ブログの歴史

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ブログの発祥と歴史。なお、本稿の内容は当サイト管理人による『ウェブログ超入門!』の本文ならびに没原稿を土台としてその後の状況を含めてまとめている。

英米圏でのブログの発祥と展開

1993年:ブログの誕生

当初のブログの定義は、

  • 頻繁に更新される。
  • 他のサイトへのリンクが多い
  • リンクと短いコメントという形式が基本

とされていた。つまり、リンク付きで更新情報を示したり、他のブログ記事を紹介して短いコメントを付けるタイプの個人ニュースサイト的なものがウェブログと見なされていた。

この定義によると、最初の「ブログ」としては、最初のウェブブラウザーNCSA Mosaicの発明者マーク・アンドリーセン(Marc Andreessen)による「What's New」ウェブページが挙げられる。その開始日は1993年6月14日、「ロスアラモスの実験的なWWW物理学論文事前公表サーバーがうまく稼働している」という内容で、リンクがついていた。ウェブ上の興味深いサイトを日々紹介するというフィルター型ブログの原型として最古のものである。このサイトの更新は1996年に終わった。

1994年1月、ジャスティン・ホール(Justin Hall)は「Justin's Homepage」を開設し、そこに「アンダーグラウンドからのリンク」ページを開始した(http://www.links.net/)。アングラサイトリンクを更新するもので、最古級のブログの一つとされる。このサイトは現在も更新が続いている。

1996年:ギブスンがブログの未来を予言

サイバーパンクSFの第一人者ウィリアム・ギブスンは、1996年10月14日の記事において、ブログのようなものを職業にする人が登場すると予言していた。

ウェブの規模や、多様性については、はっきりとした限界はない。まもなく、あなたのために前もってネットサーフィンすることで生計を立てるような人たちも現れてくると思うんだ。それは確かにニーズがある――でないと、この化け物は時間ばかり食ってしまうからね。あなたはただそこに座っているしかない。見る。見続ける。それでも多分、何も見つからない。つまらないものばかりがたくさんあるから。

1997年:ウェブログという言葉の誕生

1997年4月1日、ユーザーランド社のデイヴ・ワイナーがScripting Newsを開始。これは現在のブログの基本的な性質を備えたサイトの始まりだった。そして、ブログに必要な機能を集めたフリーソフトを公開した。

同年9月、ロブ・マルダ(CmdrTaco)とジェフ・ベイツ(Hemos)がスラッシュドット(/.)を開設。一般の読者からの「タレコミ」記事は、投稿権限を有するスタッフやユーザーによって選ばれた上で紹介され、それに対して多くの人たちがコメントをつける。日本人の目から見れば、これは「掲示板」以外の何ものでもないが、英米圏では「グループ・ウェブログ」、すなわち多人数で編集するウェブログの代表的なサイトとみなされる。2ちゃんねるの一部の板では「記者ボランティア」と呼ばれる特定のスレ立て人のみがスレッドを立て、他のユーザーはコメントのみを行なうが、この形式はスラッシュドットと同様であると考えられ、英米基準ではこれもグループブログの一種ということになる。

同年12月17日、ジョーン・バーガー(John Barger)が自サイトRobot Wisdomの一コーナーとしてRobot Wisdom Weblogを開始した。ウェブログという言葉が最初に使われた日である。

1998年:ドラッジとミーム

1998年1月17日、ゴシップ系サイト「ドラッジ・レポート」にスクープが掲載された。「『ニューズウィーク』がホワイトハウス研修生超特ダネ記事を抹殺。二十三歳、元ホワイトハウス研修生、大統領と性的関係」というスキャンダルに加え、「『ニューズウィーク』誌のマイケル・イジコフ記者が取材したスクープを、同紙上層部が握りつぶそうとしている」とインターネット上で公開した。19日には「モニカ・ルインスキー」という実名も掲載された。それを追ってワシントン・ポストやロサンゼルス・タイムスが報道した。このドラッジも英米圏では代表的なブログと認識されている。「新しいジャーナリズムの可能性としてのブログ」という思想はここに生まれた。

1998年9月、memepool(ミームプール)開設。ミームとは、ドーキンスの『利己的な遺伝子』で提唱された概念で「文化の伝達や複製の基本単位」を意味する。ネット上では「一つのネタ」くらいの意味合いでも使われる。ミームプールは「ネットのネタ集」サイトであり、日本でいう個人ニュースサイトと似ている。これは英米圏ではフィルターサイトと呼ばれ、ブログの一類型と認識されている。なお、現在でもブログネタとして広まったものをミームと呼ぶ例が見られる。

1999年:ウェブログの展開

ウェブログを自称するサイトの登場

1999年1月26日、カメロン・バレット(Cameron Barret)は自らのサイト「CamWorld」がウェブログであると宣言した。この記事CamWorld: Anatomy of a Weblog(ウェブログの構造)の訳は以下のとおり。

 数カ月前、俺は初めてウェブログという言葉を聞いた。誰がそれを作りだしたのか、起源はどこなのかについてはよくわからない。だからうまく評価できない。典型的なウェブログというのは小さなウェブサイトで、たいていは一人で更新し、常連さんがいるものだ。そして、ウェブログというのは、一つの主題とか、隠れたテーマ、まとまったコンセプトに関して集中的に書かれているものである。
 俺は自分の個人ウェブサイト上で『カムワールドはウェブログだろうか?』と尋ねた。すると、マイケルという奴が「そうだよ」と答えたのだった。
 よく見直してみると、カムワールドはウェブログとかマイクロポータルであることがわかった。これは、ウェブログと結びつけられがちな一般的な性質を全部備えていたのだ。
 定期的に(毎日)更新されている。すてきで、さっぱりした使いやすいデザインとユーザーインターフェースを有している。初心者向けに易しく書いたりしないので、エンドユーザーにあまり親切じゃない。テーマがある(行き当たりばったりの考え+ウェブデザイン+ニューメディアについて)。ユーザーがお互いに対話する方法がある。常連さんや、カムワールドでよく見られるリンクの多くを提供してくれるリストメンバーのコミュニティーみたいなものまであるんだ

カムワールドはサイドバーに類似サイト(つまりウェブログサイト)のリンク集を載せるようになった。これにより、そのリンク集に入れてもらおうというサイトが殺到し、ウェブログというジャンルがネットに確立することとなった。また、サイドバーに他のブログへのリンクをつけるデザイン(2カラム以上のスタイル)がブログの典型的デザインとなったのも、このサイトに由来する。

「ブログ」という略称の誕生

同年4月か5月ごろ、ウェブログを略してブログと呼ぶことが始まった。ピーター・メルホルツ(Peter Merholz)は、後から振り返ってこのように書いている。

僕は言葉好きで、辞書を探して知らない単語を見つけるのが好きな子供だった。僕は言葉遊びが好きだった。語源学は特におもしろかったね。僕の言葉・言葉遊び好きが実際に影響力を及ぼすような経験をするとは思いもよらなかったよ。1999年の4月か5月ごろ(正確な日付は忘れた)、僕はホームページのサイドバーにこう投稿した。
  僕は、『weblog』という言葉を『ウィー・ブログ』と発音することにするよ。
  あるいは縮めてblog(ブログ)ね。
 僕は、そんなに大ごとだとは思ってない。僕は投稿の中でこの言葉を使い始め、それからメールを送ってくれた人たちには、返信でこの言葉を使った

メルホルツの言葉遊びによって、Weblogが「我々はブログする」という動詞が生まれた。そこからBlogging(ブロギング)、Blogger(ブロガー、ブログする人)、Blogosphere(ブロゴスフィア、ブログ界)といった言葉が派生するようになった。現在ではウェブログよりブログという言葉の方が定着している。

ツールとしてのBlogger.comで普及

1999年9月、バイラ社がBlogger.comというブログ作成サイトを公開した。これにより、ウェブ上から簡単にブログを更新できるようになった。現在、ブログとはブログ作成サイトやブログ作成ツールを呼ぶ例もあるが、Blogger.com登場以前は普通のウェブサイトと同様に作成されていたのである。

当時のBlogger.comの機能自体はシンプルで、コメント欄もトラックバックも存在していない。しかし、簡単な操作ですっきりと整理されたデザインのページを手軽に更新できる点が受け入れられ、ブログ人口の増大に寄与することとなった。また、これにより日記としてブログツールを使う人も増え、「日記ブログ」というジャンルも定着するようになった。

2000年:パーマリンクの登場

2000年3月、Blogger.comでパーマリンク(固定リンク、Permalink)が誕生した。それまでは古い記事が表紙から消えてしまうとブログの過去記事を探すことは困難だったのだが、一つの記事に一つの固定されたURLが指定されることにより、画期的な変化をもたらした。つまり、それまでサイトのトップ(ホームページ)へのリンクが通例であったものが、個々の記事へのリンクが多くなったのである。これはウェブ全体の「サイト単位から記事単位への移行」を促すことにもつながっていく(Yahoo!インデックスからGoogleへの変化である)。

同年7月、PC用のブログ管理ツールRadio Userlandが登場。11月にはサーバー設置型スクリプトGreymatterが登場した。

2001年:911テロによるブログの爆発的拡大

Blogdex

2001年7月18日、MITがBlogdexを開始。あちこちのブログの更新情報を取得し、多くのブログで話題になったトピックスをランキング表示するもの。現在もブロガーが多く話題にしているのは何か、という情報は様々な形で示される傾向にある。

911事件とウォーブログ

同年9月11日、911事件(同時多発テロ事件)が発生。この事件直後、主要メディアのサイトはアクセスが集中しすぎたために閲覧さえも困難な状態に陥った。その中でSlashdotやScripting Newsなどのサイトに情報が集まり、また個人ブログが自らの体験として掲載した写真や体験談、意見などがアクセスを集めることになった。個人が直接報道するマイクロメディアとしての機能を果たしたきっかけとして、ブログ史における911事件は特筆される。

また、この時期に始まったブログは、テロ事件から続くアフガン報復攻撃戦争、イラク戦争へと引き続き関心を持ち、それに関する論争を行なっていた。これがWarblog(ウォーブログ)である。ウォーブログの隆盛により、「既存のマスメディア/既存のジャーナリズム」vs「ブログ」という対立構造が描かれるようになっていた。英米圏でのブログが日本の「日常雑記」よりは「オピニオン」に主軸が置かれているのは、このような歴史的経緯を踏まえている。

Movable Typeの登場

2001年10月8日、サーバー設置型ブログ管理ツールMovable Typeが公開された。これは「ブラウザからウェブサイトを更新するためのツール」すなわちCMSとしても優れた機能を有していた。また、ブログにおけるつながりを強化したのもMovable Typeの特徴で、コメント欄の一体化、多言語対応などの特徴を有していた。

2002年:トラックバックと政治的インパクト

トラックバックの登場

2002年6月26日、Movable Type 2.2発表。これは初めてトラックバック機能を備えていた(逆にいえば、それまでのブログにはトラックバックは存在しなかった)。関連する記事を書いたことを自動的に相手に知らせる機能はあまりにも画期的であり、急速に広まった結果、現在ではブログには欠かせないものとなっている。

中国上陸

2002年8月、中国大陸で最大規模のウェブログ・ポータルサイト「博客中国(ブログ・チャイナ)」開始。開設者の方興東『博客(BLOG)』という著書もある中国ブログ界の第一人者。このサイトでは多数の有力なブロガーたちが執筆した。方興東はブログを「個人が情報発信するための強力な手段」と見ており、伝統的なメディアに対抗し、知識の共有を進めるための革命的手段ととらえている。これと対立するブログとして「CNBlog」も現われた。ちなみに中国大陸では「博客」、台湾では「部落格」または「部落」と表記されることが多い。

ロット上院議員事件

2002年12月5日、ストローム・サーモンド上院議員(1948年大統領選でトルーマン大統領の対立候補となった)の引退と100歳の誕生日を祝う式典が行なわれた。その席上、与党共和党のトレント・ロット上院議員が行なった発言が、「黒人の公民権剥奪があれば、もっといい国になっていたのに」という趣旨のものと受け取れるものだった。当初、主要メディアはこの発言を取り上げなかったが、左派・右派のブロガーたちがともにこの人種差別発言を批判し、それを受けて主要メディアでも大々的に報道されるようになった。その結果、12月20日にはロット上院議員は院内総務を辞任する結果となった。

2003年:バグダッド・ブロガー

2003年3月、アメリカによるイラク攻撃に際して、戦地イラクから発信されるブログが注目された。サラーム・パックスは、フセイン政権には批判的だが戦争にも反対という立場において、ブログ「Where is Raed?」でバグダッド市民の生活の様子を伝えた。空爆開始後、1か月ほど更新が止まったが、その後、一気に再開された。このほか、元ニューヨーク・デイリーニュース紙記者クリストファー・オールブリトン氏が、クルド人自治区から衛星携帯電話を使って「Back to Iraq」を更新し、それらのブログ情報を集積するサイトも現われた。

2003年から2004年初頭にかけて行なわれたアメリカ大統領候補指名争いでは、民主党候補としてそれまで無名だった元バーモント州知事ハワード・ディーンが一気に支持率を伸ばし、党史上最高の4100万ドルの政治資金を集めた。これはブログを活用したものであり、「ホワイトハウスブログもありえる」と答えたほどだった。しかし、年明けには一気に失速、地元以外では全敗してケリー候補に大統領候補の座を明け渡した。ブログだけでは大統領にはなれなかった。

日本ブログ上陸史

日本ブログ前史

掲示板

インターネットが広まる前、1980年代からパソコン通信(商用や草の根BBS)が展開してきた。システムの中心は電子メールと会議室(掲示板)である。特にNifty ServeやPC-VANなどの大手商用パソコン通信サービスにおけるフォーラム(掲示板コミュニティ)は、インターネット普及以前にある程度成熟したものとなっていた。

インターネットが一般利用されはじめた1990年代半ば、初期のユーザーの大半は学生・研究者・IT技術者であり、議論の場としてはネットニュースが主流で、実名主義が通用していた。

しかし、1996年ごろからネット上に無料掲示板レンタルサービスが始まり、簡易BBSスクリプトが公開されて自分で掲示板を設置することも可能になった。そこで、個人ホームページに付属するものとして掲示板が開設される一方、掲示板を主体としたコミュニティサイトが成立していった。

最初に大規模なコミュニティを形成したのは1996年に「しば」氏が開設したアンダーグラウンド・サブカル系情報掲示板「あやしいわーるど」であった。投稿者名欄はたいてい空白であり、匿名投稿が集中的に寄せられた。1997年には画像貼りつけ掲示板「Licentious Notice Board」(通称LNB)が開設され、この両者が人気を集めた。

1998年、荒らしによるトラブルのために、しば氏は「あやしいわーるど」を閉鎖。そこで注目されたのが「あめぞう」だった。1997年に開設された「あめぞうリンク」はやがて自前の掲示板を設置して「あめぞう掲示板」となり、あやしいわーるど難民を吸収して一挙に急成長、掲示板コミュニティの非アングラ化に貢献した。あめぞう氏はスレッドが新規投稿順に上に上がるスレッドフロート式掲示板を開発、これは今の2ちゃんねるにも受け継がれている画期的なシステム改変だった。

1999年、あめぞう掲示板も閉鎖。その混乱のさなかの1999年5月にひろゆきが2ちゃんねる掲示板を開設する。スタイル的にはあめぞう型をほぼ踏襲していた。これはあめぞうユーザーのみならずさらに新たなユーザー層を集め、日本独特の匿名掲示板コミュニティとして成長した。

日本のブログのコメント欄はしばしば掲示板的に扱われ、匿名掲示板のルールによって「炎上」することも少なくない。

日記サイト

日本でホームページが広まると同時に、サイト内の更新情報をまとめたページ、あるいは公開日記が生まれることとなった。当初は規模が小さかったが、1995年5月18日、津田優氏が「日記リンクス」というウェブ日記リンク集をまとめる。同年11月1日にはNifty Serve上で多くの人たちの日記を100日間集めるプロジェクト「メガ日記」がスタート。他人に読ませる日記という存在が認知されるようになった。また、ウェブ日記の更新情報を取得するシステムとして「べんりくン」「朝日奈アンテナ」なども開発された。

やがてウェブ日記は日記リンクスを中心にコミュニティとして発展し、「日記読み日記」も登場するようになった。その中でランキング上位日記への攻撃を行なう日記が登場し、1996年6月、津田日記リンクスはアクセスランキングを停止した。一方、トラブルの原因となった「ばうわう」氏らが「日記猿人」を開設、日記ランキングを求めていたユーザーを取り込んでいった。しかし、「ばうわう」氏自身が日記猿人から追放され、2000年に日記才人と改名、2007年7月に終了した。

これらの流れの中、無料日記レンタルサービスも登場した。1999年開設の「さるさる日記」や2000年開設の「エンピツ」などは、それぞれのサービス内でコミュニティを作っていった。一方、サーバー設置型のウェブ日記用高機能ツールとして「hns」(1998)、「a-Nikki」(2000)、「tDiary」(2001)などが登場した。

これらのウェブ日記は直接的なブログの前形態といえる。ただ大きな違いとして、日記と掲示板はやはり分かれていたこと(tDiaryは例外)、固定リンクはまだ登場していなかったことが挙げられる。

個人ニュースサイト

英米のブログの初期形態は「フィルター」型であった。見つけた面白いページを紹介するにあたってURLと一言コメントが載せられるスタイルである。日本でも独自にこのスタイルの形式が発展し、「個人ニュースサイト」と呼ばれてきた。

先駆的には1997年開設「あ!ネット」などがある。1998年10月8日開設の「smallnews!」は「自分がインターネットでいくつものサイトを巡回するので、他の人も巡回してるのではないか?と考え、巡回しなくても良いように幾つものニュースサイトを巡回して、目に付いた面白いニュースを掲載するようにした」と書いており、ギブスンが「他の人のために前もってネットサーフィンする」人たちが登場すると予言したスタイルそのものだった。同10月28日開設の「セキュリティーホールmemo」は現在も更新が続いている。

1999年に大手個人ニュースサイトが次々と開設された。「変人窟」「ムーノーローカル」「J-oの日記」「TECHINSIDE.NET」はいずれも1999年1月開設。同5月には「裏ニュース!(後の「連邦」)」が開始され、同時期開設の「itoya_laboratory*net_news」と並んでコラム風の記事を公開した。これは完全にブログともいえる形態である。

2000年1月20日開始の「百式」は現在ブログと認識されている。同年末の「俺ニュース」は他の個人ニュースサイトで引用されたサイトをさらに孫引きする「孫ニュースサイト」のさきがけとなった。その後、「Tentative Name」「カトゆー家断絶」「音楽配信メモ」といった影響力の大きい個人ニュースサイトが次々と生まれており、一部はブログへとそのまま移行している。

テキストサイトとVNI

1996年7月、ランキング型リンク集「ReadMe!」が開設された。これは日記ではなく読み物系ホームページの登録サイトとして展開された。ここから、身辺雑記よりネタ的読み物を中心としたテキストサイトが注目されるようになった。1999年1月開設「ろじっくぱらだいす」、同6月開設「斬鉄剣」が初期の人気サイトである。2001年3月3日、「侍魂」が「最先端ロボット技術」として先行者ネタを取り上げた文章が大ブレイクした。これにより、笑えるネタを笑える文字装飾で表現する「フォント弄り系」テキストサイトが続々と生まれることとなった。しかし、テキストサイト間のなれ合いや抗争も生じ、フォント弄りの劣化コピーの増加によって、この系統はやがて廃れることとなる。

2001年2月14日「バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳」がスタート。仮想ネットアイドル(VNI)が書いているという体裁で作られたこのサイトは、内容的にはテキストサイトでもあり、日記でもあり、個人ニュースサイトでもあった。ただ、「ちゆ12歳」のインパクトは大きく、同様のVNIサイトが乱立することになる。ちゆに加えて「ウロンのひとりごと」「米(おこめ)」「777's Loop Lights Loom」が「VNI四天王」と呼ばれた。

これらのテキストサイト・VNIサイトは、ウェブ日記や個人ニュースサイトとの境界線が弱く、そのままブログへと移行していく素地があったといえる。

ブログ上陸

2000年2月23日、「HotWired Japan」に「人気急上昇中の「ウェブログ」とは」という記事が掲載されたが、この時点ではまだほとんど注目されなかった。日本国内では掲示板・日記・個人ニュースサイト・テキストサイトなどがすでに定着していたことも一因と考えられる。

2001年8月24日、「百式」でBlogger.comが紹介された。「海外では既に無数のWEBLOGが設置されており、WEBLOGランキングみたいなサイトまで出てくるぐらい定着している。なぜ日本でこういったシステムが流行らないのか不思議なくらいである」と「百式」は首をかしげていたが、現在は百式自体がブログサイトになるほどの変化を見せることとなった。

個人ニュースサイトでよく取り上げられている記事をランキングする「ばるぼらアンテナ」は、英米ウェブログの同様のシステム「blogdex」をまねて作られた。URLにも「blogdex.tripod.co.jp」と「ブログ」の文字が含まれていたが、紹介文には「個人ニュースサイトからのリンクが多い順に並んでいます」と書かれていた。

ブログ草創期騒動

2002年、日本でも徐々にブログサイトが作られるようになったが、10月23日、mesh(東大大学院メディア環境学研究室)の明神光浩さんが書いた一文が物議を醸した。

「blogが一般的になったときに、「mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない」と言われるようなサイトにしていきたいですね。(言いすぎ?)」

これに対して「日本におけるウェブログの草創期はすでに終わっている」という反論がわき起こった。個人ニュースサイトやウェブ日記といった日本独自のコミュニティにおいて、ウェブログの土台はすでにできあがっている、という反応である。ただ、皮肉なことにこの騒動によって「ウェブログ」の存在は広く認知されるようになり、ウェブログの定義とは何か、今までの日本のネットコミュニティと何が違うのかといった議論が盛んになるにつれ、ブログ導入サイトもじわじわと増えていった。

技術者・研究者の手から一般人へ

2003年夏にはウェブログ入門書がいくつか出版され、ブロガーも増えていった。ただ、このころの中心的なブロガーは、プログラマーやウェブ技術者などのIT関係者、大学の情報技術研究者や学生、そしてネットに強いライターなどだった。

当ウィキ管理人も2003年9月9日にMovable Typeを利用したブログサイト「ウェブログ@ことのは」を開設している(後に「絵文録ことのは」に改名[1])。また「はじめてのウェブログ」[2]ではブログツールを使って普通のサイトを構築できることも示した。ブログの初期ということでこのサイトはアクセスを集めることに成功した。

これらの専門家中心の流れが変わったのは2003年末であった。12月2日、Niftyがレンタルブログサービス「ココログ」を開始したのである。パソコン通信以来、「フォーラム」という名の掲示板で鍛えられた猛者を擁するNiftyが、技術力を要しないレンタルブログを提供することで、文章を公開したい人たちをブロガーにすることに成功した。すでにフォーラムに慣れている人たちが記事を書き、コメントし、トラックバックすることで、ブログの使い方が多くの人に知られるようになった。

同月、アメリカの有名なブロガー、レベッカ・ブラッドの『ウェブログ・ハンドブック』も翻訳出版された。これはウェブログのコミュニティについて論じた本であり、それまでの技術書とは一線を画していた。これも「技術者から一般のユーザーへ」という流れを象徴するもののように思われる。

2004年以降

2004年には数々のブログサービスが登場し、また従来は「ウェブ日記サービス」と位置づけていた「はてなダイアリー」がブログサービスを自認するようになるなど、従来のテキストサイト・日記サイトが順次ブログへと認識を改めるようになった。また、従来のホームページ作成では「ウェブ作成ソフトで各ページを作成した後、FTPでアップロード」といった手間をかけていたが、ブログでは「記事を書いて送信」するだけでよいという手軽さが魅力となり、初心者が「ブログ始めました」という例が急増した。

テキストサイト的な表現方法で眞鍋かをりが「ブログの女王」と呼ばれ、次いで写メ投稿的な感覚ですさまじい更新量を誇る中川翔子が「新・ブログの女王」と呼ばれるようになり、そのブログ注目度によって自らの人気を上げた実績から、芸能人ブログも増えるようになった。また、携帯ユーザーを取り込むブログサービスも増え、日本でブログは一気に人口に膾炙するようになったのである。

2003年ごろからはちょうどアフィリエイトサービスの発展もすさまじく、ブログとアフィリエイトを組み合わせることで「サイトからわずかながら収益を上げる」ことも可能となった。また、SEO上もブログは有利な面が多いため、人気を集めることとなった。しかし一方でこれはspamブログの乱立を招くことにもなった。

注記・参考文献