将門首塚

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将門首塚平将門の首塚将門塚(しょうもんづか))は、平将門の首級を埋めた塚の跡である。東京都千代田区大手町一丁目2-1、地下鉄大手町駅C5出口すぐ。

首塚の歴史

以下、将門の首塚ならびに関連する神田明神築土明神日輪寺についての歴史である。

前方後円墳:古墳時代

鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』(磯部甲陽堂、昭和二年)によれば、将門塚は古墳である可能性が極めて高いようである。江戸の神社・寺院の中には、古墳の上に建てられているものが非常に多い。なお、将門塚は円形の塚(すなわち円墳)とされることが多いが、同書の写真によれば前方後円墳のようにも見える。

安房神社:奈良時代

現在の首塚のある一帯は海岸であった。

奈良時代・聖武天皇の天平二年(730)、安房神社がこの地に創建されたと伝えられる。安房国の漁民の一団がこの一帯に移住して漁業に従事し、安房国の安房神社(房総半島南端、千葉県館山市大神宮589)の分霊を捧持して祀ったのが始まりであるという。

この後、安房神社を中心に柴崎と呼ばれる村落ができていった。この柴崎の村落は、江戸・東京の原点ともいえる。

将門の首級:平安時代

平将門の乱は、天慶三年(940)2月14日に平将門が討ち取られて終結する。将門の首級は藤原秀郷によって平安京に運ばれて晒し首とされた。

遺体は将門の根拠地であった下総国猿島郡神田山の延命院に葬られた。現在も延命院境内の円墳を将門山・神田山(かどやま)と呼び、「将門の胴塚」がある(延命院:茨城県坂東市神田山715)。

一方、首級は京都から持ち去られて、武蔵国豊島郡柴崎村に埋められ、塚が築かれたと伝えられている。

天慶三年から10年後の天暦四年(950)9月、将門塚が鳴動し、暗夜に光を放って、異形の武将が顕われたため、人々は恐怖した。このとき、武蔵国豊島郡上平河村津久戸の観音堂にて荒魂を神として祀ったところ、それより祟りが鎮まったという。これを津久戸明神といい、現在に伝わる築土明神の由来である。築土神社は移転を繰り返し、現在は九段下にある。

真教上人:鎌倉時代

鎌倉時代末の嘉元年間(1303~1306年)、遊行二世真教上人(他阿、一遍の弟子、時宗を組織化した)が柴崎村を訪れた。このとき、将門塚は荒れ果て、疫病が蔓延して、住民は将門公の祟りであると恐れていた。そこで真教上人は将門公に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈し、丁重に塚を修復し、供養した。すると疫病が収束したため、住民は喜び、上人に柴崎村の日輪寺という寺にとどまってもらった。日輪寺はそれまで天台宗であったが、これを機に時宗に改め、念仏道場とした(柴崎道場と呼ばれるようになる)。

徳治二年(1307年)、真教上人は将門公の法号「蓮阿弥陀仏」を秩父石の板石塔婆に刻み、塚の前に立てた。

延慶二年(1309年)、真教上人は安房神社が荒廃しているのを悲しんで、社殿を修復し、将門公の霊を相殿に祀って、神田明神と改称した。これは、将門の胴体を埋めた「神田山(かだやま)」の名を採用したものとも考えられる。同時に、日輪寺も神田山日輪寺と改め、将門公の霊を祀るところとした。それ以来、この付近一帯の土地は「かんだ」と呼ばれるようになる。また、駿河台ももとは小高い山で「神田山」と呼ばれていたという。

太田道灌の江戸城:室町・戦国時代

康正三年(長禄元年、1457年)、扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が江戸城を築城した。

文明十年(1478年)6月、太田道灌は江戸城の北西に津久戸明神の社殿を造営し、太田家と江戸城の鎮守神として祀るようになる。

太田道灌の死後、江戸城は扇谷上杉家の本拠地となるが、大永四年(1524年)に北条氏綱が攻め落とした。天文二十一年(1552年)11月、津久戸明神は上平河村田安郷(九段坂上からモチノキ坂付近)に移転し、田安明神とも呼ばれるようになった。

徳川家康の江戸城:江戸時代

天正十八年(1590年)8月1日(「八朔」の日)、豊臣秀吉に命ぜられて関東に移封された徳川家康は、江戸城に入城した。この後、徳川氏による江戸城の大規模な拡張が行なわれた。津久戸明神(田安明神)は下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在の飯田橋駅付近)へ移転した。また、柴崎村の住人と神田山日輪寺柴崎道場は浅草に移転(現在の浅草柴崎町)させられた。

慶長五年(1600年)に関ヶ原の合戦に当たって家康は神田明神にて祈祷を行なった。その結果、関ヶ原の合戦は神田祭の祭日である9月15日に大勝をおさめた。これにより、徳川家は神田祭を重視する。

元和二年(1616年)、神田明神は江戸城の表鬼門にあたる神田山に移転される。また、同年、津久戸明神(田安明神)も江戸城外堀拡張のために筑土八幡宮の隣に移転し、津久戸明神社(あるいは筑土明神)と呼ばれるようになった。

こうして、もともと柴崎近辺にあった将門由来の寺社、すなわち神田明神、津久戸明神、柴崎道場の3つがすべて柴崎の地を離れることとなった。しかし、塚は移転させることが難しく、そのまま土井利勝の屋敷地内で管理されることとなる。

三代将軍家光の時代にはいった寛永二年(1625年)、京都から勅使として江戸に来た烏丸光広卿(大納言、家光の歌道指南役)が、たまたま将門塚のことを知った。そして神田明神を訪れ、神主である柴崎勝吉に神社の縁起を尋ねた。「祭神・将門公は勅勘の神であるから七百余年開帳せず。僅かに九月十五日に祭礼を行ない、神霊を慰めている」と答えた。大納言は「将門は朝敵であっても、武勇に優れた者である。京都の八所御霊のように神霊を祀るなら、国家の鎮守となるだろう」と考え、将軍家に相談して、後水尾天皇に奏上した。その許しを得て、翌寛永三年(1626年)12月9日、再び江戸に来たとき、逆賊の名をのぞく准勘祭が盛大に執り行われた。これによって、将門は逆賊ではなくなった。

江戸時代には首塚のある屋敷に住んだ大名も変遷したが、有名なのは老中・酒井雅楽頭上屋敷の中庭であった時代である。この屋敷内で伊達騒動(寛文事件)が起こり、原田甲斐・伊達安芸の殺し合いがあった。この事件は歌舞伎『伽羅先代萩』や山本周五郎『樅ノ木は残った』の題材となった。現在も首塚には伊達騒動についての解説板がある。

酒井雅楽頭の時代には将門稲荷神社という社ができていたという。そして、神田明神の大祭には、神輿をこの邸内に入れて奉幣の式があり、神楽を盛んに奏して将門公の霊魂を弔ったという。

大蔵省:明治時代

明治二年(1869年)7月、この屋敷跡には大蔵省が設置されたが、首塚は残された。織田完之『平将門古蹟考』には以下のように書かれている(現代語訳=松永)。

 大蔵省玄関の前に古蓮池がある。由来にこれを神田明神の御手洗池であると伝える。池の南、少し西に当たって将門の古塚がある。高さはおよそ20尺(約6メートル)、周囲まわり15間(約30メートル足らず)ほど。その塚の傍ら、古蓮池に沿ってモミノキの巨大な枯幹がある。いにしえの神木であるという。東から西に向かって苔石数段をのぼると老サクラがあり、枝を交えて右にそびえている。また老モミノキの大きなものが古塚の背後に立っている。その他、柯樹(シイノキ)の老大なものがある。森々鬱々として日光を遮り、白昼もなおくらく、隠凄として鬼気が人に迫るように思われる。短籬(たけの低いまがき)を隔てて南は内務省である。
 塚の前の東2間(約4メートル)ほどに礎石がある。幅は7尺(2メートル)長さ9尺(3メートル)ほど。中心に今は古い石灯籠を置く。これは昔、塚前の常夜灯であったものだろう。この礎石は、真教上人の蓮阿弥陀仏の諡号を刻した板碑を、この上に立てていたことは疑いようもない。そのことは、寛政四年壬子(1812年)正月二十五日、神田社司・柴崎美作に公命があって、シイノキの下に将門の印があったのを、神に祝い祀って小祠宇を立てられた――と、一橋家の人である中根正峡の「神田旧地の記」と題した遺編に伝えられているものがこれと合う。また、同記に、古来、神田御手洗池の魚を捕らえるのを厳禁されたことも見える。その印というのは蓮阿弥陀仏の板碑のことである。その板碑はいずれへか紛失して、今は所在がわからない。ただ一葉の拓本が、神田明神の氏子総代・小栗兆兵衛氏の家に伝えている。実に徴古の験証であるとする。
 古蓮池は面積、およそ三百坪ばかりであって、その池中の南に寄ったところに千鳥の形状に似た石がある。千鳥岩と称する。その傍らに古井戸がある。池の水が減ずるときは見える。これを将門の首を洗った井戸と称する。すなわち、天慶三年の六月、相馬の一族郎党が京都において将門の首を願い下げて持ち帰り、江戸上平川村の観音堂に供養をなし、この井戸の水で洗い、屍体を埋めたこの塚に合わせ葬ったものであるという。
 池のほとりに自然石の巨大な手水鉢がある。周囲は27尺(8メートル)、長さ10尺(3メートル)、高さ5尺(1.5メートル)、古色あって異形である。柴崎道場の手水鉢であろうか。また、方石の手水鉢で、卍の紋を刻んであり、長さ2尺4寸(73センチ)、高さ1尺4寸5分(44センチ)ばかりのものがある。これは寛政ごろ祠宇の前にあったものであろう。

明治三十九年(1906年)、大蔵省の明治財政史編纂会は首塚の保存碑を建立した。これに際しては、渋沢栄一と織田完之の尽力があった。

関東大震災と祟り:大正時代

大正十二年(1923年)9月1日、関東大震災が発生し、大蔵省の建物はすべて焼失。首塚周囲の巨木も焼け失せ、塚の古蹟保存碑にも亀裂が入り、板碑も破損した。大蔵省は焼け跡の整理に着手するとともに、蓮池を埋め立て、塚も崩して平らに整地してしまった。首塚には礎石と灯籠のみが残り、板碑はセメントで補修された。

このとき、大熊喜邦工学博士の手で塚の発掘が行なわれた。古い石室があらわれたが、江戸時代のものと思われる瓦や陶器の破片などの混じった土があった。かつて一度盗掘され、また補修されたらしいことがわかったのみであった。

この塚の跡に仮庁舎が建設されたが、大蔵省の役人に怪我や病気が多発する。早速整爾(はやみ せいじ)大蔵大臣が大正十四年(1925年)に就任してまもなく病気で入院、翌大正十五年(1926年)に亡くなった。それ以外にも、昭和二年(1927年)に急逝した矢橋賢吉工学博士(営繕局工務部長)など、死者は短期間に14人にのぼった。怪我人も武田政務次官、荒川事務官など非常に多く、特に足を負傷する者が多かった。このため、首塚を壊した祟りであるという噂が広がる。

首塚の上に建てられた仮庁舎は取り壊され、昭和二年(1927年)4月27日、盛大な鎮魂祭が執行された。これには三土忠蔵大蔵大臣も参加した。

将門公没後一千年祭:昭和・戦前

昭和十五年(1940年)6月20日、雨の中、突然大蔵省本庁舎に落雷し、主要な建物が炎上した。この落雷の場所が首塚の近くであったため、将門の祟りであろうということになった。この年はちょうど将門公没後千年に当たるため、盛大な一千年祭が挙行された。これは河田烈大蔵大臣の指示であった。

このとき、関東大震災で破損した古蹟保存碑を新しく作り直した。

進駐軍と祟り:昭和・戦後

昭和二十年(1945年)5月29日の空襲で、建物はすべて焼失した。

その後、アメリカ軍が進駐し、この一帯はモータープールがつくられることとなった。この整地にあたって、ブルドーザーが横転し、運転していた日本人運転手と作業員の二人がブルドーザーの下敷きになって、一人は即死、一人は大けがをした。土の中に墓のようなものがあることに気付いて調査したところ、近隣の材木商・遠藤政蔵氏が事情を知っており、司令部に出頭した。遠藤氏は「あの塚は日本の昔の大酋長の墓である。ぜひ残してほしい」と陳情し、首塚は守られることとなった。地元の人々が竹垣をめぐらし、清掃献花を行なった。

なお、新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社・筑土明神も焼け落ち、筑土明神は九段下に移転する。

昭和三十四年(1959年)、米軍のモータープールが撤収されることとなり、千代田区は史跡に指定した。モータープールの跡地は日本長期信用銀行と三井生命保険相互会社の本社ビル建築用地として払下げが決定する。

昭和三十五年(1960年)、史蹟将門塚保存会が結成された。

昭和三十八年(1963年)ごろ、長銀の塚に面した各階の部屋の工員がつぎつぎに発病した。祟りかもしれないということで、神田明神の神官を呼び盛大なおはらいをした。その後、長銀の塚に面した部屋で仕事をする行員の机などは窓側を向くか、横向きとされたという。

昭和四十年(1965年)、西北部の土地が民間に売却され、北参道が閉鎖されることとなったため、参道入口を南に変更した。

帝都物語と平将門魔法陣

1985年から執筆された荒俣宏の小説『帝都物語』では、帝都東京を守護する平将門の怨霊が物語の中心となっており、将門首塚も重要な場所として登場する。この小説は映画にもなり、将門首塚伝説を人口に膾炙させる役割を果たした。

加門七海著『平将門は神になれたか』(ペヨトル工房、1993年)は、東京に存在する将門ゆかりの神社などについての配置から独特の推理をめぐらせたものである。この理論によれば、東京の将門関連神社は北斗七星の形に配列されており、しかもそれは将門の首を切る形になっているという。この説については、実際には将門と関係のない寺社も含まれているなど、実態に即さない部分もあるが、つい最近でも内外タイムスの記事などで北斗七星型に配置された将門関連神社説がそのまま記されているなどの事例がみられる。将門首塚を始めとする寺社についての都市伝説は、この本が土台となっている。なお、同書は後に『平将門魔法陣』(河出文庫)と改題して出版され、『大江戸魔法陣』『東京魔法陣』と合わせて三部作になっている。

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