリーン・ヒル、緑が丘)
- Pakachoag Hill(パカチョアグ・ヒル)
- Vernon Hill(ヴァーノン・ヒル)
サンフランシスコ
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ市(San Francisco)は、七つの丘があるとされる。
サンフランシスコは1776年、スペイン探検隊が作った集落ヤーバブエナが発祥となっている。一時メキシコ領だったが、1846年にアメリカ合衆国の一部となり、1847年にサンフランシスコと改称した。
- Telegraph Hill(テレグラフ・ヒル)
- Nob Hill(ノブ・ヒル)
- Russian Hill(ロシアン・ヒル)
- Rincon Hill(リンコン・ヒル)ジョン万次郎が登ったことがある。
- Mount Sutro(マウント・ストロ)
- Twin Peaks(ツインピークス)夜景で有名。
- Mount Davidson(マウント・デビッドソン)
このほか、サンフランシスコは約50の丘があるとされ、世界第二の丘の都市とされる。
シンシナティ
アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ市(Cincinnati)は「七つの丘の都市(City of Seven Hills)」と呼ばれることがある。
1788年に建設されたシンシナティは、アメリカ独立戦争の士官によって設立されたシンシナティ協会にちなんで名付けられた名前である。シンシナティ協会という名前は、共和制ローマのルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥス将軍(Cincinnatus)にちなんで名付けられた。そこで、シンシナティと古代ローマを結びつけることになったと思われる。ローマとシンシナティはどちらも丘が多いため、七つの丘の都市という考え方が地元の伝説として根付いたものである。
ジョージア州ローマ
アメリカ合衆国ジョージア州フロイド郡ローマ市(Rome)は、1834年に建設された。
ローマの名前は、イタリアのローマ市を記念したものである。ジョージア州ローマ市は、川がその間を流れる7つの丘の上に建設され、そのためにローマという地名となったのである。
ローマの名前のもととなった7つの丘は以下のとおりである。
- Blossom Hill(ブロッサム・ヒル、花が丘)
- Jackson Hill(ジャクソン・ヒル)
- Lumpkin Hill(ランプキン・ヒル)
- Mount Aventine Hill(アヴェンティン山の丘)
- Myrtle Hill(マートル・ヒル、ギンバイカの丘)
- Shorter Hill(ショーター・ヒル、今はオールド・ショーター・ヒルという)
- Neely Hill(ニーリー・ヒル、別名タワー・ヒル、クロックタワー・ヒル、時計塔の丘)
ローマ市建設後、いくつかの丘は部分的に平坦にされた。
ネヴァダ市
アメリカ合衆国カリフォルニア州ネヴァダ郡ネヴァダ市は、ゴールドラッシュの真っ最中の1849年に建設された。ディアー・クリークで金が発見されてから2年のうちに800万ドルの金塊が掘り出された。
ネヴァダ市の七つの丘は以下のとおりである。
- Piety Hill(パイアティ・ヒル、信心が丘)
- Lost Hill(ロスト・ヒル、失われた丘)
- Prospect Hill(プロスペクト・ヒル、見晴らしが丘)
- Boulder Hill(ボウルダー・ヒル、丸石が丘)
- Aristocracy Hill(アリストクラシー・ヒル、上流階級が丘)
- Bourbon Hill(バーボン・ヒル)
- Oregon Hill(オレゴン・ヒル)
- Nabob Hill(ナボブ・ヒル、成金が丘)
- Buckeye Hill(バックアイ・ヒル、トチノキが丘)
ネヴァダ市にはこれ以外にも丘があったことが、歴史的資料に載っている。American Hill、Canada Hill、Coyote Hill, Cement Hill、Manzanita Hill、Phelps Hill、Oustamach Hill、Wet Hillなどである。
シアトル
アメリカ合衆国ワシントン州シアトル市(Seattle)は、1851年に発見されたとされている。
1900年ごろから、ワシントン州シアトル市の後援者は、ローマをまねてシアトル市の「7つの丘」を持ち上げた。この数は恣意的なものであって、これは1万4000年前のVashon氷河の後退によって残されたシアトルの数多くの丘、尾根、絶壁の地形を正確に述べたものではない。いずれにしても、ローマのほのめかしは、土地購入者や新しい家族を引き寄せて「太平洋岸北西部の女王の都市」という不動産スローガンを持つ街を発展させる助けとなった。
どの丘がもともと「7」つに数えられたかについて定説はないが、主な候補は以下のとおりである。
- 第1の丘は、険しい斜面を登る人たちが好き勝手なことをしていることを罵って「Profanity Hill(冒涜が丘)」と呼ばれる。これはシアトルの下町の東にそびえ、この都市の最初の居住地の近くにある。病院があるので「Pill Hill(丸薬が丘)」とも呼ばれている。
- 第2の丘は「Renton Hill(レントン丘)」と呼ばれる。これは、第17通りに沿った中央地区を所有していたウィリアム・レントン船長の名前にちなむ。
- 「Denny Hill(デニー丘)」は、パインストリートのすぐ北にあり、1900年代初頭にデニー・リグレードを作るために平らにされた。
- 「Capitol Hill(キャピトル・ヒル)」は下町の北西にあり、1900年に開発者ジェームズ・ムーアによって名付けられた。これはボランティア・パークの近くの高級住宅を売り出すプロモーションであった。
- 「Yesler Hill(イェスラー丘)」あるいは「Profanity Hill(冒涜が丘)」(第1の丘と同名だが、ほとんど隣接している)は、もともとキング郡庁舎があった場所で、今はハーバービュー病院と第9通り、イェスラー住宅地がある。伝説によれば、1887年にケーブルカーが敷設されるまで、パイオニア・スクエアの仕事場からイェスラー道路の厳しい坂を歩いて登らねばならなかった法律家の名前だという。
- 「Beacon Hill(信号灯の丘)」は下町の南。1851年に最初に居住されたが、その尾根は正式に名前がつけられていなかった。1899年になって、開発者とM・ハーウッド・ヤングは、故郷であるマサチューセッツ州ボストンの「ビーコン・ヒル」にちなんで命名した。
- 「Queen Anne Hill(アン女王の丘)」はもともと「Temperance Hill(禁酒が丘)」と呼ばれていた。そこには絶対禁酒主義者が多数住んでいたためである。今ではアーリーアメリカン建築様式を残していることで知られている。
Magnolia Bluff(モクレン絶壁)、Sunset Hill(日没が丘)、Duwamish Head(ドゥワーミシュ族の頂)、West Seattle Hill(西シアトル丘)などを含める場合もある。
カンパラ
カンパラ(Kampala)はアフリカ東部のウガンダの首都である。カンパラという地名は、「kasozi ka impala」すなわち「インパラ(羚羊の一種)の丘」に由来する。19世紀中ごろ、ブガンダ王国(英国保護領)の首都となり、その後、ウガンダでも首都となった。伝統的にカンパラは「七つの丘の都市」といわれるが、現在はもっと多くの丘がある。また、どれが七つの丘かということについては定説はない。
- 第1の丘は歴史的に重要な「Kasubi Hill(カスビの丘)」である。ここは、ブガンダの歴代の王(カバカ)の埋葬されたカスビの墓がある。
- 第2は「Mengo Hill(メンゴの丘)」である。現在、カバカの宮殿と、ブガンダ裁判所がある。
- 第3は「Kibuli Hill(キブリの丘)」である。キブリ・モスクがある。キリスト教宣教師が到来する以前にイスラム教がウガンダにもたらされていた。
- 第4は「Namirembe Hill(ナミレンベの丘)」で、ナミレンベ・プロテスタント大聖堂がある。初めて到来したキリスト教宣教師はプロテスタントだった。
- 第5は「Rubaga Hill(ルバガの丘)」、ルバガ・カトリック大聖堂があり、白人神父たちの本拠地である。
- 第6は「Nsambya(ンサンビャ)」で、ミルヒル宣教団の本部があった。現在はンサンビャ病院がある。
- 第7は「little hill of Kampala(カンパラの小さい丘)」「インパラの丘」であるが、ルガードの要塞の遺跡がある。この遺跡は2003年に破壊され、ウガンダ・ムスリム最高審議会(UMSC)が要塞を含む土地に1万5000人収容のモスクを建築した。このモスクはアミン大統領によって建設が始められたが、完成していなかったのである。
市街地は、Nakasero Hill(ナカセロの丘)に広がり、政治の中心と最富裕層の居住地となっている。また、Tank Hill(タンクの丘)には水タンクがある。Mulago Hill(ムラゴの丘)はウガンダ最大のムラゴ病院がある。Makerere Hill(マケレレの丘)にはマケレレ大学がある。現在、市街地は急速にMakindye Hill(マキンディエの丘)とKonge Hill(コンゲの丘)の両脇に広がっている。キブリ、タンク、マキンディエの丘を含むマキンディエ区には30万人が住んでいる。
ツェーヴェンベルゲン
ツェーヴェンベルゲン(Zevenbergen)は、オランダのMoerdijk自治都市を構成する市である。
ツェーヴェンベルゲン(「7つの丘」の意味)という地名は、ローマ帝国時代に自然の要害となっていた丘にちなんで名付けられたものである。 しかし、実際の丘の数には議論の余地があり、おそらくは7つではない。 1964年~1965年の発掘調査で2つの丘はすでに青銅器時代に存在していたことがわかった。
19世紀半ばから20世紀末まで、ツェーヴェンベルゲンは3つの砂糖工場を擁する砂糖生産で有名だった。 ツェーヴェンベルゲンが鉄道を得たのは、砂糖輸送の必要性があったからである。
ツェーヴェンベルゲンは独立した自治都市であったが、1997年にFijnaart en Heiningen、Kundert、Standdaarbuiten、Willemstadと合併した。 新しい自治都市の名前は元来「ツェーヴェンベルゲン」であったが、1998年に「Moerdijk」に変えられた。
ティルマラ
インドのアーンドラ・プラデーシュ州にあるティルマラ(Tirumala)丘は、「至高なるものの山」という意味である。
絵のように美しいティルマラの丘は、海抜860メートルにあり、 260平方キロメートルの広さがある。それは神蛇アウディセーシャ(Audisesha)の7つの頸部を表わす7つの峰があり、それゆえにセーシャチャラム(Seshachalam)という名前がある。
7つの峰は、Seshadri(セーシャードリ)、Vedadri(ヴェーダードリ)、Garudadri(ガルーダードリ)、Anjandri(アンジャンドリ)、Vrishabhadri(ヴリシャバードリ)、Narayandri(ナーラーヤンドリ)、Venkatadri(ヴェーンカタードリ)である(Adriはサンスクリット語で丘を意味する)。ヴェーンカータムの丘は、天の山メール山の一部であるが、ヴァイクンタムから神鳥ガルーダによって地上にもたらされたと信じられている。シュリー・ヴェーンカテーシュヴァラの聖なる神殿は第7の峰ヴェーンカタードリにあり、ティルマラの主の出現に関する伝説がいくつかある。この主の神殿は非常に古く、チョーラ朝とパッラヴァ朝のシャンガム文献にも記載がある。
江戸/東京
毛綱毅曠説によると、以下のとおり。
- 上野台地
- 本郷台地
- 小石川・目白台地
- 牛込台地
- 赤坂・麻布台地
- 芝・白金台地
- 四谷・麹町台地
太田道灌が見立てた江戸は七つの丘と八つの州(八重洲という地名はここから起こる)でできていた。江戸における七つの丘とは上野、本郷、小石川および目白、牛込、赤坂および麻布、芝および白金の六つの台地に、中央の四谷・麹町の台地である。そして真ん中の四谷・麹町台地には、風水でいうところの太極暈(たいきょくうん)、すなわち渦巻き状の中心、これが龍の穴に見立てられ、渦巻き状の江戸城を築くことになる。
– 毛綱毅曠, 『風水伝奇 ガイアインターネット』時事通信社
『風水伝奇 ガイアインターネット』。八重洲の語源は、徳川家康に仕えたヤン・ヨーステンの邸宅があったことにちなむものであるため、ここでの記載は誤りである。
武光誠・宮元健次説によると、以下のとおり。
- 上野台地
- 本郷台地
- 小石川台地
- 牛込大地
- 麹町台地
- 麻布台地
- 白金台地
- (本丸台地は別に数える)
そして、いよいよ家康は、江戸の中核となるみずからの城の建設にのり出した。家康の命令で、天海らブレーンが次に行ったのは、城をどのあたりに建てればよいのかということをくわしく調べることであった。
そして調査の結果、上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込大地、麹町台地、麻布台地、白金台地の合計七つの台地に囲まれる土地を発見した。この土地こそが、かつては太田道灌の居城が建ち、のちに江戸城が建てられた本丸台地であったのである。本丸台地は、ちょうどそれを囲む七つの台地それぞれの延長戦の交わる位置にあたり、陰陽道ではこのような地形を「交差明堂形」と呼び、その中心は地の気がきわめて高く、文明が栄えるといわれている。– 宮元健次, 『江戸の都市計画』講談社選書メチエ
秀吉から関東の地に移封させられた家康は、まっさきに江戸城を築いた。それは秀吉が江戸を関東の拠点とせよと命じたことによるものだ。このとき家康は天海とともに白をおくべき土地をていねいに選定している。
江戸城、つまり、今の皇居は、上野台地、本郷台地、小石川台地、牛込台地、麹町台地、麻布台地、白金台地の七つの台地にきれいにかこまれている。江戸城は、それらの台地の高地の延長線が交わる位置にある。
中国の風水術は、そのような地形を、「交差明堂形」という。七つの台地は「龍の穴」とよばれ、その中心は地の気がきわめて強く、文明がさかえる場所になる。古代ローマも、中国の古都長安(今の西安)も、江戸とおなじように、七つの丘にかこまれている。– 武光誠, 『呪術が動かした日本史』青春出版社
宮元健次『江戸の都市計画』の出典が武光誠『呪術が動かした日本史』。天海らのブレーンがこのような調査を行なったという事実は存在しない。この解説は総じて誤りである。
毛綱説では六つの台地+中央の四谷・麹町の台地とされているのに対し、宮元説では七つの台地+中央の本丸台地とされている。このことから、江戸が七つの丘に囲まれるというのはそれぞれの説の提案者による思いつきであると考えられる。
なお、長安と七つの丘の関係については、他の資料では見受けられない。
その他七つの丘に建設されたという伝説のある都市
- カポシュヴァール(Kaposvár)。ハンガリーのショモジ県の首都。七つの丘に建設されたと伝えられる。
- シェフィールド市(Sheffield)は、英国サウス・ヨークシャーの刃物製造や銀メッキで有名な都市。七つの丘に作られた都市とされる。ただし、7つではなく8つの丘があるとする主張もある(Seven Hills of Sheffield)。
- サン=テティエンヌ(Saint-Étienne)。フランスのロワール県サン=テティエンヌ郡の郡庁所在地サン=テティエンヌ市は、地元では七つの丘の街と呼ばれている。
- ヤウンデ(Yaoundé)。アフリカ中部のカメルーン共和国の首都。1888年にドイツ人によって象牙貿易の拠点として建設された。
- トビリシ(Tbilisi)。グルジア共和国の首都。
- ミネソタ州セントポール市(Saint Paul)。
Seven Hills
Seven Hillsという地名がいくつかある。
- アメリカ合衆国オハイオ州カイヤホガ郡セブンヒルズ市
- アメリカ合衆国コロラド州オーロラ市セブンヒルズ
- オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州シドニー市セブンヒルズ
- オーストラリア連邦クイーンズランド州ブリスベン市セブンヒルズ
参照
この記事は、List of cities claimed to be built on seven hills - Wikipedia, the free encyclopediaをもとにして調査し直したものである。