「聖☆おにいさん Tシャツ元ネタ(1巻)」の版間の差分
(ページの作成: 聖☆おにいさん 元ネタ第1巻のTシャツ文字元ネタ解説集。 * [http://amazon.co.jp/o/ASIN/4063726622/kotonoha0b-22/ref=nosim 聖☆おにいさん 1 (1) …) |
|||
1行目: | 1行目: | ||
− | [[聖☆おにいさん 元ネタ| | + | '''[[聖☆おにいさん 元ネタ|聖おにいさん]]'''第1巻のTシャツ文字元ネタ解説集。 |
* [http://amazon.co.jp/o/ASIN/4063726622/kotonoha0b-22/ref=nosim 聖☆おにいさん 1 (1) (モーニングKC)] | * [http://amazon.co.jp/o/ASIN/4063726622/kotonoha0b-22/ref=nosim 聖☆おにいさん 1 (1) (モーニングKC)] |
2009年10月20日 (火) 00:27時点における最新版
聖おにいさん第1巻のTシャツ文字元ネタ解説集。
表紙
- ブッダ「南無三」
- 「南無三宝」の略。南無=ナモー=「帰依する」という意味であり、三宝に帰依する、すなわち仏(ブッダ)・法(ダルマ)・僧(サンガ)の三宝に帰依すること。後に、本来の意味を失って、驚いた時や失敗した時、また事の成功を祈る時に発する語となった。しまった。さあ大変だ。
- イエス「ジーザス」
- イエスの英語読み「Jesus」。後に、驚き・怒りを表わす言葉となった。「驚いた!」「ちくしょう!」。ジーザスも南無三も、本来は聖なる言葉であったのに、感動詞として使われるようになったという点で似ている。
口絵
- ブッダ「仏顔×3」
- 「仏の顔も三度」は、「いかに温和な人、慈悲ぶかい人でも、たびたび無法を加えられれば、しまいには怒り出す」ということわざ。上方いろはかるたに含まれている。『聖☆おにいさん』のストーリーでは重要なキーワードだが、本当は仏教の教えではない。
- イエス「ヨシュア」
- イェホーシュアー(「ヤハウェは救い」)という人名の日本語表記。旧約聖書のヨシュアは、モーセの後継者で、イスラエルの民の指導者。また、イエスの名前でもある。
- ブッダ「シャカ族」
- 厳密にはシャーキャ族。今のネパールとインド国境あたりにいた部族。ブッダはそこの王子様だった。漢字で書くと「釈迦」で、お釈迦様というのはここから来ている。日本仏教の一部宗派では「釈尊」と書くのが決まりらしい。
その1
- ブッダ「シッダールタ」
- シャーキャ族の王子としてのもともとの名前(サンスクリット語)。成道前の世俗の名前といえる。「到達した人、達成した人」という意味がある。南伝仏教のパーリ語では「シッダッタ」。また、「ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)」と呼ばれることもあり、ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」を意味する。漢訳では「瞿曇悉達多」と書く。
- イエス「アーメン」
- 「そのとおりです」という意味のヘブライ語。ユダヤ教のラビ(律法学者)が聖書を読んだあとに、みんなが復誦する代わりに「そのとおりです」と言ったのが由来。お昼の番組でサングラスの男が言った言葉のあとに、客席みんなで「そうですねー!」と言うのと似ている。福音書の記述によれば、イエスは何か言い始める冒頭にこの言葉を言い、「いいですね、……これこれこういうことなんですよ」みたいな感じの使い方をした。その後、祈りや賛美歌の最後に置く言葉となった。
その2
- ブッダ「ニルヴァーナ」
- サンスクリット語。パーリ語ではニッバーナ。漢訳では音をとって「涅槃」。もともとは火が「吹き消えた」状態を指す言葉で、火と同じように煩悩が吹き消えた状態を意味する。ブッダが成道してから入滅するまでは、他の煩悩はすべてなくし、ただ身体を残していたというわけで「有余涅槃(サ・ウパーディセーサ・ニッバーナ)」という(ウパーディセーサ=「生命として燃えるべき薪」)。
- 入滅したときには、最後の身体も捨てて完全にこの輪廻の輪から解き放たれ「無余涅槃(アヌパーディセーサ・ニッバーナ)」となった。
- 昔、「オヤジ、涅槃で待つ」と遺書に書いて自殺した俳優がいたが、自殺なんかしていたら涅槃の境地には至れない。
- また、完全に輪廻の輪から解き放たれるということは、再びこの世界に生まれることがないということでもある。すなわち、「仏陀再誕」と主張したり、シャカの生まれ変わりと主張する宗教団体は、少なくとも仏教の教えを知らないということになる。
- イエス「ミレニアム」
- ラテン語でミレニウム。キリストが再臨してこの世を統治するという神聖な千年間、至福千年、千年王国。この千年王国の後、最後の審判が下される。
わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。(新共同訳「ヨハネの黙示録」20:4~7)
その3
- ブッダ「スジャータ」
- 正確には女性の名前なので「スジャーター」と最後を伸ばすのが正しい。
- シッダールタは6年間の厳しい苦行の末、苦行を終えることを決意した。プンナー樹のもとで座っていたところ、下女がその姿を見て樹の神様だと思い、スジャーターに報告した。スジャーターはシッダールタに乳がゆを供養した。この後、シッダールタはさらに瞑想を深め、成道する。ブッダ成道の直前の供養として、これは極めて価値のあるものとされている。
- ちなみに豆乳などで有名なメーカーの名称「褐色の恋人スジャータのめいらく」は、ここから名前をとっている。
- イエス「Mike Is Not Ambitious」
- MikeはMichael(ミカエル)の愛称。大天使ミカエルは天軍の総帥である。ミカエルという名前は「神に似た者」の意味である。
- "is not ambitious"はドゥエー・ランス聖書に出てくる言葉。ドゥエー・ランス聖書は、カトリック教徒のためにウルガタ聖書(ラテン語)から英訳された聖書である。新約は1582年ランスで、旧約は1610年ドゥエーで出版された。"is not ambitious"は、このドゥエー・ランス聖書の新約「コリントの信徒への手紙一」13:5に登場する。「(愛は)礼を失せず」。これを合わせると「ミカエルは礼を失せず」と訳せる。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(新共同訳「コリントの信徒への手紙一」13:4~7)
その4
- ブッダ「ほけきょう」
- 法華経。正式名称は「妙法蓮華経」、サンスクリット語の原題は「サッダルマプンダリーカスートラ」(正しい法である白蓮華の経典)。
- ブッダの説いた経典ではなく、紀元50~150年ごろに何者かがでっち上げた偽経である。しかし、中国の天台宗で最も重要な経典とされ、「五時八教」の教説などで法華経のみが真実の経典であるという考え方が生み出された(これは歴史的事実にはまったく合致しない)。
- 最澄(伝教大師)が日本に伝えた天台宗(比叡山延暦寺)でも法華経は至高の経典として扱われ、日本仏教では特に重視された。その中でも特に日蓮は「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われると説き、新興宗教である法華宗を始めた。宮沢賢治も法華経の信者である。また、創価学会、霊友会、立正佼成会などはいずれも法華宗系である。
- イエス「13」
- キリスト教社会においては、不吉な数字として扱われるが、イエス自身が不吉だと言ったわけではない。だから13と書いたTシャツも平気で着ているのだろうか。
- 最後の晩餐では、イエスと十二使徒が晩餐の席についた。13番目の席はイエスを裏切った(とされる)イスカリオテのユダであり、それゆえに13は不吉だという。13といえば「13日の金曜日」が有名だが、イエスが「13日の金曜日」に磔刑にされたという事実は存在しないし、キリスト教会でもそのように考えていない。13日の金曜日が不吉だというのは、北欧神話に基づくものである。
その5
- ブッダ「白い象」
- ブッダの母マーヤー(摩耶夫人)は、六本の牙をもつ白い象の王が胎内に入った夢を見てシッダッタを懐妊したと伝えられている。これを「白象降下」「霊夢托胎」という。
- イエス「父と私と精霊」
- 「部屋とYシャツと私」か。
- キリスト教の主流派では、父なる神とイエス・キリストと聖霊の3つが、実体として本質は一つであると解釈している。これを「三位一体説」といい、「父と子と聖霊」と言うことが多い。
- イエス本人のTシャツだから「子」を「私」にしたのだろうが、これでは街中で正体がばれてしまうぞ。でも「聖」霊の字が違う。これはブッダがシルクスクリーンで作った作品なので、うっかり間違えたのだろうか。
- ちなみに、三位一体説を採用しなかった宗派はキリスト教において異端とされた。アリウス派、ユニテリアン、エホバの証人などが三位一体を否定している。
- 部屋干しTシャツ「右脇」
- おそらくこれはブッダのものである。マーヤー夫人はルンビニーの花園で急に産気づき、サーラ樹(あるいは無憂樹(アショーカの木))の枝を右手でつかんだときに、右脇腹からシッダッタ太子が誕生した。
- イエスの処刑のときには「脇腹」を槍で刺されたという記述があるが、それが右か左かは明記されていない。「ヨハネによる福音書」19:34では、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」と書かれている。『ニコデモによる福音書』や『黄金伝説』によれば、このときイエスの脇腹を刺したのはロンギヌスというローマの兵士である。この槍が「ロンギヌスの槍」(聖槍)である。
- 部屋干しTシャツ「仏なんだものなぁ ブッダ」
- 部屋干しTシャツ「夢」
その6
- ブッダ「だってブッダなんだものなあ」
- Tシャツで正体をばらしてどうする。
- イエス「サムソンとデリラ」
- 旧約聖書「士師記」に登場する物語。士師とはイスラエルの民を率いる英雄たちのことである。
- サムソンは怪力の男であったが、髪の毛を剃られると力がなくなるという弱点があった。当時、イスラエルの民はペリシテ人に支配されていた。サムソンはペリシテ人の娘を妻とした。サムソンは結婚の祝宴で30人の客になぞかけをするが、妻がサムソンに取りすがって謎解きをするように訴えたので、サムソンは答えを教える。妻は客たちにそれを教えてしまった。サムソンは怒り、住民30人を打ち殺す。妻の父は怒り、別の客に娘を嫁がせてしまった。そこでサムソンはまた怒り、ジャッカル300匹の尾をつなぎ合わせてその間にたいまつをつけ、ペリシテ人の畑を焼き払ってしまう。ペリシテ人はユダヤ人にサムソンを引き渡すよう求め、サムソンは縛られて連行される。しかし、途中で縄目が落ち、サムソンはロバのあごの骨でペリシテ人を1000人打ち殺した。そして、サムソンは20年間、イスラエルを裁いた。
- その後、サムソンはデリラを愛するようになる。ペリシテ人たちはデリラに報酬を約束して、サムソンの弱点を探らせる。サムソンは嘘をつき続けるが、4回目についに「もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう」と明かす。デリラはサムソンの髪をそり、サムソンは力を失った。ペリシテ人たちはサムソンの目をえぐり出し、牢の中で臼をひかせていた。やがて、ペリシテ人の領主たちがダゴン神の祭りでサムソンを見せ物にする。屋上には約3000人がいた。すると、サムソンは宮を支えている柱に手をかけた。サムソンの髪の毛は伸びていたのだ。「ペリシテ人といっしょに死のう」と言ってサムソンが柱を引くと、宮は、領主たちと民全体の上に落ち、サムソンが死ぬときに殺した者は、生きている間に殺した者よりも多かった。
- 「サムソンとデリラ」というタイトルで有名なのは、サン・サーンスの歌劇である。また、映画にもなっている。
その7
- ブッダ「ダンマパタ」
- 「ダンマパダ」と思われる。
- 「ダンマパダ」は、ブッダ自身の言葉を残していると伝えられる最古の経典。「法句経」と訳されることもあるが、「法の言葉」とでもいった意味。中村元は「ブッダの真理のことば」と訳している。
- ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)(中村 元 翻訳)
- イエス「東方三博士」
- イエスが生まれたときに東方からやってきて祝福したという3人のマギ(博士、賢者)。聖書には三人とは書かれていないが、生まれたばかりのイエスと母マリアに「乳香(フランキンセンス)、没薬(ミルラ)、黄金」を捧げた。贈り物が3つであることから三博士とされたようである。
- ちなみに、8世紀以降の伝説では、カスパール、メルキオール、バルタサールの三人とされている。エヴァンゲリオンのスーパーコンピューター「MAGI」はこの伝説に由来する。
その8
- ブッダ「バラモン」
- インドの4姓種(ヴァルナ)の最高位である僧侶・祭司階級。正確には「ブラーフマナ」。漢訳で「婆羅門」と書いたものをカタカナ表記したのがバラモンである。仏教以前の古代インドの民族宗教はバラモン教と呼ばれる。
- ブッダの言葉である「スッタニパータ」には「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」と説かれている(中村元訳)。一部の歴史教科書などで、ブッダはバラモン教の身分制度に反対して仏教を創始したというように書かれることもあるが、ブッダは別に差別撤廃の社会運動家ではない。
- イエス「(魚)×2 (パン)×5」
- (魚とパンは絵で描かれている)
- パン5つと魚2匹をイエスの奇跡によって増やし、説教を聞きに来た5000人を満腹にさせたという伝説が聖書に書かれている。ガリラヤ湖のほとりの「パンと魚の奇跡の教会」には「2匹の魚と5つのパン」のモザイクがある。
イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。(新共同訳「マタイによる福音書」14:13~20)