江戸を東京と為すの詔書

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江戸を東京と為すの詔書(えどをとうけいとなすのしょうしょ)は、明治元年七月十七日(1868年9月3日)に明治天皇が発した詔勅である。

この詔書に正式の名称はない(江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書 - Wikipedia)。この詔書によって江戸を東京と呼ぶことが決まった。

原文

詔書

朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ

辰七月

副書

慶長年間幕府ヲ江戸ニ開キシヨリ府下日々繁榮ニ趣キ候ハ全ク天下之勢斯ニ歸シ貨財隨テ聚リ候事ニ候然ルニ今度幕府ヲ被廢候ニ付テハ府下億萬之人口頓ニ活計ニ苦ミ候者モ可有之哉ト不便ニ被

思召候處近來世界各國通信之時態ニ相成候テハ專ラ全國之力ヲ平均シ

皇國御保護之目途不被爲立候テハ不相叶御事ニ付屡東西

御巡幸萬民之疾苦ヲモ被爲問度深キ

叡慮ヲ以テ

御詔文之旨被 仰出候孰レモ篤ト 御趣意ヲ奉戴シ徒ニ奢靡之風習ニ慣レ再ヒ前日之繁榮ニ立戻リ候ヲ希望シ一家一身之覺悟不致候テハ遂ニ活計ヲ失ヒ候事ニ付向後銘々相當之職業ヲ營ミ諸品精巧物産盛ニ成リ行キ自然永久之繁榮ヲ不失樣格段之心懸可爲肝要事

現代語訳

詔書

朕は今、すべてのことを自ら裁断することとなり、億兆の民をなだめて安らかにさせる。江戸は東国第一の大都市であり、四方から集まってくる地であるから、自ら臨んでそのまつりごとをみるべきである。よって、今より江戸を称して東京とする。これは朕の海内一家、東西同視するためである(京都と江戸を対等に見ている)。皆はこの意を体現するように。

副書

慶長年間に幕府を江戸に開いてから(慶長八年(1603)江戸開府)、府下は日々繁栄していき、まったく天下の勢いはここに帰し、貨幣・財物は集まったのである。さて、このたび、幕府を廃されたため、府下億万の住人の中には、にわかに生計に苦しんでいる者もあるだろうかと陛下は不憫に思われた。また、近来、世界各国通信の事態になっているため、もっぱら全国の力を平均し、皇国ご保護の目途を立てなければならない。そこで、しばしば東西御巡幸し、万民の苦労をも問いたいという深い叡慮をもって、御詔文を下されたのである。しかし、いずれもしかとその趣意を奉戴せよ。いたずらにぜいたくで華やかな風習に慣れ、再び前日の繁栄に立ち戻ることを希望し、一家一身の覚悟をなさないならば、結局は生計を失うことになる。だから、今後、銘々相当の職業を営み、いろいろな品物は精巧に、物産は盛んにしていって、自然に永久の繁栄を失わないよう、格段の心がけをなすのが肝要である。

意義

「江戸を東京(とうけい)と為すの詔書」は、「海内一家東西同視」とあるように、京都とならんで東京を都として立てること(両京並立)を宣言したものであり、京都を捨てて東京に移るという意味ではない。西の京都に対する東の京という意味合いで「東京」と呼ぶことにしたものである。

また「屡東西御巡幸」とあるとおり、この時点では京都と東京を行き来することが宣言されていた。このことも、京都・東京の両京並立を意味している。

もっとも、これは京都から天皇陛下が離れることについて、京都の人々が反対しないように考慮したための方便とも考えることは可能である。