歴史における因果関係

提供: 閾ペディアことのは
2009年1月19日 (月) 20:23時点における松永英明 (トーク | 投稿記録)による版
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エドワード・ハレット・カー著『歴史とは何か』(1961)の第4章「歴史における因果関係」を独自に全文訳した。この章の一部が、一般に「歴史にIFはない」という言葉で広まったと思われる。したがって「歴史にifはない」とはどういう意味であり、どういう条件でifが否定されるのかについては、この章を読む必要がある。

『歴史とは何か』はカーの歴史学についての連続講演をまとめた著作である。この章では、歴史における因果関係、偶然と決定論の扱い方などについて述べられている。要点は目次の小見出しを参照。

以下、原文は一段落が長いので適宜段落を分け、小見出しを独自につけた。

参照→「歴史にIFはない
関連ブログ記事(考察)→「歴史にifはない」とはどういう意味か(歴史における「偶然」と「未練」)[絵文録ことのは]2009/01/19

第4章 歴史における因果関係

歴史の研究は、原因の研究である

 ミルクをシチュー鍋で沸かしたら、煮こぼれます。どうしてこのようなことが起こるのか、わたしは知りませんし、知りたいと思ったこともありません。どうしてもというなら、ミルクには煮こぼれる性質があるからだと言うでしょう。それは十分に真実ではありますが、何も説明したことにはなりません。でも、わたしは自然科学者ではありません。

 同じように、過去に起こった出来事について、なぜそれが起こったのかを知ろうとも思わずに読むこともできますし、書くことさえもできます。あるいは「第二次世界大戦はヒトラーが戦争を望んだから起こったのだ」と言って満足することもできます。それは十分に真実ではありますが、何も説明したことにはなりません。ただし、そういう人は、歴史研究者だとか歴史家だとか自称するようなあやまちを犯してはいけません。

 歴史の研究とは、原因の研究です。前回の講演の最後に述べましたように、歴史家とは、常に「なぜ?」と問い続けます。そして、答えが得られる希望がある限り、とどまることはできません。偉大な歴史家とは――おそらくもっと広く、偉大な思索者というべきでしょうか――新しい出来事、新しい状況について「なぜ?」という疑問を持つ人のことです。

過去の歴史家による「歴史の目的」

 歴史の父ヘーロドトスは、自らの著作の巻頭でその目的を定義しています。ギリシア人やバルバロイ(異邦人)によってなされたことの記憶をとどめること、「そして特に、他の何よりも、お互いに戦った原因を明らかにすること」であると述べています。

 ヘーロドトスの後継者は古代世界にはほとんどいませんでした。トゥーキュディデースでさえもが、因果関係についての明確な考えを持っていなかったとして非難されているほどです[1]

 しかし、18世紀になって、近代歴史編集の土台が築かれはじめたとき、モンテスキューは『ローマの隆盛と衰退の原因についての考察』 で、「あらゆる君主国に働きかけて、それを創業し、維持し、崩壊させる一般的な精神的・物理的な原因がある」と述べ、そして「起こったことはすべてがその原因の結果なのである」という原則を自分の出発点だと考えています。

 その数年後に書かれた『法の精神』で、モンテスキューはこの考え方を発展させ、法則化しました。すなわち、「この世で目に見えるすべての結果は、偶然の運命によって引き起こされた」と考えることは不合理である。人々は「自分たちの気まぐれによって支配されているのではなく」、人々の行動は「ものごとの自然の理法」から導き出される一定の法則や原則に従っている[2]――と。

 それからおよそ200年のあいだ、歴史家と歴史哲学者は、歴史的な出来事の原因とそれを支配する法則を見つけることによって、人類が過去に経験してきたことがらを構築しようとしてきました。原因と法則は、ときには機械論的に、ときには生物学的な用語で、ときには哲学的に、ときには経済学的に、ときには心理学的に考えられてきました。しかし、「歴史とは、原因と結果の規則正しい連続として過去の出来事を整列させることである」という原則は等しく受け入れられてきました。

 ヴォルテールは『百科全書』の「歴史」の項目でこう書いています。「オクサス川(アムダリヤ川)とヤクサルテス川(シルダリヤ川)の流域で、ある野蛮人が別の野蛮人に取って代わったということしか語ることがないというのであれば、それに何の意味があろうか?」と。

 近年では、状況は幾分変わってきています。前回のわたしの講義で述べた理由によって、最近、わたしたちはもはや歴史の「法則」について語ることはありません。そして、「原因」という言葉さえも時代遅れになっています。

 それは、一つにはある種の哲学的な曖昧さによるものですが、わたしはそれに立ち入る必要を感じません。もう一つは、決定論と関連しているように見られてしまうことが考えられます。こちらについてお話しいたしましょう。

 歴史における「原因」について語らず、かわりに「説明」だとか、「解釈」だとか、「状況の論理」だとか、「出来事の内部にある論理」だとか(これは法学者ダイシーの言葉です)を語る人たちがいます。あるいは機能的アプローチ(どのようにして起こったか)を好んで原因的アプローチ(なぜ起こったか)をはねつける人たちがいます。しかし、それでは、どのようにしてそれが起こるのかという問いが必然的に生み出され、その結果、結局は「なぜ?」という問いに引き戻されてしまいます。

 別の人たちは、異なった種類の原因――機械論的原因、生物学的原因、心理学的原因など――を区別して、歴史的原因というものがまた別の独自のカテゴリーであると考えています。これらの区別の中にはある程度妥当なものもありますが、原因をバラバラに分けたものよりも、あらゆる種類の原因に共通するものを強調する方が今の目的にかなっているようです。わたし自身の場合は、ごく普通の意味で「原因」という言葉を使っていますので、独特の意味づけなどは無視することにします。

原因へのアプローチ方法(1)複数の原因を列挙する

 では、原因を出来事に割り当てる必要に迫られたとき、熟練した歴史家は何をするでしょうか。この問いから始めましょう。

 原因の問題に対する歴史家のアプローチ方法の第一の特徴は、同じ出来事に対していくつかの原因を割り当てることが通例だということです。

 経済学者の(アルフレッド・)マーシャルはこのように書いたことがあります。「ある行動について、何か一つの原因であるかのように考え、その一つの原因と結果において密接に絡み合っている他の原因を無視することは、いかなる手段をとっても避けなければならないと警告しておく」と[3]

 「1917年にロシアで革命が起こったのはなぜか?」と問われて、たった一つの原因しか述べない受験生は、「可」がもらえれば運がいいほうでしょう。

 歴史家は、多様な原因を扱います。ボルシェヴィキ革命の原因を考えるように求められたとき、歴史家はこのようなことを挙げるでしょう。ロシアの継続的な軍事上の敗北、戦争の圧迫によるロシア経済の崩壊、ボルシェヴィキの効果的なプロパガンダ、ツァーリ政府が農奴問題解決に失敗したこと、貧窮し搾取されたプロレタリアートがペトログラードの工場に集まっていたこと、レーニンは自分の考えをわかっていたが対立陣営のだれもそうではなかったこと――つまり、経済的・政治的・イデオロギー的・個人的ないろいろな原因、長期的・短期的な原因をランダムに寄せ集めます。

原因へのアプローチ方法(2)究極の原因を決める

 しかし、このことから、歴史家のアプローチ方法の第二の特徴が導かれます。

 わたしたちの質問に対して、ロシア革命の原因を十ほども次から次へと列挙するだけで満足する受験生は、「秀」はもらえるかもしれませんが、「優」はほとんど無理でしょう。「よく知っているが、想像力に欠ける」というのが、おそらく試験官の判断となるはずです。

 本物の歴史家は、自分が集めてきた原因のリストを前にして、専門家としての衝動に駆られるでしょう。すなわち、順序よくまとめ、他の原因との相互関係をもとにしてそれぞれの原因を階層化し、さらにどの原因(あるいはどの原因のカテゴリー)が「最後の手段として」あるいは「つまるところ」(歴史家の好きなフレーズです)究極の原因、すべての原因の原因であるかを決定するのです。これが、そのテーマに対する歴史家の解釈となります。そして、歴史家は、その人が引き出した原因によって知られることになります。

 ギボンは、ローマ帝国の衰亡の原因を、蛮族と宗教(キリスト教)の勝利にあるとしました。19世紀の英国ホイッグ史観の歴史家は、英国の勢力が高まり、繁栄がもたらされた原因を、立憲的な自由の諸原則を体現する政治制度が発展したことにあると考えました。ギボンと英国19世紀の歴史家は、今から見れば流行遅れに見えます。それは、近代の歴史家が最重要視している経済的な原因を無視しているからです。

 すべての歴史的な議論は、さまざまな原因の優先順位という問題を取り巻くものであるといえます。

歴史家は単純化と多様化の双方を同時に求める

 アンリ・ポアンカレは、前回の講義で引用しました著作の中で、このように指摘しております。科学というものは「多種多様さと複雑さに向かって」と同時に「統一と単純化に向かって」進歩するものであり、この双方向の、一見矛盾しているようにも見える過程が、知識の必要条件であった、と[4]

 これは歴史においても少なからず当てはまることです。歴史家は、自分の研究を広げ、深めていくことによって、「なぜ?」という疑問への答えをどんどん積み重ね続けていくのです。

 近年の経済史、社会史、文化史、法制史の急激な発展によって――もちろん、政治史の複雑さに対する最新の洞察や、心理学と統計学の新しい技術もそうです――わたしたちの答えの数も範囲も大きく増えてきました。

 バートランド・ラッセルは、このように述べております。「科学におけるあらゆる進歩によって、最初に見たときには分析されないひとかたまりのものにしか見えなかったものも、先行する原因と結果とが大いに区別されるようになり、さらに関係があると認識された先行する原因がたえず範囲を広げ続けていくようになる」[5]と。それは、歴史における状況をも正確に描いているといえます。

 しかし、歴史家は過去を理解することに熱中しているわけですが、科学者と同様に、自分の答えの多様性を単純化すること、ある答えを他の答えに従属させること、いろいろな出来事の混沌と特定の原因の混沌に秩序と統一をもたらすことを同時に求められます。

 「唯一なる神、唯一なる法則、唯一なる元素、唯一なるはるか昔の神のみわざ」あるいは、ヘンリー・アダムズが求めた「教育を受けたいという自分の叫びに答えてくれるような何らかの偉大な一般論」[6]――これらは今では古くさい冗談にしか聞こえません。しかし、歴史家が原因について、単純化と多様化を同じように通して作業しなければならないという事実には変わりありません。歴史は科学と同様、この双方向の、一見矛盾しているようにも見える過程を通して進歩していくものなのです。

カール・ポパーとアイザイア・バーリンの罪

 さて、このあたりで、あまり気乗りはしないのですが、わたしたちの進路に立ちふさがる二つのおいしそうな燻製ニシン(気を引いて人を惑わせる魅力的な情報)について扱わねばなりません――その一つには、「歴史における決定論、あるいはヘーゲルの悪意」というラベルが貼ってあり、もう一つには「歴史における偶然、あるいはクレオパトラの鼻」というラベルが貼ってあります。

 最初に、ここでこういうものが出てきた経緯について、一言二言申し上げねばなりません。カール・ポパー教授は、1930年代にウィーンで科学についての新しい知見についての大著を書いた方ですが(最近、これは"The Logic of Scientific Enquiry" というタイトルで英訳されました。※和訳は『科学的発見の論理』)、戦中にもっと一般向けの書物が二冊英語で出版されました。"The Open Society and Its Enemies"(『開かれた社会とその敵』第1部第2部)と"The Poverty of Historicism"(『歴史主義の貧困―社会科学の方法と実践』)です[7]

 これは、ナチズムの精神的な原型としてプラトンとともに扱われたヘーゲルに対する反発、また、1930年代の英国左翼の知的風潮としてのかなり浅薄なマルクス主義に対する反発という強い感情的影響のもとで書かれたものです。その主な標的は、ヘーゲルとマルクスの決定論的な歴史哲学なるものであり、「歴史主義(Historicism)」という侮蔑的な言葉でひとくくりにしています[8]

 1954年、アイザイア・バーリン卿が歴史の必然についてのエッセイを刊行しました。バーリン卿はプラトンへの攻撃はやめていますが、おそらくはオックスフォード主流派の古代の主柱への尊敬の名残によるものでしょうか[9]。バーリン卿はこの批判の論拠として、ポパーには見られないものも加えています。それは、ヘーゲルとマルクスの「歴史主義」はけしからぬものである。というのも、人間の行動を原因・因果という言葉で説明することによって、「人間の自由意志の否定」をほのめかし、「歴史におけるシャルルマーニュ、ナポレオン、スターリンに対して、道徳上の非難を宣言するという、歴史家に求められる責務(これは前回の講義でお話ししました)を避けて通るように促すものである」からだといいます。その他はあまり変わりはありません。

 しかし、アイザイア・バーリン卿は当然ながら人気があり、よく読まれている著者であります。過去五、六年のあいだに、我が国(英国)や合衆国で歴史についての文章や、歴史の本についてのまじめな書評を書いた人はほとんどだれもが、ヘーゲルとマルクスと決定論に対して知ったかぶりで軽蔑のしぐさで挑発し、歴史における偶然の役割について認識していないという不合理さを指摘してきました。

 おそらく、アイザイア卿にその弟子たちの責任まで負わせるのは適切ではないでしょう。バーリン卿は無意味なことを話しているときでも、愛嬌と魅力たっぷりな話し方をするので、大目に見てもらえるのです。その弟子たちは、無意味なことを繰り返していて、そこに魅力はありません。いずれにしても、これらすべてにおいて何も新しいものはありません。

 チャールズ・キングスリーは、近代史の欽定講座担任教授の中で最も目立つ人というわけではありませんが、おそらくヘーゲルを読んだりマルクスを聴いたりしたことはないでしょう。ところが、それにもかかわらず、1860年の就任講義において、人が持っている「自分自身の存在の法則を打ち破る神秘的な力」をもって、「必然的な連鎖」など歴史には存在しない証拠として述べたのです[10]

 しかし、幸運にもわたしたちはキングスリーなど忘れ去っていました。それを、ポパー教授とアイザイア・バーリン卿が一緒になって、この死んだ馬の背中にむち打って、生き返ったかのように見せたのです。この混乱をすっきりさせるために、いま少しご辛抱願います。

「ものごとには原因がある」という考え方

 それでは最初に決定論(Determinism)を取り上げましょう。この定義については――議論の余地はないと思いますが――起こったことすべてには一つまたは複数の原因があって、一つまたは複数の原因が違っていなければ確実に同じことが起こる、と信じるものです[11]

 決定論は、歴史の問題ではなく、全人類の行動の問題であります。行動にまったく原因もなく、そのために決定されていない人間など、以前の講義で論じたような「社会の外にいる個人」と同じように、机上の概念にすぎません。

 ポパー教授のいう「人間に関する事柄においては、何でもありえる」という主張[12]は、意味がないか、間違っているかのどちらかです。日常生活においてこんなことを信じる人はいませんし、これを信じられる人もいないでしょう。

 すべてのものには原因があるという原理は、わたしたちの周りで起こっていることを理解する能力の前提です[13]。カフカの小説の悪夢の本質は、起こったことが何も明らかな原因を持っていないこと、どんな原因も確かめられないということにあります。これは、人間の人格の完全な崩壊に導きます。人間の人格は、出来事には原因があるという仮定に基づいています。出来事の原因の大半は確認可能であるがゆえに、十分に筋の通った過去と現在のパターンを心の中に構築することができ、それによって行動の指針となるわけです。人の行動は原則的に確かめることのできる原因によって決められているのだという仮定がなければ、日々の生活は不可能になってしまうでしょう。

 その昔、自然現象は明らかに神の意志によって支配されているのだから、自然現象の原因を調べることは神への冒涜だと考えた人たちがいました。人間がなぜそのような行動をしたのかというわたしたちの説明に対して、アイザイア・バーリン卿が、これらの行動は人間の意志によって支配されているから、という理由で反論するのは、同じ考え方によるものです。そしておそらく、自然科学に対してこの種の主張が向けられた時代と同じ発展段階に、今、社会科学があるということなのでしょう。

日常生活における原因の探求

 日常生活でわたしたちがどのようにこの問題を処理しているか、見てみましょう。日々の仕事に取りかかるとき、スミスと顔を合わせるのが常だとします。天気についての話、あるいは大学の仕事の様子といった、感じはよいが無意味な発言をして挨拶します。スミスは同じように、天気や仕事の様子について、同じように感じはよいが無意味な返答をしてきます。

 ところが、ある朝スミスは、挨拶に対していつもと違って、いきなりあなたの個人的な外見や性格に対しての激しい攻撃を仕掛けてきたとしましょう。あなたは肩をすくめ、「これこそスミスの自由意志であり、人間のなすことは何でも可能だという事実についての説得力ある証明だ」と考えるでしょうか? そうは考えないだろうと思います。

 それどころか、おそらくこんなふうに言うでしょう。「かわいそうなスミス! もちろんわかってるよ、あいつのお父さんは精神病院で死んだんだ」とか、「かわいそうなスミス! 奥さんとの間がうまくいっていないに違いない」と。言い換えれば、スミスの一見原因のなさそうな行動についての原因を探ろうとするでしょう。それは、何らかの原因があるはずだという確固たる信念に基づいています。

 しかし、そうすることによって、アイザイア・バーリン卿の怒りを買うことにならないかと心配してしまいます。スミスの行動の原因論的説明をしようとしたあなたは、それによってヘーゲルとマルクスの決定論仮説を鵜呑みにすることになり、スミスを下劣な男として糾弾する責任を逃れようとしたのだ、とバーリン卿から激しく非難されるであろうからです。

 しかし、日常生活ではだれもそんな見方はしませんし、決定論だの道義的責任だのが危うくなっていると考える人もいません。自由意志と決定論についての論理的なジレンマは、現実生活では起こらないのです。

 人間の行動の中には自由なものもあり、決定されたものもある、というのでもありません。すべての人間の行動は、どのように考えるかという見地によって、自由にもなれば決定的にもなるということです。

 実際的な疑問はまた別です。スミスの行動にはある特定の原因、あるいはいくつかの原因がありました。しかし、それが何か外部からの強制によってではなく、自分自身の性格の衝動によって引き起こされている限り、スミスに道義的責任があるでしょう。ふつうの大人であれば、自分の性格にも道義的責任を有するというのが社会生活の前提だからです。この特定の事例において、スミスに責任があると考えるべきかどうかというのは、あなたの実際的な判断の問題です。

 しかし、もし責任があると考えたとしても、スミスの行動には原因がないとみなしたということにはなりません。原因と道義的責任は異なったカテゴリーにあるからです。

 最近、この大学に、犯罪学研究室と講座が設立されました。犯罪の原因を研究することに携わる人の中に、犯罪者の道義的な責任を否定するためにこの研究をしているのだ、などと考える人が出てくるはずもないことは確かだと思います。

歴史家における決定論

 さて、歴史家を見てみましょう。普通の人と同じように、歴史家は、人間の行動には原則として確認可能な原因があると信じています。もしこの仮定がなかったならば、歴史は、日常生活と同様に不可能なものとなってしまうでしょう。これらの原因を調査するというのは、歴史家に特有の働きです。このため、歴史家は、人間行動のあらかじめ決定された側面に特別な興味を抱くようになったのだとも思われます。

 しかし、歴史家は決して自由意志を否定しません――自由意志から出た行動には何の原因もないという、筋道の立たない憶測を除いては。

 また、歴史家は必然性の疑問にも悩むことはありません。歴史家は、他の人たちと同じように、ときには修辞的な言葉に陥って、ある出来事を「必然的(不可避的)」だと語ることがあります。そのときも、歴史家は単に、その出来事を予測するに至った要因のつながりが圧倒的に強かったということを述べているにすぎません。

 最近、わたしは自分自身が不愉快な言葉を使っていないか、過去を調べてみましたが、自分自身に完全に潔白な健康証明書を与えることはできませんでした。ある文で、わたしはこう書いていました。1917年の革命後、ボリシェヴィキとロシア正教会の衝突は「避けられないものであった」と。「極めてありえることだった」と言った方が賢明であったことは間違いありません。しかし、そういう訂正をすれば、少しばかり学者ぶりすぎるように見えるということで、勘弁していただけないでしょうか?

 実際のところ、歴史家は、ある物事がおこる前に、その出来事が避けがたいことであるなどと想定することはありません。

 歴史家たちは、選択が自由であるという仮定のもと、出演者が物語の中で取り得た別の道筋について論じることがしばしばあります。もっともそれは結局のところ、他の道筋ではなくその特定の道筋が最終的に選ばれることになったのはなぜか、という理由の説明を行なっているのです。

 歴史において「避けがたい必然であった」という言葉は、「もし別のことが起こっていたとすれば、それは先行する原因が違っていたはずである」という程度の形式的な意味しか持っていません。

 一人の歴史家として、わたしは「避けられない」「免れがたい」「不可避」「必然的に」といった言葉を一切使わずに済ませる準備が完全にできております。そうすれば人生はもっと単調なものになるでしょう。しかし、そういう言葉を使うのは詩人や哲学者に任せておくこととしましょう。

未練をもって現代史のIFを語ってはならない

 「避けがたい必然」という言葉に対してこのように非難するのは、不毛で無益なものにも思われますが、近年になってこの非難をしなければなるまいという情熱も高まってきております。そこで、その背後に隠された動機を明らかにしておかなければならないと思います。

 その主な根本的理由は、おそらく、わたしが「こうだったらよかったのに」派('might-have-been' school ※岩波訳:「未練」学派)と呼ぶものにあります。それは、思考における――いや、むしろ感情における――「こうだったらよかったのに」派なのであります。これは、ほとんど限定的に現代史に関するものです。

 前学期、ここケンブリッジでわたしはある講演会が「ロシア革命は避けられなかったか?」という演題で宣伝されているのを見ました。それは完全に真剣な講演会であったことは間違いありません。しかし、もし「バラ戦争は避けられなかったか?」という演題で講演会が宣伝されていたら、皆さんはすぐに何かの冗談ではないかと思うことでしょう。

 歴史家は、ノルマン・コンクエストやアメリカ独立戦争が、起こるべくして起こった事実であるかのように描きます。また、何が起こったのか、それはなぜなのかということをただ説明するのが仕事であるかのように描き出します。そして、そういうふうに書いた歴史家を決定論者だと非難したり、征服者ウィリアム1世やアメリカの反乱軍が敗れていたかもしれないもう一つの可能性について論じていないじゃないかと非難したりする人はいません。

 しかしながら、1917年のロシア革命についてまさにこの方針でわたしが書いたとき――もちろんそれは歴史家にとって唯一ふさわしい方法であったのですが――、「起こった出来事が起こるべくして起こったことであるかのように描写し、ほかに起こっていたかもしれないことをすべて精査していない」として批判されてしまったのです。ストルイピンが土地改革を完成させていたり、ロシアが戦争に参加しなかったら、おそらく戦争が起こらなかったであろう。ケレンスキー政府が成功したり、革命指導者がボリシェヴィキではなく、メンシェヴィキあるいは社会革命党に握られていたとしたらどうなっていたかを考えてみろ、というのです。

 これらの仮定は理論的には考えられることです。そして、だれでもいつでも、こういった歴史の「こうだったらよかったのに」というゲームで遊ぶことができます。

 しかし、それは決定論とは何の関係もありません。決定論者は、そういった物事が起こるためには別の原因が必要だった、と答えるだけのことだからです。

 また、こういったものは何も歴史とは関係ありません。

 ポイントはこういうことです。今日、ノルマン・コンクエストやアメリカ独立の結果を逆転したいとか、これらの出来事に対して激しい異議申し立てをしたいとか、真剣に望むような人はだれもいません。そして、歴史家がこういった出来事を集結した一章として扱っても、誰も反対したりしません。

 しかし、ボリシェヴィキの勝利という結果から直接あるいは間接に苦しんだり、あるいはもっと遠い未来の結果をまだおそれている人たちが多くいて、そういう人たちはこれへの抵抗を表わそうと望みます。そして、歴史を読んだときに、「起こりえたかもしれない」もっと好ましいものごとについてあれこれと想像力をほとばしらせ、一方で、自分の職務に実に忠実に、何が起こったのか、なぜその好ましい夢が実現されないで終わったのかという理由を説明する歴史家に対して、怒りをぶつけるという形をとって現われるのです。

 現代史についてのやっかいな問題は、あらゆる可能性がまだ取りえたころを人々がまだ覚えており、「そういった可能性は既成事実によって閉じられてしまった」と考える歴史家の態度を受け入れがたいものと考えることにあります。これは純粋に情緒的な反応であり、歴史的ではない反応です。

 しかし、それこそが「歴史の不可避性」と呼ばれている学説に反対する近頃のキャンペーンに大量の燃料を注いできたものなのです。これを最後に、この問題の本質をそらすような考え方を取りのぞいてしまいましょう。

「クレオパトラの鼻」と偶然の問題

 攻撃のもう一つの根源となっているのは、「クレオパトラの鼻」という有名な難問です。これは、歴史というのは全般的に偶然の連続、偶然の一致や運によって決定される一連の出来事であって、でたらめな原因にしか帰することができないという理論です。

 アクティウムの海戦の結果は、歴史家が通常当然だと仮定する原因のようなものによるのではなく、アントニウスがクレオパトラに夢中になったせいだ、というのです。

 バヤジット1世(オスマン・トルコ帝国、1360頃~1403)が通風の発作によって中央ヨーロッパへの進軍を思いとどまったとき、ギボンは、「一人の人間のたった一本の筋肉繊維が諸国の苦難を防いだり延期したりするというのは、痛烈なユーモアだ」と考えました[14]

 ギリシアのアレクサンドロス1世が1920年にペットのサルに噛まれて亡くなったとき、その事故は次々と事件を引き起こし、最終的にはウィンストン・チャーチル卿が「このサルの一噛みで25万人が亡くなった」と述べるに至りました[15]

 もう一つ、トロツキーは、1923年の秋にジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンと争っている重要な時期に、カモ猟のさなかに発熱して動きを封じられてしまったことがありました。これについて、トロツキーはこう述べています。「人は革命や戦争を予見することができるが、秋の野ガモ猟に行った結果まで予見することは不可能である」[16]と。

 最初にはっきりしなければならないことは、この疑問は決定論の問題と何の関係もないということです。クレオパトラにアントニウスが夢中になったこと、バヤジット1世の通風、トロツキーの発熱は、発生した他のあらゆることと同じく、原因によって決定されていたのです。アントニウスが惚れたことには何の原因もないと考えるのは、クレオパトラの美貌に対して何とも失礼なことです。女性の美しさと男性が惚れることについての関係は、日々の生活でも最も当たり前に見られる原因と結果の流れの一つです。

 すなわち「歴史上の偶然」と呼ぶならば、原因と結果のつながりが中断されたということになります――つまり、それは衝突といってもいいでしょう――。しかし、そのつながりこそ、歴史家が第一に調べようとしているものにほかなりません。ビュアリー(J. B. Bury)は、「二つの独立した因果の鎖の衝突」について語っていますが、それはまったくもって正しいことです[17]

 アイザイア・バーリン卿は、"Historical Inevitability"(歴史の必然性)についてのエッセイで、バーナード・ベレンソンの「歴史の偶然という見方」についての論文を称賛しながら引用していますが、この意味での偶然と、「原因によって決定されることがない」ということを混同している一人であります。

 しかし、この混乱は別としても、ある現実的な問題が手中にあります。わたしたちのつながりが何か別の、わたしたちの見地からすれば筋違いのつながりによって壊されたり逸らされたりしそうなとき、歴史における首尾一貫した原因と結果の連なりをどのようにして発見したらよいのでしょうか。歴史における意味をどのように発見したらいいのでしょうか。

「偶然」という都合のいい見方は敗者の言い訳

 ここで一休みして、歴史における偶然の役割について最近広まっている見解の源泉に注目してみましょう。

 ポリュビオスは系統だった方法でこのことを考えた最初の歴史家であったように思われます。そして、ギボンはその理由を素早く見抜きました。ギボンはこう考えました。「ギリシア人は、自分たちの国家が一地方に落とされた後、ローマの勝利を共和国の長所によるものではなく幸運だったからだということにした」[18]

 タキトゥスもまた自らの国の衰退について書いた歴史家ですが、この人こそ、偶然について広範に熟考したもう一人の古代の歴史家でありました。

 歴史上の偶然を重要視するこだわりを英国の著者がよみがえらせたのは、不確実性と不安の気分が高まってからのことで、それは今世紀(20世紀)に始まり、1914年以降顕著になりました。

 長い空白の後、この音符を再び奏でた最初の英国の歴史家は、ビュアリーのようです。ビュアリーは1909年「歴史におけるダーウィニズム」についての論文で、「偶然の一致という要素」への注意を引いています。それは大いに「社会的進化における事件を決定するのに役立つ」というのです。そして、このテーマを扱った別の論文が1916年、「クレオパトラの鼻」というタイトルのもとで出されました[19]

 H.A.L.フィッシャーは、すでに引用しました文章の中で、第一次世界大戦後の自由主義の夢の失敗に対する幻滅を反映して、読者に対して、歴史における「偶発事件と不測の出来事の作用」を認識するように求めています[20]

 「歴史とは偶然の出来事の連続である」という歴史理論がこの国で流行ったのは、フランスにおいて、実存は「原因も理由も必然性も」持っていない――サルトルの有名な『存在と無』からの引用です――と説く哲学者たちの学派が勃興したのと時を同じくしております。

 ドイツでは、老練な歴史家マイネッケが、すでに述べましたとおり、晩年に至って、歴史における偶然の役割を重視するようになっていきました。マイネッケは、偶然に十分な注意を払わなかったとして、ランケを非難しました。そして第二次世界大戦後、マイネッケは過去40年間の国際的な惨禍を一連の偶然のせいにしたのです。ドイツ皇帝の虚栄心、ヴァイマル共和国の大統領にヒンデンブルクが選ばれたこと、ヒトラーの脅迫観念的性格などなど――これは偉大な歴史家の思考が自国の不幸というストレスのもとで崩壊したということです[21]

 歴史的な出来事において、峰ではなく谷底を歩んでいくある集団やある国家において、歴史における偶然や偶発の役割を強調する理論が流行していることがわかります。試験結果なんてみんな運次第だという見方は、「可」しかもらえなかったような人たちの間では人気があるのです。

マルクス主義者による偶然観の欠点

 しかし、ある信念の根源を暴いたからといって、その信念を処分したことにはなりません。そして、クレオパトラの鼻が歴史のページにおいてなしたことが何なのかについて、正確なところを明らかにしなければなりません。

 モンテスキューは、この見解に対して、歴史の法則を守ろうとした最初の人であったように思われます。モンテスキューはローマの興亡について書いた作品で、このように述べています。「ある戦闘の偶然の結果というようなある特定の原因が一つの国家を滅ぼしたという場合、ある一つの戦闘のためにこの国家が滅亡してしまうような大きな原因があったのだ」と。

 マルクス主義者も、この問題については少々厄介だと考えてきました。マルクスはただ一度だけ、それも手紙の中だけで、こう書いています。

 もし歴史において偶然が入り込む余地がまったくなければ、世界の歴史は非常に神秘的な性格のものとなっていたことだろう。この偶然そのものはもちろん、ものごとの進展の一般的な趨勢の一部に溶け込んでいき、他のいろいろな形の偶然によって補正されていく。しかし、ものごとの進展が加速したり停滞したりするのは、このような「偶発的なできごと」によるのである。それは最初から運動の頭に立つ人たちの「偶然の」性格のようなものも含まれる[22]

 このように述べることで、マルクスは歴史における偶然について3つの点で言い訳しています。第一に、偶然はそれほど重要なものではないということです。「加速」や「停滞」はあるかもしれない、ということは、出来事の流れを根本的に改変してしまうことはありえないということになります。第二に、一つの偶然が他の偶然によって補正されるということです。そのため、結局のところ、偶然は偶然によって相殺されてしまうのです。第三に、偶然が特に個人の性格について述べられているということです[23]

 トロツキーは、巧妙なたとえによって、偶然が補正しあってお互いに相殺されるという理論を補強しました。

 歴史全体の過程は、偶然を通して、歴史の法則が屈折したものである。生物学の用語を使えば、歴史の法則は、偶然による自然選択(自然淘汰)を通して実現されると言ってもいいかもしれない[24]

 これらの理論は満足できるものではなく、説得力がないと言わねばなりません。

 たしかに、歴史における偶然の役割は、最近、偶然の重要性を強調したがっている人たちによって誇張されすぎているきらいはあります。しかし、偶然そのものは実際に存在します。「加速や停滞をもたらすだけであって改変するわけではない」というのは、言葉をもてあそんでいるにすぎません。また、偶然に起こった出来事――たとえば、レーニンが54歳という若さで亡くなったこと――が、この説のいうように、歴史的な過程のバランスを保つために、何らかの別の偶然によって自動的に補正された、というようなことを信じるに足る理由も見あたりません。

「偶然とは理解できないものに付けられた名前」ではない

 同様に不適切なものとして、歴史における偶然は単にわたしたちの無知による限界にすぎない――わたしたちが理解できないものに付けられた名前にすぎない、という見方があります[25]

 もちろん、間違いなく、こういうことはよくあることです。

 惑星という言葉が生まれたとき、その意味はもちろん「さまようもの」という意味でありました(※訳注:英語のplanetは、古フランス語←ラテン語←ギリシア語にさかのぼり、語源となったギリシア語planaomaiは「さまようもの」という意味がある。日本語の「惑星」はコペルニクスの著書の江戸時代の翻訳による)。当時、惑星は空をランダムにさまよっているとおもわれており、その動きの規則性は理解されていなかったのです。

 ある出来事を不運な出来事として記述するのは、その原因を調べるといううんざりするような作業から逃れようとするときに好まれる方法であります。ですから、誰かが「歴史は偶然の連続である」と言ってきたら、わたしはその人が知的作業をさぼっているのか、それとも知力が弱いのかと疑うことでしょう。今まで偶然として扱われてきたある出来事が実は偶然ではなく、合理的に説明することができ、もっと広い出来事のパターンに意味のある形で当てはめることができるということを指摘するのは、まじめな歴史家にはおなじみの作業です。

 しかし、これはわたしたちの疑問に完全に答えているわけではありません。偶然というのは、単に、わたしたちが理解しえないものというだけではないのです。歴史における偶然の問題の解決方法は、まるで違った思考の方法に求められなければならない、とわたしは信じています。

歴史家は偶然を重要な原因とは考えない

 以前の段階で、歴史というものは歴史家が「事実」を選択して整理することから始まり、それが「歴史的事実」となるのだ、ということを見てきました。すべての「事実」が「歴史的な事実」であるというわけではありません。しかし、「歴史的事実」と「歴史的ではない事実」との区別も、厳密で不変のものではありません。さらに、いかなる「事実」も、いったん妥当性と重要性が認められたならば、「歴史的事実」としての地位に昇格することができます。

 歴史家が「原因」にアプローチする作業において、それといくらか似たプロセスをたどるのを見ていくこととしましょう。

 歴史家とその歴史家が考えた「原因」との関係は、歴史家とその歴史家が考えた「事実」との関係と同じく、二重の、そして双方向的な性質を持っています。原因は、歴史的プロセスについての歴史家の解釈を決定づけますし、その解釈は歴史家による原因の選択・整理を決定づけます。原因の階層、すなわちある原因や一連の原因の組み合わせと別の原因との間の相対的な重要性というものが、その解釈の本質であります。

 そして、これは歴史における偶然という問題を解く手がかりとなります。クレオパトラの鼻の形、バヤジットの通風、アレクサンドロス王を死なせたサルの一噛み、レーニンの死――これらは歴史の進路を変えた偶然でした。これらの偶然を隠してしまおうとしたり、何らかの方法でこれらの偶然には効果がなくなったと主張しようとするのは、無駄なことです。一方で、それらが偶然である限り、歴史の合理的な解釈、すなわち歴史家の考える重要な原因の階層には入らないのです。

 ポパー教授やバーリン教授は――わたしがこの二人を何度も引用するのは、この学派の最も有名かつ広く読まれている代表者だからであります――このように考えています。歴史的過程に重要性を見いだし、そこから結論を引き出そうとする歴史家の試みは、「経験の全体」を均整のとれた秩序に収めてしまおうとするのと同等のことであって、歴史における偶然によってそういった試みはどれも失敗に終わる運命にあるのだ、と。

 しかし、正気の歴史家であれば、「経験の全体」をすべて扱おうというような途方もないことをする人はいません。歴史家は、自分の選んだ分野や歴史の側面についてさえも、事実のほんの一部の断片だけしか扱えないのです。歴史家の世界は、科学者の世界と同じく、現実世界を写真に写したものではなく、多かれ少なかれ現実世界を効率的に理解・精通できるようにするようなワーキング・モデルなのです。

 歴史家は、過去の経験から、すなわち、自分の手に入る範囲の過去の経験から、合理的な説明と説明に従って受け入れられる範囲のものを抽出して、そこから行動指針として使えるような結論を導き出します。

 最近人気のある著者が科学の業績について話したとき、人間の思考プロセスについてわかりやすく述べています。すなわち、「観察された『事実』が詰まったがらくた袋をかき回しながら、問題に関連している『観察された事実』を選び出し、つなぎ合わせ、形を作っていき、その一方で不適切なものを捨てていく。そして、『知識』という名の論理的・合理的なキルトを縫い上げるのである」と[26]

 主観主義すぎるという危険があるという条件付きではありますが、わたしは、歴史家の思考の働き方についての描写としてこれを受け入れるべきだと思います。

意味のある原因と意味のない原因を区別する

 この手順は、哲学者を悩ませ、ショックを与えるかもしれません。あるいは、一部の歴史家にとっても。しかし、この手順は、生活において実際的な仕事をしている普通の人たちにとっては、完全におなじみのものです。

 例を挙げてみましょう。ジョーンズは、ふだんよりも多めにアルコールを飲んだパーティーから帰る途中、ブレーキの調子が悪かった車に乗って、視界が悪いことで有名な見通しのきかない角で、ロビンソンを轢き殺してしまいました。ロビンソンは、その角にあるお店にタバコを買いに行こうとして道を渡っていたのです。

 騒ぎがおさまってから、たとえば地元の警察署あたりに集まって、この事故の原因を調査したとしましょう。それは運転手のほろ酔い状態のせいでしょうか?――その場合、起訴されるかもしれません。あるいは、欠陥のあるブレーキのせいでしょうか?――その場合、わずか一週間前に車をオーバーホールした自動車修理工場に何かいうべきでしょう。あるいは、見通しがきかない角のせいでしょうか?――その場合、道路担当の役所の人を招いて注意を向けさせるほうがいいでしょう。

 さて、わたしたちがこういった実際的な問題について論じているとき、二人の著名な紳士が――もう名前は言いませんよ――部屋に乱入してきて、たいへん流暢に説得力ある口調で、こう言ったとします。「もしロビンソンがその晩、たまたまタバコを切らしていなかったら、道を渡ることもなかっただろうし、死ぬこともなかっただろう。つまり、タバコを吸いたいというロビンソンの欲望こそが、その死の原因なのである。そして、この原因を無視する調査はいずれも時間の浪費にしかならないし、そういったものから導かれる結論はいずれも意味がなく、役に立たないのである」と。

 さて、わたしたちはどうしましょうか? その滔々たる弁舌を遮ることができたら、すぐに二人の訪問者をていねいに、しかし断固として扉の外に追い出し、門番に絶対あの二人を中に入れるなと命じて、自分たちの調査を続けることでしょう。

 しかし、妨害者たちに対して答えるとしたら、わたしたちはどんな答えができるでしょうか?

 もちろん、ロビンソンが死んだのは、喫煙者だったからです。歴史における偶然や偶然性を熱烈に信じる人たちが言うことは、どれもが完璧に正しく、完璧に論理的です。それは、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』に見られるような冷徹な論理のようなものを有しています。オックスフォードの学識者のこういったすばらしい見本に対して称賛することについて、わたしは誰にも劣りませんが、しかし、わたしの別の論理方式はこれとは別の区画に置いておきたいのです。ドジソン方式(※ルイス・キャロル方式)は歴史における方法ではありません。

歴史とは、歴史的重要性に基づく選択プロセス

 すなわち、歴史というのは、歴史的重要性という点から見た選択プロセスなのです。

 タルコット・パーソンズ(※アメリカの社会学者)の言葉をもう一度借りるとしましょう。歴史とは、真実に対する態度として、経験的事実認識に基づく態度だけでなく、因果関係による態度を「選択するシステム」なのです。

 無限に広がる事実の大海の中から、歴史家は、自分の論点にとって重要なものを選び出します。原因と結果の多様な連鎖の中から歴史家はそれらを、歴史家にとって重要なもののみを引き出します。そして、歴史的重要性の基準は、合理的な説明と解釈のパターンに歴史家がそれを当てはめることができるかどうかということです。

 それ以外の原因と結果の連鎖は偶然として却下されることになりますが、それは原因と結果の関係が違っているからではなく、連鎖そのものが無関係だからです。歴史家は、そのような連鎖は何も扱えません。それは合理的な解釈に従うこともできず、過去にも現在にも無意味なのです。

 クレオパトラの鼻、バヤジットの通風、アレクサンドロスのサルの一噛み、レーニンの死、ロビンソンの喫煙が結果を生み出したというのは事実です。しかし、「将軍たちが戦闘に敗れるのは美しい女王にのぼせるからだ」とか、「種々の戦争が起こるのは国王たちがサルを飼うからだ」とか、「人々が道で轢かれて死ぬのは喫煙するからだ」というように、普遍的な命題として述べるなら、まったく意味をなしません。

 一方、普通の人に対して、「ロビンソンが死んだのは運転手が酔っぱらっていたからだ」とか「ブレーキが働かなかったからだ」とか「その道に見通しのきかない角があったからだ」と言ったとすれば、これは完全に意味のある合理的な説明だと思ってもらえるでしょう。さらに、その人が慎重に峻別しようとするならば、ロビンソンの喫煙衝動ではなくこれこそがロビンソンの死の「本当の」原因である、とまで述べるかもしれません。

 同じように、もし歴史研究者に対して、「1920年代のソヴィエト連邦において闘争が起こったのは、工業化の進度について、あるいは都市部を養うための穀物を育てるように農民にすすめる最善の方法についての論議によるものであった」とか、「対立する指導者たちの個人的野心によるものでもあった」と言うなら、これらは合理的で歴史的に重要な説明であると思ってもらえるでしょう。それは、他の歴史的状況にも当てはまるという意味においてです。そして、それこそが起こった出来事の「本当の」原因であって、レーニンの早すぎる死という偶然の出来事は本当の原因ではないと言うでしょう。

 こういったことについて熟考しがちな人であれば、ヘーゲルの『法の哲学』の序論の、よく引用されているけれどもよく誤解されている見解、すなわち「理性的(合理的)なものは現実的なもの(真実のもの)であり、現実的なもの(真実のもの)は理性的(合理的)である」を思い出すかもしれません。

目的の役に立つ説明と役に立たない説明

 今しばらく、ロビンソンの死の原因に戻りましょう。ある原因は合理的かつ「真実」であり、別のある原因は不合理で偶然のものであった、と認識するのは難しいことではありませんでした。しかし、どんな基準によってわたしたちは区別したのでしょうか?

 論理的に考える能力は、通常、何らかの目的のために使われるものです。知識人は、ただ単に楽しみのために、論理的に考えたり、あるいは論理的に考えていると思ったりすることもあります。しかし、おおざっぱに言って、人間というものは、ある目的のために論理的に考えるのです。

 そして、ある説明が合理的であり、他の説明が合理的でないと認識したとき、わたしたちは、ある目的に役立つ説明と、役立たない説明との区別をしたのだ、とわたしは主張いたします。

 ここで述べられている件でいえば、運転手がアルコールの摂取をひかえたり、ブレーキの状態をもっと厳しく検査したり、道路の状況を改善したりするならば、交通事故の死者数を減らすという目的に役立つだろう、と考えることは意味があることでした。しかし、交通事故の死者数は人々に喫煙をやめさせれば減るのだ、と考えれば、まったく意味をなしませんでした。これこそ、わたしたちが区別を行なうときに使った基準なのです。

 そして、同じことが歴史の原因に対する態度においても当てはまります。ここでも、わたしたちは合理的な原因と偶然的な原因を区別します。合理的な原因は、潜在的に他の国々、他の時代、他の状況でも当てはまるものでありますから、普遍化すれば実りの多いものであり、そこから教訓を学ぶことができます。それはわたしたちの理解を広げ、深めるという目的に役立つのです[27]

 偶然的な原因は、普遍化することができません。そして、言葉の意味からしてそれは他に類のない唯一のものですから、何の教訓ももたらさず、何の結論に導くこともありません。

 しかし、ここでわたしは別の説得をしなければなりません。

 歴史における因果関係の論じ方に対するカギを提供してくれるのは、まさにこの、考察における「目的」という概念なのです。そして、これは必ず価値判断を伴います。

 歴史の解釈は、前回の講義で見てきましたように、常に価値判断と堅く結びついております。そして、因果関係は解釈と堅く結びついているのです。

 マイネッケはこう述べております――偉大であったころのマイネッケ、1920年代のマイネッケであります――「歴史における因果関係を探ることは、価値への言及なくしては不可能である……因果関係を探ることの背後には、直接・間接に常に価値を探ることが存在している」[28]

 そして、ここから思い出されることは、わたしがすでに述べたことですが、歴史の二重の相互作用――すなわち、現在に照らして過去についての理解を進める一方で、過去に照らして現在についての理解を進めること――なのです。アントニウスがクレオパトラの鼻にメロメロになったというような、この二重の目的に役立たないことは何であろうとも、歴史家の見地からすれば死んだも同然の不毛なものなのです。

歴史における過去と現在と未来

 このあたりで、わたしが仕掛けてきましたちょっと卑劣なトリックを白状する段階となりました。もっとも、皆さんはそれをたやすく見抜かれたことでしょうし、わたしの方もいくらか時間を短縮して言いたいことを簡略化することができましたので、便利な短縮表現の一つとして大目に見てくださったのだろうと思います。

 わたしはここまで一貫して「過去と現在」という型どおりの言葉を使ってきました。しかし、だれでもわかることですが、現在というのは、過去と未来の間を分ける想像上の境界線という、抽象的な概念にすぎません。現在について語るとき、わたしは議論の中にこっそりと別の時間の広がりを持ち込んでいたわけです。

 過去と未来は同じタイムスパンの一部でありますから、過去についての関心と未来についての関心が相互に結びつけられていることを示すのは簡単だろうと思います。先史時代と歴史時代の境界線は、人々が現代にのみ生きることをやめ、自分たちの過去と現在の両方に常に関心を持つようになったときと重なっています。

 歴史は、伝統を伝えることから始まりました。そして、伝統とは、過去の習慣や教訓を未来にもたらすことを意味しています。過去の記録は、未来の世代の利益のために保存されるようになったのです。

 ドイツの歴史家ホイジンガはこう書いています。「歴史的な思考は、かならず目的論的である」と[29]

 チャールズ・スノー卿は最近、ラザフォードについて「すべての科学者と同じく……それが何を意味するかなどほとんど考えることなく、未来というものを肌で感じ取っていた」[30]

 よい歴史家は、それについて考えているかどうかは別にして、未来というものを肌で感じ取っていると思います。「なぜ?」という疑問だけでなく、歴史家は「その将来はいかに?」という疑問も抱くものなのです。

原注

  1. F. M. Cornford. Thucvdides Mythistoricus, passim.
  2. 『法の精神』序章と第1章。
  3. Memorials of Alfred Marshall, ed. A. C. Pigou (1925), p. 428.
  4. H. Poincare, La Science et l'hypothèse (1902), pp. 202-3.(ポアンカレ『科学と仮説』)
  5. B. Russell, Mysticism and Logic (1918), p. 188.(バートランド・ラッセル『神秘主義と論理』)
  6. The Education of Henry Adams (Boston, 1928), p. 224.(ヘンリー・アダムズ『ヘンリー・アダムスの教育』)
  7. "The Poverty of Historicism"は1957年に初めて書籍の形で出版されましたが、その元になった論文は1944年と1945年に発表されています。
  8. 厳密さが求められない数か所を除いて、わたしは「歴史主義」という言葉を避けてきました。それは、この主題についてポパー教授の著書は広く読まれていますが、その著書がこの言葉の正確な意味を空虚なものにしてしまったからです。用語の定義について常にこだわるというのは、衒学的なものです。しかし、人は自分が何について話しているかについてわかっていなければなりません。ポパー教授は「historicism」という言葉を、自分の嫌いな歴史に関する意見なら何でも一切合切含むものとして使っています。その中には、わたしには論理的に正しいと思えるものもあれば、今日のまじめな書き手なら書かないんじゃないかと思えるようなものも混じっています。ポパー教授自身が認めているように(Poverty of Historicism, p. 3)、有名な「歴史主義者(historicist)」が誰一人使ったことのない「歴史主義者(historicist)」という主張を発明したのは教授なのです。その著書において、歴史主義は、歴史を科学に同化吸収する学説と、この二つを鋭く区別する学説の両方をカバーしています。『開かれた社会とその敵』では、予言することを避けたヘーゲルが、歴史主義の主唱者として扱われています。『歴史主義の貧困』の前書きでは、歴史主義は「歴史的な予言が主要な目的であると想定する社会科学へのアプローチ法」と書かれています。これまで、「歴史主義(historicism)」はドイツ語の「Historismus」の英訳として使われてきました。今や、ポパー教授が「historicism」を「historism」と区別し、それによってすでに混乱した使われ方をしていたこの言葉に、さらに混乱する要素を加えてしまったのです。M. C. D'Arcy, The Sense of History: Secular and Sacred (1959), p.11,では、「historicism」という言葉を「歴史哲学と同じ」として使っています。
  9. しかし、プラトンを、最初のファシストを生み出した者として攻撃するのは、オックスフォードの人間であるR. H. Crossmanの"Plato Today"(1937-)による一連の放送に始まる。
  10. C. Kingsley, The Limits of Exact Science as Applied to History (1860), p. 22.
  11. 決定論(Determinism)とは、データがそのようなものであれば、起こったことは何であれすべて決定的に起こったのであり、異なることはありえなかった、という意味である。異なる結果が起こるのは、データが異なっている場合のみであるということになる。(S. W. Alexander in Essays Presented to Ernst Cassirer, 1936, p. 18).
  12. K. R. Popper, The Open Society (2nd ed., 1952), ii, p. 197.
  13. 「因果律(原因と結果の法則)は、世界によってわたしたちに押しつけられたものではない」。しかし、「おそらく、我々が世界に適応するのに最も便利な方法なのだ」。(J. Rueff, From the Physical to the Social Sciences, Baltimore, 1929, p. 52). ポパー教授自身(The Logic of Scientific Enquiry, p. 248)、原因と結果の法則を信じることを「よく適合した方法論的規則を哲学的に具体化したもの」と述べています。
  14. Decline and Fall of the Roman Empire, ch. lxiv.
  15. W. Churchill, The World Crisis: The Aftermath (1929), p. 386.
  16. L. Trotsky, My Life (Engl. transl., 1930), p. 425.
  17. ビュアリーのこの点についての議論は、The Idea of Progress (1920) pp. 303-4参照。
  18. Decline and Fall of the Roman Empire, ch. xxxviii. ギリシア人もまた、ローマ人に征服された後には、同じように歴史の「こうだったらよかったのに」ゲームにふけったということに注目すると、興味深く思えます。それはすなわち、敗者の好む慰めでありました。ギリシア人たちはこう言いあったのです。もしアレクサンドロス大王が若くして死ななかったら、「大王は西洋を征服しており、ローマはギリシアの王に服属していたことだろう」と(K. von Fritz, The Theory of the Mixed Constitution in Antiquity, N.Y., 1954, p. 395).
  19. どちらの論文も J. B. Bury, Selected Essays (1930)に収録されている。ビュアリーの見解についてのコリングウッドのコメントについては、The Idea of History, pp.148-50 を参照。
  20. 引用文については原著43ページ参照。フィッシャーの見解についてトインビーが「A Study of History」v. p.414(『歴史の研究』)で引用した部分には、完全な誤解があることがわかります。トインビーはそれを「現代西洋における、偶然を全能とみる信念」の産物であるとみなしています。それは無干渉/自由放任主義を「生み出した」といいます。自由放任主義の理論家たちは、偶然を信じておらず、人の行動の多様性における有益な調和にかざされた隠れた手を信じていました。そしてフィッシャーの発言は、自由放任・自由主義の産物ではなく、1920年代から1930年代に自由放任自由主義が崩壊した結果なのです。
  21. 関連する一節は、F. Meinecke, MachiavellismのW.Starkによる序文(pp. xxxv-xxxvi)で引用されています。
  22. Marx and Engels, Works (Russian ed.), xxvi, p. 108.
  23. トルストイは『戦争と平和』エピローグ1で、人間が究極の原因を知ることができないということを表現した言葉であるとして、「偶然」と「資質」を同等に扱っています。
  24. L. Trotsky, My Life (1930), p. 422.
  25. トルストイはこの見解を採用しました。「わたしたちは不合理な出来事、すなわち、合理性をわたしたちが理解できない出来事を説明するためには、運命論に陥らざるをえない」(War and Peace, Bk ix, ch.i)。また、101ページの3つめの注で引用した文章も参照
  26. L. Paul, The Annihilation of Man (1944), p. 147.
  27. ポパー教授はあるときこの点にぶつかりましたが、それを見いだすことはできませんでした。(二つの言葉の正確な意味はさておき)「暗示的であることと、恣意的であることとの双方と基本的に同じレベルにある解釈の大多数」を認めておきながら、「その中には、実りの多さにおいて際だったものもある――それは幾分重要なポイントだ」と括弧つきで述べています(The Poverty of Historicism, p. 151)。それは、実際には「幾分重要」なポイントなどではなく、(いくつかの意味における)「歴史主義(historicism)」が結局、それほど程度の低いものではないことを証明するポイントなのですが。
  28. Kausalitaten und Wene in der Geschichte (1928), translated in F. Stern, Varieties of History (1957), pp. 268, 273.
  29. J. Huizinga, translated in Varieties of History, ed. F. Stern (1957), p. 293.
  30. The Baldwin Age, ed. John Raymond (1960), p. 246.

参考文献