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大僧正天海
 
 
 
'''大僧正天海'''は、[[天海]]についての事跡を各種史料からまとめた著作である。著者は須藤光暉(南翠)。大正五年九月二十日、冨山房から出版された。
 
'''大僧正天海'''は、[[天海]]についての事跡を各種史料からまとめた著作である。著者は須藤光暉(南翠)。大正五年九月二十日、冨山房から出版された。
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[[ファイル:大僧正天海題字.jpg|thumb|『大僧正天海』題字ページ]]
  
 
本書の内容は極めてすばらしいものであり、一般に「事跡が明らかでない」とされる天海の事跡を明確に記したものである。
 
本書の内容は極めてすばらしいものであり、一般に「事跡が明らかでない」とされる天海の事跡を明確に記したものである。
  
このサイトでは[[松永英明]]が現代語訳して全編掲載する。
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このサイトでは[[松永英明]]がすべて現代語訳して全編掲載する。
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== 巻頭図版 ==
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File:慈眼大師寿像.jpg|慈眼大師寿像(仙波喜多院安置)
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File:一実神道血脈相承.jpg|一実神道血脈相承(東叡山青龍院蔵)
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File:大師号勅宣.jpg|大師号勅宣
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== 例言 十則 ==
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# 本書は、明治四十五年の春、喜多院正遠賀亮中師の依頼に応じて、纂輯編述の業を起こし、大正五年の春にその業をおわり、同年五月十九日をもって本文の校訂を終了した。今、稿本全部を仙波慈眼堂の影前に供え、その著作権を挙げて財団法人星岳保勝会に寄進する機会に恵まれたのは、心から欣幸とするところである。
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# 天海伝の定本を得難いことは、[[大僧正天海考異|考異]]においてほぼこれを尽くしたと考える。はじめ慈眼大師年譜に基づいて起稿しようとしたが、劈頭所生の父母、出生の年月について疑問が百出し、すなわち流布本によって伝を立てることが誤っていることをさとり、ついに筆をなげうって群書の渉猟に没頭した。しかし、繙閲の図書はわずかに二百部前後にすぎず、いまだ完伝を大成するに至らなかったのは、私が最も遺憾とし、深く慚愧するところである。
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# 本書の体は、基礎を正確な史実に据え、平易通俗の文で書き、具体的に大師を描写しようと試みた。この稿本の一千数百葉、大正三年の秋、男爵[[渋沢栄一]]氏にお見せした。すると、男爵の意は史伝体として大師を世に伝えようとすることにあったため、さらに博引広渉につとめ、稿本は文学博士・辻善之助氏に送って史実の調査を乞うた。博士のこの綿密な考証に基づき、完全に文章を更新して再び博士の厳密な検閲を仰ぎ、なおかつ再三修正して、ようやく稿を脱するに至った。本書が後世に利するところがあるとすれば、それは男爵の明達な識見と博士の精緻な考証とのたまものである。
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# 巻頭並びに巻中に挿入した古文書、図書、宝器等の写真は、主として日光、上野、仙波に現存する真蹟について、本伝と密接な関係のあるものを選び、複製したものである。巻中第一図などは上版の後新たに発見したものだが、大師の前名を証する唯一の資料なので、後からこれを挿入した。無心の別号などは実に世間未知のものであるがゆえに、版を改めて本文に追加した。このほか、貴重な文書ははなはだ多いが、それまではということで割愛した。
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# 年表は、大師の一代を通じて、年次を追って表出し、記事はつとめて省略した。傍ら、関係ある史実を併録したのは、時代の推移を明らかにするためだけではなく、本文の関係を保とうとしたためである。本表もまた博士の指導を得て、五度稿を改めたけれども、なお誤脱があるかもしれない。ご教示いただきたい。
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# 流布されている天海伝はことごとく仏教徒の手によるため、その法徳を著わす点には最も深く意を用いているが、時代の生んだ偉人の行実としては、いまだあきたりないところがある。たとえば、皇武の乖離を中和して、長らく皇室の尊栄を保持し得たこと、徳川家光を薫陶してよく三代の治をなさせたこと、仏意を呈して多く罪を得た人を救ったことなどの逸事に至っては、なかなか顧みられていない。暦年の差異、叙事の矛盾、数えるときりがない。これについては浅学寡聞を顧みるいとまもなく、考異を草してこれを巻尾に付録として載せた。多くの方のご教示を仰ぎたい。
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# 引用書目は章尾に注記した。これらは主として原本について抄出したものだが、まれには原書にたどれず、孫引きを余儀なくしたものもある。また、ノートに写す際に誤って書名を逸したものもあった。他日改版の機会があれば是正したい。書名中『東源記』とあるのは『東叡開山慈眼大師伝記』、『諶泰記』は『武州東叡開山慈眼大師伝』である。ともに記者の名によって名づけた。また『縁起』『大師縁起』とあるのは同じく『投影開山慈眼大師縁起』の略である。あとは類推していただきたい。
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# 本書題簽の文字は、本朝入木道(=書道)の宗家、洛東粟田青蓮院尊純法親王の御筆を複写したものである。親王は大師についてことに親厚の情誼を有せられ、現に日光縁起の和訳のような密接な交渉があるため、特にその御筆を選んだのである。
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# 本書編纂の効をまっとうしたのは、ひとえに輪王寺門跡大僧正正彦坂諶照、喜多院僧正遠賀亮中、林光院大僧部長沢徳玄、無動院大僧都大森亮順諸師、および男爵渋沢栄一、文学博士辻善之助、鷲尾順敬、高木文次郎、高田町長田中仙三諸氏の指導・援助・好意に追うところが最も大きい。ここに満腔の敬意を表し、深甚の感謝を捧げることは、私にとっての光栄である。
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# 本書編纂半ばにして大いに視力の衰耗を感じたが、昨冬ついに内障眼の診断を下され、灯火の仕事は絶対に禁ぜられた。さらに校正に臨んで病勢は大いに進み、拡大鏡でも活字を弁ずることができなくなり、しばしば中絶のやむなきに至った。そこで、魚魯の誤り、傍訓の錯乱だけでなく、校字を調べきれていない跡があるかもしれない。ご容赦いただきたい。
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大正五年八月
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著者識
  
 
==目次==
 
==目次==
  
 
=== 第一編 修学 ===
 
=== 第一編 修学 ===
* [[大僧正天海1-01|第一章 瑞夢受胎]]
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* [[大僧正天海1-01|第一章 瑞夢受胎]]:天文五年(1536)陸奥国大沼郡高田郷に船木兵太郎出生
* [[大僧正天海1-02|第二章 龍興入室]]
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* [[大僧正天海1-02|第二章 龍興入室]]:天文十五年(1546)高田の龍興寺にて出家、随風と号する
* [[大僧正天海1-03|第三章 負笈振錫]]
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* [[大僧正天海1-03|第三章 負笈振錫]]:天文十八年(1549)宇都宮の粉河寺、比叡山東塔別所神蔵寺、三井の園城寺
* [[大僧正天海1-04|第四章 慈母嬰疾]]
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* [[大僧正天海1-04|第四章 慈母嬰疾]]:弘治二年(1556)南都興福寺、母の危篤により帰郷
* [[大僧正天海1-05|第五章 名山歴訪]]
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* [[大僧正天海1-05|第五章 名山歴訪]]:永禄三年(1560)足利学校へ。その後名山歴訪、善昌寺の一院の住持となる
* [[大僧正天海1-06|第六章 甲府論席]]
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* [[大僧正天海1-06|第六章 甲府論席]]:元亀二年(1571)織田信長による延暦寺焼き討ち。甲府での論席と武田信玄。
 
* [[大僧正天海1-07|第七章 三教一致]]
 
* [[大僧正天海1-07|第七章 三教一致]]
 
* [[大僧正天海1-08|第八章 会津没落]]
 
* [[大僧正天海1-08|第八章 会津没落]]
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* [[大僧正天海考異|考異]]
 
* [[大僧正天海考異|考異]]
 
* [[天海(年表)|慈眼大師天海大僧正年表]]
 
* [[天海(年表)|慈眼大師天海大僧正年表]]
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== 奥付 ==
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* 大正五年九月十七日印刷
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* 大正五年九月二十日発行
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* 著者 須藤光暉
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* 発行者 東京市神田区裏神保町九番地 合資会社冨山房
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* 代表者 同所合資会社冨山房社長 坂本嘉治馬
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* 印刷者 東京市芝区愛宕町三丁目二番地 笠間音次
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* 印刷所 同所 東洋印刷株式会社
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* 発行所(明治二十九年六月設立)東京 合資会社冨山房 電本一〇三六、四一三〇番 振替東京五〇一番
  
 
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2011年1月26日 (水) 16:58時点における最新版

大僧正天海は、天海についての事跡を各種史料からまとめた著作である。著者は須藤光暉(南翠)。大正五年九月二十日、冨山房から出版された。

『大僧正天海』題字ページ

本書の内容は極めてすばらしいものであり、一般に「事跡が明らかでない」とされる天海の事跡を明確に記したものである。

このサイトでは松永英明がすべて現代語訳して全編掲載する。

巻頭図版

例言 十則

  1. 本書は、明治四十五年の春、喜多院正遠賀亮中師の依頼に応じて、纂輯編述の業を起こし、大正五年の春にその業をおわり、同年五月十九日をもって本文の校訂を終了した。今、稿本全部を仙波慈眼堂の影前に供え、その著作権を挙げて財団法人星岳保勝会に寄進する機会に恵まれたのは、心から欣幸とするところである。
  2. 天海伝の定本を得難いことは、考異においてほぼこれを尽くしたと考える。はじめ慈眼大師年譜に基づいて起稿しようとしたが、劈頭所生の父母、出生の年月について疑問が百出し、すなわち流布本によって伝を立てることが誤っていることをさとり、ついに筆をなげうって群書の渉猟に没頭した。しかし、繙閲の図書はわずかに二百部前後にすぎず、いまだ完伝を大成するに至らなかったのは、私が最も遺憾とし、深く慚愧するところである。
  3. 本書の体は、基礎を正確な史実に据え、平易通俗の文で書き、具体的に大師を描写しようと試みた。この稿本の一千数百葉、大正三年の秋、男爵渋沢栄一氏にお見せした。すると、男爵の意は史伝体として大師を世に伝えようとすることにあったため、さらに博引広渉につとめ、稿本は文学博士・辻善之助氏に送って史実の調査を乞うた。博士のこの綿密な考証に基づき、完全に文章を更新して再び博士の厳密な検閲を仰ぎ、なおかつ再三修正して、ようやく稿を脱するに至った。本書が後世に利するところがあるとすれば、それは男爵の明達な識見と博士の精緻な考証とのたまものである。
  4. 巻頭並びに巻中に挿入した古文書、図書、宝器等の写真は、主として日光、上野、仙波に現存する真蹟について、本伝と密接な関係のあるものを選び、複製したものである。巻中第一図などは上版の後新たに発見したものだが、大師の前名を証する唯一の資料なので、後からこれを挿入した。無心の別号などは実に世間未知のものであるがゆえに、版を改めて本文に追加した。このほか、貴重な文書ははなはだ多いが、それまではということで割愛した。
  5. 年表は、大師の一代を通じて、年次を追って表出し、記事はつとめて省略した。傍ら、関係ある史実を併録したのは、時代の推移を明らかにするためだけではなく、本文の関係を保とうとしたためである。本表もまた博士の指導を得て、五度稿を改めたけれども、なお誤脱があるかもしれない。ご教示いただきたい。
  6. 流布されている天海伝はことごとく仏教徒の手によるため、その法徳を著わす点には最も深く意を用いているが、時代の生んだ偉人の行実としては、いまだあきたりないところがある。たとえば、皇武の乖離を中和して、長らく皇室の尊栄を保持し得たこと、徳川家光を薫陶してよく三代の治をなさせたこと、仏意を呈して多く罪を得た人を救ったことなどの逸事に至っては、なかなか顧みられていない。暦年の差異、叙事の矛盾、数えるときりがない。これについては浅学寡聞を顧みるいとまもなく、考異を草してこれを巻尾に付録として載せた。多くの方のご教示を仰ぎたい。
  7. 引用書目は章尾に注記した。これらは主として原本について抄出したものだが、まれには原書にたどれず、孫引きを余儀なくしたものもある。また、ノートに写す際に誤って書名を逸したものもあった。他日改版の機会があれば是正したい。書名中『東源記』とあるのは『東叡開山慈眼大師伝記』、『諶泰記』は『武州東叡開山慈眼大師伝』である。ともに記者の名によって名づけた。また『縁起』『大師縁起』とあるのは同じく『投影開山慈眼大師縁起』の略である。あとは類推していただきたい。
  8. 本書題簽の文字は、本朝入木道(=書道)の宗家、洛東粟田青蓮院尊純法親王の御筆を複写したものである。親王は大師についてことに親厚の情誼を有せられ、現に日光縁起の和訳のような密接な交渉があるため、特にその御筆を選んだのである。
  9. 本書編纂の効をまっとうしたのは、ひとえに輪王寺門跡大僧正正彦坂諶照、喜多院僧正遠賀亮中、林光院大僧部長沢徳玄、無動院大僧都大森亮順諸師、および男爵渋沢栄一、文学博士辻善之助、鷲尾順敬、高木文次郎、高田町長田中仙三諸氏の指導・援助・好意に追うところが最も大きい。ここに満腔の敬意を表し、深甚の感謝を捧げることは、私にとっての光栄である。
  10. 本書編纂半ばにして大いに視力の衰耗を感じたが、昨冬ついに内障眼の診断を下され、灯火の仕事は絶対に禁ぜられた。さらに校正に臨んで病勢は大いに進み、拡大鏡でも活字を弁ずることができなくなり、しばしば中絶のやむなきに至った。そこで、魚魯の誤り、傍訓の錯乱だけでなく、校字を調べきれていない跡があるかもしれない。ご容赦いただきたい。

大正五年八月

著者識

目次

第一編 修学

第二編 行化

第三編 人師

第四編 国宝

第五編 菩薩

残編 霊光

附録

奥付

  • 大正五年九月十七日印刷
  • 大正五年九月二十日発行
  • 著者 須藤光暉
  • 発行者 東京市神田区裏神保町九番地 合資会社冨山房
  • 代表者 同所合資会社冨山房社長 坂本嘉治馬
  • 印刷者 東京市芝区愛宕町三丁目二番地 笠間音次
  • 印刷所 同所 東洋印刷株式会社
  • 発行所(明治二十九年六月設立)東京 合資会社冨山房 電本一〇三六、四一三〇番 振替東京五〇一番