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昭和34年の女性誌記事では「欧米では,この日に限り,女性から愛を打明けてもよい日と言われています」等の表現も見られる。欧米の風習として「女性から愛を打ち明ける」という習慣が伝えられたが、実際には欧米には「女性から」という限定の風習は特にない。 | 昭和34年の女性誌記事では「欧米では,この日に限り,女性から愛を打明けてもよい日と言われています」等の表現も見られる。欧米の風習として「女性から愛を打ち明ける」という習慣が伝えられたが、実際には欧米には「女性から」という限定の風習は特にない。 | ||
− | + | 昭和30年代後半からバレンタイン商戦が始まる。昭和35年(1960年)から、森永製菓は「愛する人にチョコレートを贈りましょう」という「バレンタイン・ギフト」懸賞キャンペーンを開始した。この前後にもバレンタイン商戦は展開されていたが、「女性が男性に愛を告白する日として、バレンタインデーにチョコレートを贈る」という日本型のバレンタインデーはこのころ菓子業界の主導で日本に広まったといえる。 | |
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+ | その後、バレンタインデーは告白の日というだけではなく、女性が(職場などの)男性にチョコレートを配布する日となっていく。「本命チョコ」「義理チョコ」は、当初照れ隠しの要素も含んでいたかもしれないが、女性陣が男性陣にチョコをばらまく習慣が定着している。 | ||
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+ | 一方、それに対する返礼として、全国飴菓子工業協同組合が昭和55年(1980)に3月14日を[[ホワイトデー]]とするキャンペーンを開始し、男性が女性に白いお菓子(キャンデー、マシュマロ、ホワイトチョコレートなど)を贈るという習慣が定着するようになった。 | ||
== 参照 == | == 参照 == |
2010年2月10日 (水) 16:05時点における最新版
バレンタインデーは、2月14日、男女の愛を伝える日とされる。現代の日本では(職場などで)女性が男性にチョコレートを贈ることが定着しているが、世界的にはチョコレートに限られず、また「女性から男性」にも限定されない。
目次
バレンタインデーの発祥と歴史
ルペルカーリア祭
古代ローマでは、2月は公式に春の初めであり、そしてみそぎの時であるとされていた。家々は掃き清め、それから塩とスペルト小麦を室内全体に撒くことによって儀式的に浄化された。2月15日に始まるルペルカーリアは、ローマの農耕神ファウヌスと、ローマの建国者ロームルスとレムスに捧げられた豊饒祭であった。
祝祭を始めるために、ローマの司祭の1階級であるルペルキが神聖なる洞穴パラティヌス(パラティーノ)に集まった。この洞穴では、ローマの建国者であるロームルスとレムスが幼少時に雌狼リュカイウスによって育てられたと信じられていた。
司祭は山羊を豊饒のために、犬を浄化のために捧げる。それから少年たちは山羊の皮を薄く切り、それをいけにえの血に浸して、通りに出ていき、女性たちや畑を山羊の皮で軽く叩いた。ローマの女性たちは、獣皮で叩かれることを怖がるどころか、歓迎した。細片によってその年はさらに子宝に恵まれると信じていたからだ。ちなみに、ラテン語で、羊皮鞭はフェブルア(februa)といい、鞭打つことはフェブルアティオ(februatio)という。実際には「清らか」という意味もある。ここから二月の名称(February)が来たのである。
伝説によると、その日の後刻、都市中のすべての若い女性たちは、自分の名前を大きいつぼの中に入れる。都市の独身男性はそれぞれ、つぼから名前を選び出し、その年は選んだ女性とカップルになる。これらの組み合わせはしばしば結婚に至ったとも伝えられる。
紀元496年、法王ゲラシウス1世は、異教の祭であるルペルカーリア祭をやめさせようとした。ただ、教会は愛を祝うこと自体を禁じたのではなく、異教の要素が神をおとしめることを悪いことだと考えたのである。2月15日のルペルカーリア祭は廃止されたが、2月14日が聖ウァレンティヌスの日(セント・バレンタインデー)となってその痕跡が残された。この時代までに、聖ウァレンティヌスは恋人たちの後援者として知られていたのである。
聖ウァレンティヌス
バレンタインの名前のもととなったウァレンティヌスとは何者か? この謎を解くのは容易ではない。ウァレンティヌスという名前の2人の異なった人物がいて、その生涯が一つの伝説にまとめられてしまったという説もあれば、同一人物から二つの伝説が生じたと述べている説もある。さらに、ウァレンティヌスという名前の人は3人いたともいう。いずれも2月14日が殉教の日である、と初期の殉教者列伝に記されている。
一人目の聖ウァレンティヌスはローマの司祭とされ、もう一人の聖ウァレンティヌスはインテラムナ(今のテルニ)の司教とされる。この二人はどちらも3世紀後半に殉教し、フラミニア街道に埋葬された。二人は同一人物ともされる。この二人の聖ウァレンティヌスについては、何らかの種類の言行録が残されているが、かなり遅い時期のものであり、歴史的資料価値はない。
次のようないろいろな話が伝わっている。
- ウァレンティヌスはローマの司祭で、クラウディウス2世ゴティクスによる迫害期のさなか、269年か270年ごろに殉教し、フラミニア街道に埋葬された。
- ウァレンティヌスは、ローマで殉死したテルニの司教であった。
- ウァレンティヌスは迫害期にキリスト教徒を支援した若い非信者だった。彼は捕えられて刑務所に入れられて、そこでキリスト教徒となり、269年2月14日に棍棒で撃たれて死んだ。刑務所内で、彼は友人たちに「あなたのウァレンティヌスを覚えていてください」「あなた方を愛しています」というメッセージを送ったとされる。
- ある物語では、ウァレンティヌスは、クラウディウス帝の結婚禁止令を破って、ひそかにカップルを結婚させた司祭であったとされている。
- 異教の神々を崇拝することを拒否したため、ウァレンティヌスは投獄された。看守の娘と親しくなって、娘を祈りによって治療したといわれる。そして、処刑の日(2月14日)、娘に「あなたのウァレンティヌス」と書き記したといわれる。
古代ローマで「フラミニアの門」と呼ばれていた門は、12世紀英国の年代記作者ウィリアム・オヴ・マームズベリーの時代には「聖ウァレンティヌスの門(ポルタ・ウァレティニ)」と呼ばれていた。現在は「ポルタ・デル・ポポロ」と呼ばれている。この名前は、ごく近くにあった聖ウァレンティヌスをまつる小さな教会(現在のサント・バレンチノ教会)からとられたようである。
3人目の聖ウァレンティヌスは多くの仲間とともにアフリカで殉教したとされるが、詳細は不明である。
中世――鳥の求愛の季節
バレンタインデーと結び付けられた一般的な習慣は、中世の間にイギリスとフランスで受け入れられるようになった因習的信念に起源を有していることが確かだ。それは、2月14日、すなわち1年の2番目の月の中日に、鳥がつがいを作り始めるという迷信である。
チョーサー(14世紀)の「百鳥の集い(Parliament of Foules)」の以下の記載が、英語による最古のバレンタインデーについての言及となる。
これは聖ヴァレンティン(Seynt Valentyne)の日に送られた
すべての鳥がつがいを選ぶためにやってくる日に
そういうわけで、この日は恋人たちのために特別に捧げられた日であり、ラブレターを書いて恋人のしるしを送るのによい機会であるとみなされた。14世紀から15世紀の英仏両国の文学は、この行事をほのめかす内容を含んでいる。
そのおそらく最も初期のものは、英仏両国語を使う詩人ジョン・ガウアー(チョーサーの友人)がフランス語で書いたバラード第34と第35であろう。
バレンタイン・カード
ローマのルペルカーリア祭と似た慣習は、14世紀に始まった。恋人がその日のためにくじで選ばれた。これは、鳥の春の求愛鳴きがウァレンティヌスの日に始まるという信仰に合わせるものであった。未婚の男女の名前が抽選されて組み合わせが決定した後、彼らはお互いにプレゼントを交換する。女子はこうして、一年間その男子のバレンタインとなるのである。男子の袖の上に女性の名前を刺繍することがあり、この女性を世話し、保護するのは男子の神聖な職務となった。15世紀から16世紀にはこの習慣は、上流階級の非常に一般的なものとなっていた。
これらのランダムに選ばれたペアの間で送られたメッセージは、現代のバレンタインデー・カードの原型である。つまり、自分の好きな異性の名前を引き当てるのを待つよりも、自分の名前を書いたカードをその女の子に直接送り、積極的に気持ちを表現するようになったのである。
現在に伝わる最古のバレンタイン・カードは、アジャンクールの戦い(1413年10月25日)でとらわれてロンドン塔に幽閉されていたオルレアン公シャルルが妻に宛てて書いた詩である。1415年に書かれた手紙はロンドンの英国図書館の写本コレクションの一部となっている。その数年後、イングランド国王ヘンリー5世がヴァロワのカトリーヌへのバレンタインの言葉を書くために、ジョン・リドゲートという作家を雇ったとされている。
このころ、お互いを恋人として選択しあった人たちは、「わたしのバレンタイン」と呼びあっていたようである。パストン家の書簡(15世紀)の中で、デイム・エリザベス・ブルースは、お気に入りの求婚者宛に、その娘と結婚してほしいという話題についてこのように書いている。
そして、わが縁者よ、月曜日は聖バレンタインデーで、すべての鳥がそのつがいを選ぶ日です。あなたが木曜日の夜に来てその日までとどまるつもりであれば、あなたがわが夫に話すことができるよう神に誓います。そして、この問題に決着をつけられるように祈ります。
その直後にその娘自身が同じ男性に宛てた手紙の中には、「わたしが本当に愛するバレンタイン、ジョン・パストン殿」と書かれている。「バレンタイン」を選んで手紙を送る習慣は、後年には比較的すたれるようになった。
花を使ってバレンタインデーのプレゼントとするのは、16世紀ごろに出現した。フランス王アンリ4世の娘の一人がバレンタインデーに盛大な夜会を開いた。女性を選んで自分のバレンタインとした男性は一本の花をプレゼントした。
18世紀
1700年代のイギリスでは、バレンタイン・カードは友人の戸口の上がり段に置かれ、男性と女性に与えられた。子供たちはバレンタイン・キャロルを歌った。
清教徒革命で権力を握ったクロムウェルは、バレンタインは不道徳であると宣言し、禁止した。しかし1660年までにバレンタインデーは復活した。
バレンタインデーのために特別に印刷されたカードは、1780年代になって普及した。それはドイツでフロイントシャフトカルテン(友情のカード)と呼ばれて大当たりした。
1800年までには商業的バレンタインが登場した。アメリカでは、バレンタインには花、キャンデー、香水といった贈り物がついてまわることになっている。
19世紀ヴィクトリア朝
1837~1901年、英国ヴィクトリア女王時代のバレンタイン習俗は特に独特のものだ。2月14日には、カップルは恋人に対して、特製のたらいのなかに、一株で二つのつぼみがついた春枝を入れる。花の名の1文字目は、相手の姓名の1文字目と合ったものでなければならない。数日後、この春枝の蕾が開けば最高、恋人達は老いるまで仲良く連れ添うという予兆である。もし二つのつぼみが開かないならば、このカップルは絶対に離ればなれになる。開いた花が大きく、絢爛豪華ならば、子孫が栄え、喜びが大きいということである。枯れしぼんでしまうなら、一人が早逝する危険がある。
バッキンガムではバレンタインデーの夜に祈祷する風習があった。一本のろうそくをともし、二本の細い針を刺し、ろうそくの底から灯心に至るまで自分の愛する人の名前を念じ、ずっと愛し合うことを祈る。蝋燭が針の先まで燃えるまで待っていれば、愛する人が扉を叩いてくるといわれていた。
別のバレンタインデーの習俗では、バレンタインデー前の一週間、連続七日、左脚の靴下を脱いで右足に履き、繰り返して「私の密かに愛している人が今晩の夢に出てきますように」と祈る。そうすれば、この時、月下老が一本の縁起のよい深紅の絹糸を投げてくれるのだという。靴下を脱いで首に巻いて愛情を祈ることもある。
バレンタインデーとチョコレート
チョコレートがバレンタインデーの儀式に使われるようになったのは、比較的後になってからのことである。コンキスタドール(16世紀にメキシコ・ペルーを征服したスペイン人)たちは1528年にチョコレートをスペインにもたらした。
豆からココアを作る製法はわかっていたが、チョコレートとして食べられるようにする方法は1847年、Fry & Sonsの発見を待たねばならなかった。それから20年後、キャドバリー兄弟は、もっとなめらかで甘いチョコレートの製法を発明した。チョコレートは、ビロードと鏡で作られた細工箱に入れられ、その細工箱はチョコレートを食べたあとにも小物入れとして使われた。リチャード・キャドバリーは1870年ごろ、最初のハート型のバレンタインデー箱をキャンディーのために作ったともいわれている。
(チョコレートは)はじめのころ、紙のラベルの貼られた木の箱の中に包まれずに棒状で入れられ、店のカウンターに飾られていた。それから間もなく、一つずつ紙で包むようになった。金印刷と金属の箔を使って、菓子に繰り返し金箔の豪華な文字を載せることは、すでに何世紀もなされてきたことである。デザインは最近の画像を使い、チョコレートは素晴らしいと宣伝する絵が登場した。さらに絵で飾られ、薄織物と紙のレースで縁取られた特別な箱で地位が高められた。中身ではなく、パッケージが多くを占めるようになり、広告はほとんど菓子の味よりもスタイルに重点を置くようになっていった。
『砂糖菓子とシャーベット:甘味前史』(Sugar-Plums and Sherbet: The Prehistory of Sweets)ローラ・メイソン[Laura Mason [Prospect Books:Devon] 2004 (p. 208)
キャドバリーがチョコレートキャンディーを初めて作ったのは1868年で、風雅なヴィクトリアンスタイルで飾り付けられた箱であった。
CuisineNet Digest: A Chocolate Timeline
その当時、チョコレートは高価で、価値の高い商品だった。催淫性があるためにチョコレートが贈られるようになったのだと信じる人もいる。また、クリスマスとイースター(復活祭)の間の売れない時期に商品を売り込もうとする菓子屋の巧妙なマーケティング計画だと論じる人たちもいる。
チョコレートの効果がどのようなものであるかはさておき、バレンタインデーにチョコレートを贈る伝統の起源はよくわからない。
Giving Chocolate On Valentine's Day More Than Romantic, KAREN SCHWARTZ, Associated Press Writer, The Associated Press, February 12, 1989
バレンタインデーにチョコレートを贈る伝統は、英国のチョコレート製造家リチャード・キャドバリーにさかのぼれる。彼はバレンタインデーのキャンディーボックスを初めてヴィクトリア朝の時代に「発明」した。ふくよかなキューピッドが愛の矢を撃つというカードで飾ることを夢見たヴィクトリア朝の人たちは、やがて、贅沢なチョコレートが夢のように詰め合わされたハート型の箱の蓋を開けることを夢見るようになったのだ。
For Lovers, Chocolate, Niki Dwyer (UPI), The Buffalo News, February 11, 1998, Lifestyles (p. 2D)
上記の文章によればキャドバリーがバレンタインチョコの発祥ということになるが、厳密にはそう言い切れない。キャドバリーはチョコレートの箱を作ったことを認めているが、それはバレンタインデー用とは限定されていないのである。
キャドバリーの「おしゃれなチョコレート」(詰め合わせ)は、子供たちが切り抜いてスクラップブックに貼れるような小さな絵で飾られたものとして売られていた。リチャード・キャドバリーはかなりの芸術的な才能を持っていた。自分自身の絵から、野心的で魅力的なデザインをさらに導入した。そのオリジナルの箱が多く残っている。自分自身の子供たちをモデルにしたり、花や休日の旅行の風景を描いて、英国に初めて素敵なチョコレート箱を示したのである。これらは人気を博し、キャドバリーのビジネスと菓子取引の双方を助けることとなった。精巧なチョコレート箱は、ヴィクトリア朝末期には特別な贈り物とみなされるようになっており、素敵なチョコレートを食べた後には小物入れかボタン箱として使われた。それゆえ、デザインは後で使うことも考慮されていた。斜めに切られた鏡のついたビロード覆いの小箱や、絹で縁取られた宝石箱から、子猫の絵、風景、愛嬌のある女の子の絵が蓋にある小箱まで、いろいろなデザインがあった。その人気は、第二次世界大戦の間に消え失せるまで続いた。ヴィクトリア朝とエドワード朝のチョコレート箱は、今もコレクターのアイテムとして扱われている。1870年代、ココアプレスの導入以後、チョコレート製造の品質は高まり、キャドバリーはフランスの製造業者が英国市場を独占している状況を崩すことができた。
Cadbury.co.uk - History Of Cadbury - Cadbury Chocolate Box
「バレンタインデーにチョコレート」の起源は、「キャドバリーのチョコレート箱」が発端になった可能性が高いが、直接的な関係はいまだ不明である。
日本での発展
昭和11年(1936)2月12日付英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に掲載された神戸のチョコレート会社モロゾフの広告に、バレンタインデーの習慣が書かれた。このとき、「あなたのバレンタインへの贈り物にはモロゾフのチョコレートを」という宣伝が日本で初めて行なわれた。ただし、このときは「女性から男性へ贈る」ということはなかった。この14日後、二・二六事件が起こっている。
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戦後、モロゾフはデパートでバレンタインデー用ギフトの販促をしたが、物資不足によりチョコレートではなく菓子の宣伝であった。また、この販促は成功には至らなかった。
昭和31年(1956)不二家がバレンタインデー販促。「ハートの型をしたお菓子をお贈り下さい」という文面で、チョコレートを女性から男性へという限定はされていなかった。
日本型のバレンタインデーの風習が広まったのは、メリーチョコレートの宣伝によるものという説もある。昭和33年(1958)メリーチョコレートが新宿・伊勢丹デパートでバレンタイン・セールを始めた。3日間で30円の板チョコ5枚と4円のカード5枚しか売れなかった。翌年、メリーチョコレートはハート形チョコレートを作って販売するバレンタイン・フェアを開始した。ただ、この影響力は限られたものであり、「日本のバレンタインの風習はメリーチョコレートが起源」という説は、同社創業者次男の原邦生の発言によるもので、事実とは相違する。[1]
昭和34年の女性誌記事では「欧米では,この日に限り,女性から愛を打明けてもよい日と言われています」等の表現も見られる。欧米の風習として「女性から愛を打ち明ける」という習慣が伝えられたが、実際には欧米には「女性から」という限定の風習は特にない。
昭和30年代後半からバレンタイン商戦が始まる。昭和35年(1960年)から、森永製菓は「愛する人にチョコレートを贈りましょう」という「バレンタイン・ギフト」懸賞キャンペーンを開始した。この前後にもバレンタイン商戦は展開されていたが、「女性が男性に愛を告白する日として、バレンタインデーにチョコレートを贈る」という日本型のバレンタインデーはこのころ菓子業界の主導で日本に広まったといえる。
その後、バレンタインデーは告白の日というだけではなく、女性が(職場などの)男性にチョコレートを配布する日となっていく。「本命チョコ」「義理チョコ」は、当初照れ隠しの要素も含んでいたかもしれないが、女性陣が男性陣にチョコをばらまく習慣が定着している。
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